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本能寺の変 「明智憲三郎的世界 天下布文!」

『本能寺の変 431年目の真実』著者の公式ブログです。
通説・俗説・虚説に惑わされない「真実」の世界を探究します。

明智一族伝承の会

2019年02月20日 | 通説・俗説・虚説を斬る!
「明智光秀の子孫」あるいは「明智一族の子孫」と伝わる家系は全国に多く存在する。私が平成二十一年(2009)に初めての本『本能寺の変 四二七年目の真実』を出版し、ブログを公開し、講演会で話をしたり、テレビに出演したりするようになると、「実は私も光秀の子孫と伝わっている」あるいは「明智一族と伝わっている」という方と次々と出会うようになった。
 平成七年(1995)から毎年開催されるようになった「土岐一族の集い」に出席して知り合った方もいれば、「これまで人前で話すべきことではないと黙っていたのだが、あなたを知ってどうしても連絡を取りたくなった」という方もいる。
 それまで自分の家以外に光秀の子孫と伝わる家があるとは知らなかったので初めは驚いた。そのような方々が増えてきたので、自分ひとりではなく皆で情報を共有し、各家の伝承を文字にして残すことが大事と考え「明智一族伝承の会」を平成二十五年(2013)に結成した。光秀滅亡から431年目のことである。
 現在十数家が会員となっているが、どの家も系図は伝わっておらず、すべて口伝(くでん)である。しかも「明智の一族と伝わる」といった程度の簡単な口伝しかない家が多い。苗字を変えて、明智姓を名乗っていない家がほとんどである。どの家も「光秀の子孫」「明智の一族」という言葉を代々大事にして伝えてきた。どの家も伝承内容は他言無用とし、中には長男にしか伝えない一子相伝の家もある。家紋は多くの家が桔梗紋である。
 秀吉の政権下では光秀の子孫と知られれば、即打ち首である。江戸中期には「光秀の名誉回復」が進み、世間の見方も変わっていたが、明治時代になると再び悪化した。極度に悪化したと言ってよいであろう。なぜならば家康によって神の座から引きずり降ろされた秀吉が神として復活したからだ。
 大政奉還の行われた翌年の慶長四年(1868)、明治天皇は家康によって廃絶されていた豊国神社(秀吉を神として祀った神社)の再興を布告し、明治八年(1875)に京都東山に社殿が再建された。秀吉は「海外まで武威を広めた国家の英雄」として、また平民から身を起して関白まで上り詰めた偉人として崇められる時代になった。小学校の教科書でも豊臣秀吉はほめたたえられ、一方で光秀は「逆臣」と書かれた。
 光秀の子孫、あるいは明智の一族と伝わる人々には辛い時代に逆戻りしたのである。「明智一族伝承の会」の会員も、このような事情から公にしたくないという思いが強い。
 口伝の内容の活字化は第一版の編纂が完了した。その内容については2019年9月出版予定の『明智家の末裔たち』(仮題)で公開の予定である。

 会は口伝を文字にして残すという第一段階の活動を終えて、第二段階に入ろうとしている。活動の主点はある家に伝わる伝承品(兜、鐙など)を保全・管理して後世に継承していくことと、さらに伝承者を積極的に発見して、口伝の記録を増やすことである。明智一族、あるいは光秀の子孫と伝わっている方は下記へご連絡ください。
 〒221-0822神奈川県横浜市神奈川区西神奈川1-13-12 アーバンビル6階 ウィズスクエア横浜内 歴史工房明智憲三郎事務所

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「明智一族伝承の会」設立のご連絡とご入会のお誘い(2013年3月時点)
 明智光秀滅亡後も生き延びた明智一族の家系の伝承が各地に存在しますが、ほとんどが口伝であり、世代を重ねた末には伝承が失われたり、変わってしまったりすることが危惧されます。各家系が伝承内容を正確に記録に残し、さらに調査・研究を進め、判明したことを後世に伝えていくことが我々の世代のできる先祖への恩返しであり、子孫への果たすべき責任ではないでしょうか。
 この活動を促進する目的で「明智一族伝承の会」を設立することにいたしました。趣旨にご賛同いただけます方はご入会をお願いいたしたく、入会申し込みの旨と下記事項のご返信をお願いいたします。
 御芳名、住所、電話番号、eメールアドレス、伝承内容、facebook登録有無
 注:伝承内容については先祖が誰で、どこへ逃れたか、どのような形で伝承されてきた
かなどを簡潔にお書き下さい。編集して全員分を会員へ配布いたします。
 なお、簡単ではありますが会則を定めましたので、合せてご覧いただければ幸いです。
 わずかな伝承から先祖を辿ることは極めて困難なことですが、わずかな伝承を糸口として少しでも先祖を辿ることができれば、そしてそれを子孫がさらに辿ってくれれば、それは我々の世代で実現できる大きな一歩といえます。すぐに成果が出せるわけではありませんが、「明智一族の四百年のときを取り戻す」という壮大な目標を目指して、初めの一歩を焦らず、着実に、踏み出したいと思います。いざ、「ときは今」。
                   2013年3月
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 河出文庫『完全版 本能寺の変 431年目の真実』発売記念 明智憲三郎氏インタビューでは、普段あまり触れない話題についてお話させていただきました。ご覧ください。
 >>> 河出文庫『完全版 本能寺の変 431年目の真実』発売記念 明智憲三郎氏インタビューのページ

 >>> 「明智光秀全史料年表」無料web公開中のページ


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 織田信長はサイコパスではありません。それどころか、高度な戦略・戦術家であり、彼の事績をきちんと調べれば、奇行とされることにも、すべて戦略・戦術上の理由があります。そのことは『織田信長 435年目の真実』幻冬舎をお読みいただければ理解できます。
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織田信長 435年目の真実 (幻冬舎文庫)
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問 信長は中国(明)を攻めようとしていたのか?
 当時、日本に来ていたイエズス会宣教師の報告書にそう書かれています。「信長は毛利に勝利したら、一大艦隊を編成して明へ攻めこむ考えである」と。日本国内にはそう書いた史料が存在していないのですが、十年後に豊臣秀吉が唐入り(中国侵攻)の準備を始める際に、イエズス会に対して東シナ海を渡れる軍船とその操縦のできる航海士の提供を求めたことから考えると、信長の唐入りの意思がイエズス会のみに伝わったのも同じ理由からだと気付くでしょう。当時の日本にはそのような大型の軍船も航海士も存在しなかったのです。
 秀吉の唐入りの目的をイエズス会宣教師は「天下を統一して国内に新たな土地が無くなったので、家臣に与える土地を中国で確保するため」であるが、「これは表向きの目的で、本当の狙いは国内に置いておくと将来危険な人物を国外へ放逐するため」と分析しています。これは信長も同じだったでしょう。天下をとるような人物(天下人)は他人よりもはるかに先を読んで手を打っていたのです。
 イエズス会宣教師は秀吉の唐入りのニュースが伝わると日本中がパニックに陥ったと書いています。見も知らない国へ攻め込むのは死に行くようなものだと考え、きっと有力な武将が謀反を起こすとか、各地で謀反が起きるといった噂が乱れ飛んだとのことです。イエズス会宣教師が「謀反」という言葉を書いた事案はこれだけです。明智光秀が信長の唐入りを知ったら、どう考えたでしょう。当時の光秀の立場に立って考えてみてください。

問 信長はどうして家康を討とうとしたのか?
 戦国武将は自分の一族の生き残りを自分の責任として、その責任を果たすために最善を尽くして必死に生きていました。信長にとっては、その行きつく先が天下統一であり、唐入りだったのです。彼らが責任を負っていたのは自分一代のみのことではなく、子や孫や子孫代々への責任をも負っていました。
このことは先祖や子孫への感性が薄れた現代人にはピンと来ないことかもしれません。平家物語の描く悲劇は平清盛が自分一代で栄華を極めながら、自分の死後に一族滅亡をもたらしたことでした。琵琶法師の語る平家物語の悲劇を通じて、「平清盛の轍を踏むな!」が戦国武将の心に深く刻まれていました。
 そうならないように自分が生きている間に最善の手を打っておくことが天下人に求められていました。秦の始皇帝や豊臣秀吉は自分の死後に家臣によって子を殺されて天下を奪われました。彼らは明かに失敗したのです。
 一方、漢の国を建てた劉邦(高祖)は天下を取るとそれまで自分を支えてきた重臣を次々と殺して、四百年続く漢王朝の基礎を作り上げました。徳川家康も豊臣家を滅ぼして徳川の長期政権を築きました。彼らの所業は非情なものでしたが、天下人としては見事に成功したのです。
 このような武将の考え方を理解して歴史を見直すと、武将もずいぶん変わって見えてくると思います。父親の代から織田家と敵対し、祖父も父も信長の父の謀略で殺されたと考えている家康は何を考えたか、そのような家康を信長はどう見たか。彼らの立場に立って、考えてみてください。

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 >>> 隠蔽された謀反の動機


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