呉座氏の奇説主張には具体的なことが何も書かれておらず、何が奇説なのかも明確ではありません。歴史修正主義者のヘイト・アジテーションのテクニックにおぼれていますので、反論のしようも価値もありません。
それに対して、具体的な史実を列挙しての反論は、蓋然性を向上させて議論を前に進めるうえで、大変すばらしいことと考えます。本ブログのコメントに下記の投稿がありました。amazonの書評にも、鬼の首を取ったように投稿されているので、ここで論評させていただきます。
>>> amazonコメントのページ
投稿1.信長は家康を討つため、6月2日に本能寺へ来るようにと命令を出したそうです。
しかし今井宗久の日記を読むとそのような命令が出ていたようには見えません。
『今井宗久茶湯日記書抜』5月29日条
「徳川殿堺ヘ御下向ニ付、爲御見廻參上、御服等玉ハリ候、来月三日、於私宅御茶差上ベクノ由申置候也」
5月29日、今井宗久は堺に到着した家康と面会します。
その日の日記には「…服などをいただいた。来月3日、自宅で茶を差し上げることを申し上げておいた」と書かれています。
家康の返答は書かれていませんが二人が6月3日の予定を話し合ったなら招集命令は出ていないことになります。
(信長の招集命令は細川忠興の移動日があるのでこの数日前には出ていたそうです)
投稿2・「431年目の真実」のレビューでも複数の指摘をしました。
『家忠日記』には「家康御下候者、西国へ御陣可有」と家康の西国出陣準備が書かれていて毛利攻めに出陣する予定でした。
信長は敢えて本能寺を手薄にしたとしていますが、実際には信長はよく少人数で上洛しており『信長公記』や公家の日記に書かれています。特に天正3年は「小姓衆5、6人」で上洛しています。
信長から6月2日に京都へ来いと命じられたという家康と筒井順慶は記録では6月2日朝はまだ離れた場所にいたので間に合いません。そして6月3日は今井宗久が家康を茶会に誘ったと書いています。
これらの記録から信長が家康らを6月2日に招集したという説は成立せず、家康殺害計画はなかったと思われます。
また秀吉は光秀の決起を誘導したという主張ですが、実際には明智勢が長浜城を攻撃していて秀吉の妻ねねは城を脱出しています(手助けをした地侍 広瀬兵庫助へ宛てた秀吉の感謝状が発見されています)。秀吉が黒幕で全てを知っていたなら戦火となる近江に家族を残して置くことはありません。
投稿1への回答
本願寺門主の祐筆である宇野主水の日記には、二日朝に家康一行が「信長が火急に上洛したとの知らせがあった」と言ってあたふたと出発したことが書かれています。家康は上洛する計画を秘密にしていたわけです。当然、今井早久にもそのように対応したのでしょう。発言の字面だけにとらわれずに、発言者の置かれた状況や意図についても考えを及ばす必要があります。他の史料の記事との突合せも必要です。
投稿2への反論
家忠日記に書かれていることは「出陣準備をせよ」という命令が届いたということであり、その目的を「光秀支援」と家康が書けるわけもなく、「西國出陣」と書いただけと考えられます。甲斐攻めにせよ、光秀援軍にせよ、とにかく早急に出陣準備をしておけということです。
堺から京都までおよそ60km。1時間5kmの歩行で12時間。朝5時に出発すれば夕5時頃に着ける計算です。そのような距離の移動に途中宿泊するのは大仰なことなので避けたでしょう。関係者の日記類にも宿泊のことは一行も書かれていません。
秀吉の家族が無事であったということは、何等か対策が事前にとられていたからではないでしょうか?
字面に書かれていることの理由をひとつだけ思いつくのではなく、いくつもの可能性を考えて、その内から蓋然性の高いものを選ぶようにしてください。
***************************
河出文庫『完全版 本能寺の変 431年目の真実』発売記念 明智憲三郎氏インタビューでは、普段あまり触れない話題についてお話させていただきました。ご覧ください。
>>> 河出文庫『完全版 本能寺の変 431年目の真実』発売記念 明智憲三郎氏インタビューのページ
>>> 「明智光秀全史料年表」無料web公開中のページ
拙著の購入はがんばっている街の小さな書店を応援するため、e-honのサイトから大阪市中央区の隆祥館書店を登録してご購入ください。2000円以上は送料無料なのでお得です。
>>> e-honの隆祥館書店登録ページ
織田信長はサイコパスではありません。それどころか、高度な戦略・戦術家であり、彼の事績をきちんと調べれば、奇行とされることにも、すべて戦略・戦術上の理由があります。そのことは『織田信長 435年目の真実』幻冬舎をお読みいただければ理解できます。
>>> シン・ノブナガ
問 信長は中国(明)を攻めようとしていたのか?
当時、日本に来ていたイエズス会宣教師の報告書にそう書かれています。「信長は毛利に勝利したら、一大艦隊を編成して明へ攻めこむ考えである」と。日本国内にはそう書いた史料が存在していないのですが、十年後に豊臣秀吉が唐入り(中国侵攻)の準備を始める際に、イエズス会に対して東シナ海を渡れる軍船とその操縦のできる航海士の提供を求めたことから考えると、信長の唐入りの意思がイエズス会のみに伝わったのも同じ理由からだと気付くでしょう。当時の日本にはそのような大型の軍船も航海士も存在しなかったのです。
秀吉の唐入りの目的をイエズス会宣教師は「天下を統一して国内に新たな土地が無くなったので、家臣に与える土地を中国で確保するため」であるが、「これは表向きの目的で、本当の狙いは国内に置いておくと将来危険な人物を国外へ放逐するため」と分析しています。これは信長も同じだったでしょう。天下をとるような人物(天下人)は他人よりもはるかに先を読んで手を打っていたのです。
イエズス会宣教師は秀吉の唐入りのニュースが伝わると日本中がパニックに陥ったと書いています。見も知らない国へ攻め込むのは死に行くようなものだと考え、きっと有力な武将が謀反を起こすとか、各地で謀反が起きるといった噂が乱れ飛んだとのことです。イエズス会宣教師が「謀反」という言葉を書いた事案はこれだけです。明智光秀が信長の唐入りを知ったら、どう考えたでしょう。当時の光秀の立場に立って考えてみてください。
問 信長はどうして家康を討とうとしたのか?
戦国武将は自分の一族の生き残りを自分の責任として、その責任を果たすために最善を尽くして必死に生きていました。信長にとっては、その行きつく先が天下統一であり、唐入りだったのです。彼らが責任を負っていたのは自分一代のみのことではなく、子や孫や子孫代々への責任をも負っていました。
このことは先祖や子孫への感性が薄れた現代人にはピンと来ないことかもしれません。平家物語の描く悲劇は平清盛が自分一代で栄華を極めながら、自分の死後に一族滅亡をもたらしたことでした。琵琶法師の語る平家物語の悲劇を通じて、「平清盛の轍を踏むな!」が戦国武将の心に深く刻まれていました。
そうならないように自分が生きている間に最善の手を打っておくことが天下人に求められていました。秦の始皇帝や豊臣秀吉は自分の死後に家臣によって子を殺されて天下を奪われました。彼らは明かに失敗したのです。
一方、漢の国を建てた劉邦(高祖)は天下を取るとそれまで自分を支えてきた重臣を次々と殺して、四百年続く漢王朝の基礎を作り上げました。徳川家康も豊臣家を滅ぼして徳川の長期政権を築きました。彼らの所業は非情なものでしたが、天下人としては見事に成功したのです。
このような武将の考え方を理解して歴史を見直すと、武将もずいぶん変わって見えてくると思います。父親の代から織田家と敵対し、祖父も父も信長の父の謀略で殺されたと考えている家康は何を考えたか、そのような家康を信長はどう見たか。彼らの立場に立って、考えてみてください。
>>> 怨恨・野望・偶発説は完全フェイク
>>> 隠蔽された謀反の動機
amazonから購入
楽天から購入
それに対して、具体的な史実を列挙しての反論は、蓋然性を向上させて議論を前に進めるうえで、大変すばらしいことと考えます。本ブログのコメントに下記の投稿がありました。amazonの書評にも、鬼の首を取ったように投稿されているので、ここで論評させていただきます。
>>> amazonコメントのページ
投稿1.信長は家康を討つため、6月2日に本能寺へ来るようにと命令を出したそうです。
しかし今井宗久の日記を読むとそのような命令が出ていたようには見えません。
『今井宗久茶湯日記書抜』5月29日条
「徳川殿堺ヘ御下向ニ付、爲御見廻參上、御服等玉ハリ候、来月三日、於私宅御茶差上ベクノ由申置候也」
5月29日、今井宗久は堺に到着した家康と面会します。
その日の日記には「…服などをいただいた。来月3日、自宅で茶を差し上げることを申し上げておいた」と書かれています。
家康の返答は書かれていませんが二人が6月3日の予定を話し合ったなら招集命令は出ていないことになります。
(信長の招集命令は細川忠興の移動日があるのでこの数日前には出ていたそうです)
投稿2・「431年目の真実」のレビューでも複数の指摘をしました。
『家忠日記』には「家康御下候者、西国へ御陣可有」と家康の西国出陣準備が書かれていて毛利攻めに出陣する予定でした。
信長は敢えて本能寺を手薄にしたとしていますが、実際には信長はよく少人数で上洛しており『信長公記』や公家の日記に書かれています。特に天正3年は「小姓衆5、6人」で上洛しています。
信長から6月2日に京都へ来いと命じられたという家康と筒井順慶は記録では6月2日朝はまだ離れた場所にいたので間に合いません。そして6月3日は今井宗久が家康を茶会に誘ったと書いています。
これらの記録から信長が家康らを6月2日に招集したという説は成立せず、家康殺害計画はなかったと思われます。
また秀吉は光秀の決起を誘導したという主張ですが、実際には明智勢が長浜城を攻撃していて秀吉の妻ねねは城を脱出しています(手助けをした地侍 広瀬兵庫助へ宛てた秀吉の感謝状が発見されています)。秀吉が黒幕で全てを知っていたなら戦火となる近江に家族を残して置くことはありません。
投稿1への回答
本願寺門主の祐筆である宇野主水の日記には、二日朝に家康一行が「信長が火急に上洛したとの知らせがあった」と言ってあたふたと出発したことが書かれています。家康は上洛する計画を秘密にしていたわけです。当然、今井早久にもそのように対応したのでしょう。発言の字面だけにとらわれずに、発言者の置かれた状況や意図についても考えを及ばす必要があります。他の史料の記事との突合せも必要です。
投稿2への反論
家忠日記に書かれていることは「出陣準備をせよ」という命令が届いたということであり、その目的を「光秀支援」と家康が書けるわけもなく、「西國出陣」と書いただけと考えられます。甲斐攻めにせよ、光秀援軍にせよ、とにかく早急に出陣準備をしておけということです。
堺から京都までおよそ60km。1時間5kmの歩行で12時間。朝5時に出発すれば夕5時頃に着ける計算です。そのような距離の移動に途中宿泊するのは大仰なことなので避けたでしょう。関係者の日記類にも宿泊のことは一行も書かれていません。
秀吉の家族が無事であったということは、何等か対策が事前にとられていたからではないでしょうか?
字面に書かれていることの理由をひとつだけ思いつくのではなく、いくつもの可能性を考えて、その内から蓋然性の高いものを選ぶようにしてください。
***************************
河出文庫『完全版 本能寺の変 431年目の真実』発売記念 明智憲三郎氏インタビューでは、普段あまり触れない話題についてお話させていただきました。ご覧ください。
>>> 河出文庫『完全版 本能寺の変 431年目の真実』発売記念 明智憲三郎氏インタビューのページ
>>> 「明智光秀全史料年表」無料web公開中のページ
拙著の購入はがんばっている街の小さな書店を応援するため、e-honのサイトから大阪市中央区の隆祥館書店を登録してご購入ください。2000円以上は送料無料なのでお得です。
>>> e-honの隆祥館書店登録ページ
織田信長はサイコパスではありません。それどころか、高度な戦略・戦術家であり、彼の事績をきちんと調べれば、奇行とされることにも、すべて戦略・戦術上の理由があります。そのことは『織田信長 435年目の真実』幻冬舎をお読みいただければ理解できます。
>>> シン・ノブナガ
織田信長 435年目の真実 (幻冬舎文庫) | |
クリエーター情報なし | |
幻冬舎 |
問 信長は中国(明)を攻めようとしていたのか?
当時、日本に来ていたイエズス会宣教師の報告書にそう書かれています。「信長は毛利に勝利したら、一大艦隊を編成して明へ攻めこむ考えである」と。日本国内にはそう書いた史料が存在していないのですが、十年後に豊臣秀吉が唐入り(中国侵攻)の準備を始める際に、イエズス会に対して東シナ海を渡れる軍船とその操縦のできる航海士の提供を求めたことから考えると、信長の唐入りの意思がイエズス会のみに伝わったのも同じ理由からだと気付くでしょう。当時の日本にはそのような大型の軍船も航海士も存在しなかったのです。
秀吉の唐入りの目的をイエズス会宣教師は「天下を統一して国内に新たな土地が無くなったので、家臣に与える土地を中国で確保するため」であるが、「これは表向きの目的で、本当の狙いは国内に置いておくと将来危険な人物を国外へ放逐するため」と分析しています。これは信長も同じだったでしょう。天下をとるような人物(天下人)は他人よりもはるかに先を読んで手を打っていたのです。
イエズス会宣教師は秀吉の唐入りのニュースが伝わると日本中がパニックに陥ったと書いています。見も知らない国へ攻め込むのは死に行くようなものだと考え、きっと有力な武将が謀反を起こすとか、各地で謀反が起きるといった噂が乱れ飛んだとのことです。イエズス会宣教師が「謀反」という言葉を書いた事案はこれだけです。明智光秀が信長の唐入りを知ったら、どう考えたでしょう。当時の光秀の立場に立って考えてみてください。
問 信長はどうして家康を討とうとしたのか?
戦国武将は自分の一族の生き残りを自分の責任として、その責任を果たすために最善を尽くして必死に生きていました。信長にとっては、その行きつく先が天下統一であり、唐入りだったのです。彼らが責任を負っていたのは自分一代のみのことではなく、子や孫や子孫代々への責任をも負っていました。
このことは先祖や子孫への感性が薄れた現代人にはピンと来ないことかもしれません。平家物語の描く悲劇は平清盛が自分一代で栄華を極めながら、自分の死後に一族滅亡をもたらしたことでした。琵琶法師の語る平家物語の悲劇を通じて、「平清盛の轍を踏むな!」が戦国武将の心に深く刻まれていました。
そうならないように自分が生きている間に最善の手を打っておくことが天下人に求められていました。秦の始皇帝や豊臣秀吉は自分の死後に家臣によって子を殺されて天下を奪われました。彼らは明かに失敗したのです。
一方、漢の国を建てた劉邦(高祖)は天下を取るとそれまで自分を支えてきた重臣を次々と殺して、四百年続く漢王朝の基礎を作り上げました。徳川家康も豊臣家を滅ぼして徳川の長期政権を築きました。彼らの所業は非情なものでしたが、天下人としては見事に成功したのです。
このような武将の考え方を理解して歴史を見直すと、武将もずいぶん変わって見えてくると思います。父親の代から織田家と敵対し、祖父も父も信長の父の謀略で殺されたと考えている家康は何を考えたか、そのような家康を信長はどう見たか。彼らの立場に立って、考えてみてください。
>>> 怨恨・野望・偶発説は完全フェイク
>>> 隠蔽された謀反の動機
amazonから購入
光秀からの遺言: 本能寺の変436年後の発見 | |
クリエーター情報なし | |
河出書房新社 |
楽天から購入