>>> 本能寺の変の定説は打破された!
本能寺の変の通説として広まっている怨恨説、野望説、光秀単独犯行説、秀吉中国大返し偉業説、信長残虐性格説などの元ネタは羽柴秀吉が作り、それを江戸時代の軍記物(『太閤記』や『明智軍記』)が膨らませものであること、そして現代の歴史小説家が軍記物を材料に使ってベストセラーを連発し、さらにそれを原作としたテレビ・映画が繰り返し放映されて広まったものであることは、このブログで度々説明してきました。秀吉の作り話が四百年に渡って拡大再生産され続けてきているのです。
さらに、これを裏で強固に支えて「定説」にしてしまったのが歴史研究界です。
その実像をこのブログで「定説の根拠を斬る!」シリーズに書きました。
また、この定説作りの祖ともいうべき高柳光寿氏『明智光秀』に書かれている高柳説の論拠の非合理性を「信長は謀略で殺されたのだ 偶発説を嗤う」シリーズに書きました。
未読の方は是非お読みください。
通説・定説に疑問を抱いている方はすっきりすると思います。
既読の方はこのページをお知り合いにご紹介いただけると幸いです。
【定説の根拠を斬る!シリーズ】
通説を作った羽柴秀吉『惟任退治記』
軍神豊臣秀吉が歪めた本能寺の変研究
定説の根拠を斬る!「中国大返し」
定説の根拠を斬る!「安土城放火犯」
定説の根拠を斬る!「神君伊賀越え」
定説の根拠を斬る!「神君伊賀越え」(続き)
定説の根拠を斬る!「神君伊賀越え」(最終回)
定説の根拠を斬る!「朝倉義景仕官」
定説の根拠を斬る!「光秀の敗走とその死」
定説の根拠を斬る!「光秀の敗走とその死」その2
定説の根拠を斬る!「光秀の敗走とその死」その3
定説の根拠を斬る!「光秀の敗走とその死」その4
【信長は謀略で殺されたのだ 偶発説を嗤うシリーズ】
信長は謀略で殺されたのだ:本能寺の変・偶発説を嗤う
信長は謀略で殺されたのだ:本能寺の変・偶発説を嗤う(続き)
信長は謀略で殺されたのだ:本能寺の変・偶発説を嗤う(完結編)
信長は謀略で殺されたのだ:本能寺の変・偶発説を嗤う(駄目押し編)
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>>>本能寺の変 四二七年目の真実
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さらに、これを裏で強固に支えて「定説」にしてしまったのが歴史研究界です。
その実像をこのブログで「定説の根拠を斬る!」シリーズに書きました。
また、この定説作りの祖ともいうべき高柳光寿氏『明智光秀』に書かれている高柳説の論拠の非合理性を「信長は謀略で殺されたのだ 偶発説を嗤う」シリーズに書きました。
未読の方は是非お読みください。
通説・定説に疑問を抱いている方はすっきりすると思います。
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【定説の根拠を斬る!シリーズ】
通説を作った羽柴秀吉『惟任退治記』
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定説の根拠を斬る!「神君伊賀越え」
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定説の根拠を斬る!「光秀の敗走とその死」その2
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信長は謀略で殺されたのだ:本能寺の変・偶発説を嗤う
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>>>本能寺の変 四二七年目の真実
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元神主家の古文書はほかにもあるように思うのですが、これら旧家の建て替えに伴って、散逸してしまわないか心配です。
明智様のルーツ探しが成功いたしますよう。。
わたしも明智様のこのブログで光秀公に以前に増して関心が出てまいりました。どうぞこれからもよろしくお願い申し上げます。
今回いただいた情報をヒントにルーツ探しをしてみたくなりました。
家紋についても不案内なものですから、例の、ヤフーの知恵袋に聞いてみたときの回答があります。次の通りです。
◎知恵袋に問い合わせたときの回答:
「上がり藤」ですね
藤紋は藤原氏の家紋で、一般的には「下がり藤」が使われています。
「上がり藤」は本家と分家を区別するためにつくられた家紋です。
藤原氏の分家といえども、それなりの家柄ということなので由緒ある家紋と言ってよいと思います。
回答は以上です。
古文書のなかに、廃仏毀釈時に、神主さんたちが神祇官に提出した嘆願書の付属書類として作成したらしい「先祖名前書」(明治元年八月藤木紋之進作成)がありまして、延文二年(1357年)から始まっていて、天正・慶長年間のご先祖の名前も書かれていて、男子ですと、藤木永覚、藤木佑通と出ています。
先日興味にかられて、木野愛宕社あたりを散策してきましたが、神社の真ん前にある豪邸2軒が、藤木姓の表札がかかっておりました。また古文書によると、この神主さんにつらなる一族の方々は藤が付く姓が多いようなのですが、木野駅から木野愛宕社に向かう10分ほどの道筋は、藤の付く姓の表札が10軒以上もあり、いずれも昔ながらの豪邸で、この一帯は安土桃山時代からこんな雰囲気が続いているのかなと思いました。
なお少し主題から外れますが、古文書のなかに、「享保十歳五月十日・野々宮神領山年貢覚え・神主惣代」というのがありまして、野々宮社に年貢を納めていたらしき人々の名前が列記されているのですが、そのなかに、何と例の愛宕山の愛宕五坊の名前も出てきます。一、銀七十目 長床坊、一、銀五十目 威徳院、一、米弐斗五升 教学院(以下、省略)。
威徳院の名前が、こんなところにも出ております。この野々宮神社は上嵯峨にあって今では嵯峨野の観光地のひとつになってにぎわっていますが、往時は同じ神主さんが、愛宕社、野々宮社、木野愛宕社・木野野々宮社の神主を兼務しており、明智様のご先祖様は、これらの神社と関わりが深いのかも知れないと感じております。
算命学についてもブログで勉強させていただきます。私の友人に中国運命学を勉強している人もおります。
ところで「金色の家紋」は何紋でしょうか。私の先祖とされる光秀の子が山城の神主の子として育てられた伝わっているので、気になりまして。
初めまして。
本能寺の変を検索していて、こちらに辿りつき過去記事をずっと遡って読ませて頂きました。
とても面白くて「そうだったのか!」と納得できる論理に深く感銘を受けました。
私は3姉妹の子育てをしながら東洋占術の一つ、算命学を勉強していて稚拙ではありますがブログも書いています。
拙ブログに来られる方や、実際に私の鑑定を受けられる方々は歴史好きが多く、先日もお客様に明智先生のお話をしたら、早速読んでみたいとのお声がありました。
そこで日記に毛が生えた程度の拙ブログではありますが、明智先生の御著書やブログ、ひいては先生の思いや歴史に対する正しい見方等を一人でも多くの方に知って頂くきっかけになれば!と思いリンクを貼らせて頂きました。
事後報告で良いとのことでしたので先に貼りましたが、よろしかったでしょうか?
私のブログは「三香 人生設計図」というタイトルだけは偉そうなもので、算命学の事や日常の出来事をつれづれなるままに書き連ねております。
お恥ずかしいくらいゆる~い内容で恐縮ですが、先生の目標、特に大河ドラマ化の実現への流れにほんの少しではありますが乗れたら嬉しいです。
私も明智光秀の真実のドラマを観たいです!
報告だけのつもりが長くなってしまい申し訳ありません。
夏の気配が濃くなってまいりました。
お体御自愛しつつ歴史捜査や更新、頑張ってくださいませ。これからも楽しみにしています。
↓
愛宕山の神主をさておいて、威徳院の行祐が、長政に、このような書状をしたためているのも、行祐が愛宕山で幅を利かせていることの表れかも知れないと思います。
都内の骨董市で手に入れた古文書を調べているうちに、このブログに行きあたりました。
少し前に、都内の骨董市に京都から出てきたという骨董屋さんが出店しており、幕末まで京都洛北で神主さんをやっていたという旧家が建て替えの際に引き取ったという、古文書がたくさん入った、黒い漆塗りで、金色の家紋の入った大きな箱ごと買いました。
この旧家は、愛宕百韻が詠まれた愛宕社、嵯峨の野々宮社、岩倉の木野愛宕社・木野野々宮社の神主を兼務していたようです。
古文書は、ほとんどが、明治維新の際の廃仏毀釈で神社存続のために神祇官や京都役所に陳情を繰り返すための下書き類、それに近衛忠熈殿宛ての年貢関係書類、さらに近衛家から小作地を買い取るための書類です。陳情書類には、1300年代からの歴代神主の名簿があったり、また神主業の傍ら、祭祀用土器をつくり、朝廷に献上していて、その献上書類があったり、それはそれで面白いのですが、そのなかに、え? と思う古文書二通が入っていました。
二通ともに、愛宕百韻で脇の句を詠んだ「行祐」が登場しまして、うち一通は、「愛宕山威徳院行祐から浅野弾正様宛」です。
浅野弾正とは、秀吉の5大老筆頭になった浅野長政のことと思います。
浅野弾正様となっていますが、長政が弾正小弼に叙任したのが天正16年のことですので、本能寺の変(天正10年)から6年後のことです。
三の句を詠んだ里村紹巴は秀吉から叱責されたあと赦されてお抱え連歌師になったとのことですが、行祐法印についての消息を記した文献が見当たらないので、この古文書は興味深いものかと思います。
ただし、長政に宛てた手紙が愛宕社の神主の手元に残っているはずはなく、出状した際の記録として、てもとに残していたものと思われます。
私自身、古文書の読み方の勉強を始めたばかりの素人ですので、ヤフーの知恵袋に、この古文書の読み方を尋ねたところ、以下のような回答がありました。
≪古文書1≫
態令啓上候、嵯峨幡枝土覚坊之事、依為
当山大権現神主、先年御遷宮之時茂懃
社役之祭礼候事無其隠候、其取屋(?)往古
跡役無之、況今度盛方院■養徳院人足ニ
可被差遣由候(?)、若左様之夫丸なと仕候へハ、以来
社家之神事等相闕申候、殊奥院御建立之
儀候条、其節茂彼家より可懃祭礼候、旁以於被
分聞食候、当山可為大慶候、別而昼夜
御武運長久之御祈念抽丹心候事候、
巻数御札令進上候、委曲此使僧可申
上候、恐々謹言
二月
愛宕山 威徳院 行祐
浅野弾正様 御奉行中
≪古文書2≫
態令啓達候、然者申
談義有之候間、両方
中間中ニつ合(都合)四人程
今明日之内ニ小川里坊
迄御出可有候、明日御
越候者、朝飯後昼迄
之内ニ御出可有候
一、此以前刀之義ニ付
此方へ御願之時分、
先住行祐法印往古
御奉行所江披上候書状
之写、又ハ御奉行所より
之御状之写右弍通共ニ
御持参可被成候、為其
如斯候、委細ハ面上ニ
可申入候条、不能二候
恐々謹言
満田元宣(花押)
林 庄宿(花押)
本江下■(花押)
八月十四日
畑枝
御年寄中
嵯峨■■■
古文書2は、廃仏毀釈で神主・氏子一同がアタマをひねっているときに、古文書1がお役所への説明に役立つと考えて、相談のため集まったのかなと思ったりいたしますが、よくわかりません。
また古文書1は、出世した浅野長政が京都の寺社を統括するような役割になっていたのであれば筋は通るのですが、何か愛宕社が長政から厚遇されているように感じること、それに、神主ではなくて行祐が直接長政に書状をしたためていることがひっかかります。
私自身も、たまたま手にしてこの古文書がどういう意味を持つのか気になりますが、一方では、明智様のご研究の資料にもなるものと思いまして、書き込んでおります。古文書自体をメール添付のかたちでお送りできればよいのですが、それができませんので、訳文のみお送り申し上げます。
長文になりまして、まことに申し訳ございません。ご一読くだされば、さいわいです。