
秀吉がねつ造し、軍記物に汚染された戦国史を今一度洗濯いたし申候
高柳光寿博士が野望説を唱えた『明智光秀』(1958年))に対して怨恨説を唱えて「高柳=桑田論争」に発展させた桑田忠親博士。お二人とも東京大学史料編纂所編纂官、国学院大学教授という歴史学界の王道を歩み、戦国史の泰斗と評されています。
その桑田博士の著書『明智光秀』(1973年)には愛宕百韻の発句として知られる「時は今あめが下しる五月かな」について次のような疑義が書かれています。
「光秀の発句は、― 時は今天が下なる五月哉 ― とあったのを、後世の物好きが、光秀の叛逆を文学的に強調するために、― 天が下しる ― と、改作したのではあるまいかと、筆者は推理したいのである」
拙著『本能寺の変 431年目の真実』(文芸社文庫)で科学的に立証したように、光秀が「時は今天が下なる五月哉」と詠んだものを、羽柴秀吉が家臣の大村由己に命じて『惟任退治記』の中に「下しる」と書かせたのです。桑田博士はそのことには気付いていませんが、何か変だとは感じていたようです。
>>> 愛宕百韻の解読捜査
この一文を読んで私はつくづく思いました。桑田博士が『明智光秀』を書いた1973年に『惟任退治記』の存在を御存知だったら、私のような素人が言い出したがために歴史研究界から無視され続けている現状も随分変わっていて、既に「時は今あめが下なる五月かな」が研究界の常識になっていたのではないだろうかと。
そして、そうであれば、本能寺の変研究も随分違うものになって、現在のような混迷はなかったのではないかと。
ところが、重大なことに気付きました。1965年に桑田博士が校注して出版された『太閤史料集 戦国史料叢書1』にはなんと『惟任謀反記』(真名文体で書かれた『惟任退治記』を漢字かなまじりの読み下し文にしたもの)が所収されているのです。『明智光秀』が出版された1973年からさかのぼること少なくとも8年前には桑田博士は『惟任退治記』の内容を熟知していたことになります。
『惟任退治記』が「秀吉その人の命令によって著述されている」ことも本能寺の変の起きた年(天正十年)の「十月二十五日に書かれたと、見るべきであろう」ことも桑田博士本人の注釈として書かれています。
それでいて、なぜ8年後の『明智光秀』では「後世の物好きが、光秀の叛逆を文学的に強調するために、― 天が下しる ― と、改作したのではあるまいかと、筆者は推理したいのである」と書いたのでしょうか。『惟任退治記』に「天が下しる」とはっきり書かれていて、その書が本能寺の変の四か月後に秀吉の命令で書かれていることを熟知していながら、なぜ、「羽柴秀吉が書かせた『惟任退治記』で改作したのではあるまいかと、筆者は推理したいのである」と書かなかったのでしょうか。「後世の物好き」という言葉がなぜ出てきたのでしょうか。まさに「怪」としか言いようがありません。
そして、このことを周囲の研究者やお弟子さんの誰もが気付かず、桑田博士に助言もしなかったのはなぜなんでしょうか。これも「怪」です。
現在発売中の『歴史読本』2014年6月号「特集 明智光秀の謎」に『惟任退治記』の原文と現代語訳が掲載されました。画期的なことであり、私の主張をご理解いただける人が増えるものと期待しています。
ところが、訳注者の『信長公記』研究第一人者である東京大学史料編纂所准教授金子拓博士は解説の中で一言も本能寺の変の通説とのかかわりについて触れていません。
しかしながら、金子拓博士は『信長公記』の著者太田牛一自筆の「池田家本」では、愛宕百韻の発句が「下しる」を刷消して「下なる」と書き直されていることを「発見」しているのです。ご自身のサイトでこの書き直しに注目している金子博士が『惟任退治記』に書かれている発句「下しる」について何も解説で触れていないのはなぜなんでしょうか?
>>> とうとう愛宕百韻改竄が証明された!
桑田博士の「怪」は40年前のことだけではなく、このように現在まで続く本能寺の変研究界の「怪」なのです。
>>> 軍神豊臣秀吉が歪めた本能寺の変研究
>>> 三鬼清一郎氏の現代史学への提案
>>> 速水融著『歴史学との出会い』から
>>> 速水融著『歴史のなかの江戸時代』から
>>> 評論家副島隆彦氏お勧めの一冊
>>> 「本能寺の変 431年目の真実」読者書評
>>> 「本能寺の変の真実」決定版出版のお知らせ
>>> 『本能寺の変 431年目の真実』プロローグ
>>> 『本能寺の変 431年目の真実』目次
>>> もはや本能寺の変に謎は存在しない!
>>> 本能寺の変当日に発生した謎が解けるか
高柳光寿博士が野望説を唱えた『明智光秀』(1958年))に対して怨恨説を唱えて「高柳=桑田論争」に発展させた桑田忠親博士。お二人とも東京大学史料編纂所編纂官、国学院大学教授という歴史学界の王道を歩み、戦国史の泰斗と評されています。
その桑田博士の著書『明智光秀』(1973年)には愛宕百韻の発句として知られる「時は今あめが下しる五月かな」について次のような疑義が書かれています。
「光秀の発句は、― 時は今天が下なる五月哉 ― とあったのを、後世の物好きが、光秀の叛逆を文学的に強調するために、― 天が下しる ― と、改作したのではあるまいかと、筆者は推理したいのである」
拙著『本能寺の変 431年目の真実』(文芸社文庫)で科学的に立証したように、光秀が「時は今天が下なる五月哉」と詠んだものを、羽柴秀吉が家臣の大村由己に命じて『惟任退治記』の中に「下しる」と書かせたのです。桑田博士はそのことには気付いていませんが、何か変だとは感じていたようです。
>>> 愛宕百韻の解読捜査
この一文を読んで私はつくづく思いました。桑田博士が『明智光秀』を書いた1973年に『惟任退治記』の存在を御存知だったら、私のような素人が言い出したがために歴史研究界から無視され続けている現状も随分変わっていて、既に「時は今あめが下なる五月かな」が研究界の常識になっていたのではないだろうかと。
そして、そうであれば、本能寺の変研究も随分違うものになって、現在のような混迷はなかったのではないかと。
ところが、重大なことに気付きました。1965年に桑田博士が校注して出版された『太閤史料集 戦国史料叢書1』にはなんと『惟任謀反記』(真名文体で書かれた『惟任退治記』を漢字かなまじりの読み下し文にしたもの)が所収されているのです。『明智光秀』が出版された1973年からさかのぼること少なくとも8年前には桑田博士は『惟任退治記』の内容を熟知していたことになります。
『惟任退治記』が「秀吉その人の命令によって著述されている」ことも本能寺の変の起きた年(天正十年)の「十月二十五日に書かれたと、見るべきであろう」ことも桑田博士本人の注釈として書かれています。
それでいて、なぜ8年後の『明智光秀』では「後世の物好きが、光秀の叛逆を文学的に強調するために、― 天が下しる ― と、改作したのではあるまいかと、筆者は推理したいのである」と書いたのでしょうか。『惟任退治記』に「天が下しる」とはっきり書かれていて、その書が本能寺の変の四か月後に秀吉の命令で書かれていることを熟知していながら、なぜ、「羽柴秀吉が書かせた『惟任退治記』で改作したのではあるまいかと、筆者は推理したいのである」と書かなかったのでしょうか。「後世の物好き」という言葉がなぜ出てきたのでしょうか。まさに「怪」としか言いようがありません。
そして、このことを周囲の研究者やお弟子さんの誰もが気付かず、桑田博士に助言もしなかったのはなぜなんでしょうか。これも「怪」です。
現在発売中の『歴史読本』2014年6月号「特集 明智光秀の謎」に『惟任退治記』の原文と現代語訳が掲載されました。画期的なことであり、私の主張をご理解いただける人が増えるものと期待しています。
ところが、訳注者の『信長公記』研究第一人者である東京大学史料編纂所准教授金子拓博士は解説の中で一言も本能寺の変の通説とのかかわりについて触れていません。
しかしながら、金子拓博士は『信長公記』の著者太田牛一自筆の「池田家本」では、愛宕百韻の発句が「下しる」を刷消して「下なる」と書き直されていることを「発見」しているのです。ご自身のサイトでこの書き直しに注目している金子博士が『惟任退治記』に書かれている発句「下しる」について何も解説で触れていないのはなぜなんでしょうか?
>>> とうとう愛宕百韻改竄が証明された!
桑田博士の「怪」は40年前のことだけではなく、このように現在まで続く本能寺の変研究界の「怪」なのです。
>>> 軍神豊臣秀吉が歪めた本能寺の変研究
>>> 三鬼清一郎氏の現代史学への提案
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>>> 速水融著『歴史のなかの江戸時代』から
>>> 評論家副島隆彦氏お勧めの一冊
![]() | 【文庫】 本能寺の変 431年目の真実 |
明智 憲三郎 | |
文芸社 |
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>>> もはや本能寺の変に謎は存在しない!
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