【2016年11月21日記事】(文末に後日追記あり)
2016年11月21日、TBSテレビ「7時に会いましょう」で「クリス・ペプラーさんは明智光秀の子孫か?」の謎解きが行われました。番組中での謎解きは私が行いましたが、短時間のバラエティー番組の中ではとても説明しきれませんので、ここに私の捜査結果と推理の要点を説明いたします。
>>> Wikipedia「クリス・ペプラー」
まず前提としてご理解しておいていただきたいことを説明します。
明智光秀の子孫、あるいは単に明智一族と伝承されている家は私の知る限りでも十家以上あります。各家に共通していることは明智姓を名乗っていないこと、系図はなく口伝で代々伝えてきていることです。これは豊臣秀吉政権下では光秀の子孫とわかれば間違いなく殺されたからです。それとわからないように親から子へと密かに伝えねばならないことだったのです。(大坂冬の陣から30数年後、大坂方の後藤又兵衛や大野治房の身を隠していた男子が捕縛されて打首となっています。女子は許すが男子は打首とする家康の冬の陣直後の命令が遡って適用されました。戦国時代とはそういう時代だったのです)
世の中に光秀の書かれた系図は数本伝存していますが、いずれも系図としての信憑性には疑問の多いものです。系図の作成者が光秀と自分なり関係者なりとをつなぐ意図で作成したものがほとんどです。江戸時代には光秀の評価が好転し、子孫であることを主張したい気運が生まれていたようです。私の先祖と伝わる於隺丸(おづるまる)が光秀の子として書かれている熊本安国寺蔵三宅系図も系図としてはいろいろ疑問があります。
>>> 明智系図の歴史捜査1~10
したがって、光秀の子孫であることを明記した系図を新たに発見して証明することなどありえません。状況証拠の積み重ねで、どこまで蓋然性(確からしさの度合)を高められるかの問題です。まったく手がかりの掴めない家もあれば、少ない手がかりを頼りにルーツ探索を少しずつ続けている家もあります。ペプラーさんのルーツ探索がこのような前提状況の中で行われたことをご理解いただき、以下を読み進めていただけると幸いです。
1.クリス・ペプラーさんからの聴取内容の要点
幼い時から母方の祖母から「明智光秀の子孫」と聞かされてきた。祖父・母からも聞かされた。
謀反人ということではなく「光秀の子孫という由緒ある家」といわれた。
祖母の旧姓は土岐。
>>> 本能寺の変:土岐氏とは何だ!
2.私の推理
祖母の発言を家族(母など)が否定していないということは祖母の虚言ではなく、代々伝承されてきたものと考えられる。
明智も土岐氏の一族なので土岐姓であることは明智とつながっている可能性は高い。
単に「土岐氏である(明智も一族)」という理由で祖母が「光秀の子孫」と言った可能性もある。
ルーツの探索を行う価値があり、菩提寺の過去帳を調べるべき。
3.菩提寺の過去帳の捜査結果の要点
過去帳に記載されているのは4代前の高祖父・土岐頼敬(よりたか?)氏まで。
過去帳に書かれている方々の戒名がいずれも「院殿」(戒名の最高位)であり、相当に家格の高い家柄である。
そのような家柄であれば、それだけで「由緒ある家」と言えるのにわざわざ「光秀の子孫」と言っていることは、その伝承に確たるものがあると推測できる。
家格の高い土岐姓の家系は徳川家康より土岐姓を与えられて大名に取り立てられた家康家臣の明智氏(菅沼定政)の家系である(以降、明智土岐家と表記する)。この明智土岐家は福島県上山藩や栃木県沼田藩の藩主を務めて、明治時代には華族に列せられている。この家系であれば「光秀の子孫」と言ってもおかしくはない。ただし、明智土岐家が光秀の子孫と書かれた史料は存在せず、光秀との関係は不明である。
明智土岐家は江戸時代から大名家として系図を書き継いでいるのでペプラーさんの高祖父「頼敬」の書かれた系図が存在する可能性がある。
明智土岐家の知人に確認したところ、日本家系協会出版の『土岐一族』という本に、この家系の幕末・明治初期までの系図が書かれていることが判明したので入手して調べた。
4.家系図の捜査結果の要点
明智土岐家の系図には残念ながら頼敬は発見できなかった。これで捜査は行き詰まり!
この本には斉藤道三に追放された最後の美濃守護である土岐頼芸(よりのり)の家系(以降、守護土岐家と表記)の系図も記載されていた。これまで守護土岐家についてはノーマークで、どのような系図なのか知りたくて、念のため確認してみた。なんと、系図の最後に頼敬を発見! 記載されている菩提寺の名も一致しており、間違いなくペプラーさんの高祖父である。
この家系は血脈的には明智とはまったくの別系統であり、この家系が「光秀の子孫」と名乗る必然性がまったくない。ましてや、頼芸の孫・頼勝が幕府旗本の高家に列せられたことが書かれているので、「高家の由緒ある家」というべきである。
>>> Wikipedia「高家」
それを敢えて「光秀の子孫」と伝承してきたことはそれが極めて高い確信によるものであることを裏付けている。つまり、どこかで光秀の血が入ったと考えるべきで、それが誰なのかを系図上で特定する必要がある。
5.光秀の実子の推理
頼芸は斉藤道三に追放されて各地を放浪した後、甲斐の武田勝頼に匿われた。本能寺の変の70日前に武田氏は滅び、その際に「発見」された頼芸は美濃の元家臣・稲葉一鉄に引き取られて一年ほどで没している。系図で見るとその子・頼次も「父とともに亡命」とのことで一鉄に引き取られたとみられる。その時、37歳。その子として系図には長男の位置に「斉藤外記(げき)」と添え書きされた人物と二男の位置に「左馬助・土佐守・高家に列す」と添え書きされた頼勝、その他男子2名・女子2名が書かれている。この頼勝の子孫が頼敬であるが、頼勝が光秀の実子だとすると「光秀の子孫」ということになる。この可能性を点検してみる必要がある。
光秀の一族は坂本城で全滅したことになっているが、その直接の目撃証言は存在しない。イエズス会宣教師のルイス・フロイスは「落城前日に大量の人が城から逃げた。明智の二子は逃げたとも死んだともいわれている」と書いている。一方、光秀の子孫と伝わる家は私の知る限りでも数家あり、光秀の子が各地に逃れた可能性は高い。謀反の目的が一族を滅亡から救うことであれば、当然謀反失敗したら一族を逃したはずである。光秀の子が見つかって処刑されたという記録はまったく存在しない。
実は稲葉一鉄のもとには光秀滅亡後に重臣・斉藤利三の妻と連れ子6~7名が匿われている。このことは2014年に岡山の林原美術館で「発見」された石谷(いしがい)家文書の中の石谷頼辰(よりとき)宛の稲葉一鉄書状で確認できる。利三の妻が一鉄の娘だったからである。子の中にはのちの春日局、幕府旗本になった利宗(立本)がいたであろう。その後、子の何人かが光秀滅亡後に土佐に逃れて長曽我部元親に仕えた頼辰(元親正室の兄)のもとに引き取られた(石谷家文書に残る天正十五年の長曽我部元親書状によれば、この時点で利三の妻、息子の利宗・三存が土佐にいたことがわかる)。石谷家も土岐氏であり、頼辰は利三の実兄、かつ光秀の家臣である。頼辰は一鉄に利三遺族の引き渡しを申し入れていたことが石谷家文書でわかる。
この連れ子6~7名の中に光秀の実子がいて、それが頼次の養子になって頼勝を名乗ったのではなかろうか。系図に頼勝の生年・没年は書かれていないが、光秀の男子は少年だったことが確認されており、年頃は合いそうだ。長男(とみられる)人物に斉藤外記と添え書きされているのは、この人物が利三の実子で頼次の養子になったとみられるし、二男(とみられる)頼勝が家督を継いで、高家に列せられたのも利三の主君である光秀の実子だったからではないか。高家に列せられたのは春日局の力が働いたのかもしれない。明智家ゆかりの左馬助という名や土佐守という官名もかかわりを思わせる。
6.まとめ
光秀の子孫と伝承されている家は苗字を変え、系図を残さず、光秀の子孫であることを隠して代々口伝のみでそのことを伝えてきた。今でもそのことを口外するなという家訓を守っている家もある。そのような中で、由緒ある土岐氏の高家がわざわざ「光秀の子孫」と伝承してきたこと、そして系図を四百年以上さかのぼれるということは極めて特異なことといえる。ましてや、光秀の子の可能性のある人物を特定できているということは、クリス・ペプラーさんが明智光秀の子孫である蓋然性が極めて高いことを示している。(ちなみに私の家系は250年前までさかのぼることができたが、残り150年は継続捜査中)
>>> ルーツを辿る:先祖明智光秀への道
7.継続捜査事項
守護土岐家の頼勝の父・頼次の甲斐亡命時の子の名前もしくは数を確認することができれば、頼勝が養子か否かの確証がえられる可能性が出てくる。
【2017年1月13日追記】
『岐阜県史』に収録されている頼芸の美濃追放後の頼芸、その子の小次郎(頼次)、斉藤道三家臣らの書状を調べると、頼芸追放後も頼次とその子たちは美濃に留まっていたことがわかります。つまり、系図の頼次の添え書き「父と共に亡命」は誤記ということになります。そして、美濃に居た頼次と光秀は当然親交があったと考えられます。頼次・頼勝と光秀の関係がぐっと近づきました。
【2019年2月6日追記】【2021年11月23日加筆】
本年9月に『明智家の末裔たち』を河出書房新社より出版を予定しています。子孫と伝承されている家の伝承内容やその裏付けについて書きますが、ペプラー氏についても詳述いたします。ペプラー氏はかなり高い確度で光秀の次男の末裔とみられます。(2019年12月に出版されています)
>>> 「明智家の末裔たち」読者感想
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問 信長は中国(明)を攻めようとしていたのか?
当時、日本に来ていたイエズス会宣教師の報告書にそう書かれています。「信長は毛利に勝利したら、一大艦隊を編成して明へ攻めこむ考えである」と。日本国内にはそう書いた史料が存在していないのですが、十年後に豊臣秀吉が唐入り(中国侵攻)の準備を始める際に、イエズス会に対して東シナ海を渡れる軍船とその操縦のできる航海士の提供を求めたことから考えると、信長の唐入りの意思がイエズス会のみに伝わったのも同じ理由からだと気付くでしょう。当時の日本にはそのような大型の軍船も航海士も存在しなかったのです。
秀吉の唐入りの目的をイエズス会宣教師は「天下を統一して国内に新たな土地が無くなったので、家臣に与える土地を中国で確保するため」であるが、「これは表向きの目的で、本当の狙いは国内に置いておくと将来危険な人物を国外へ放逐するため」と分析しています。これは信長も同じだったでしょう。天下をとるような人物(天下人)は他人よりもはるかに先を読んで手を打っていたのです。
イエズス会宣教師は秀吉の唐入りのニュースが伝わると日本中がパニックに陥ったと書いています。見も知らない国へ攻め込むのは死に行くようなものだと考え、きっと有力な武将が謀反を起こすとか、各地で謀反が起きるといった噂が乱れ飛んだとのことです。イエズス会宣教師が「謀反」という言葉を書いた事案はこれだけです。明智光秀が信長の唐入りを知ったら、どう考えたでしょう。当時の光秀の立場に立って考えてみてください。
問 信長はどうして家康を討とうとしたのか?
戦国武将は自分の一族の生き残りを自分の責任として、その責任を果たすために最善を尽くして必死に生きていました。信長にとっては、その行きつく先が天下統一であり、唐入りだったのです。彼らが責任を負っていたのは自分一代のみのことではなく、子や孫や子孫代々への責任をも負っていました。
このことは先祖や子孫への感性が薄れた現代人にはピンと来ないことかもしれません。平家物語の描く悲劇は平清盛が自分一代で栄華を極めながら、自分の死後に一族滅亡をもたらしたことでした。琵琶法師の語る平家物語の悲劇を通じて、「平清盛の轍を踏むな!」が戦国武将の心に深く刻まれていました。
そうならないように自分が生きている間に最善の手を打っておくことが天下人に求められていました。秦の始皇帝や豊臣秀吉は自分の死後に家臣によって子を殺されて天下を奪われました。彼らは明かに失敗したのです。
一方、漢の国を建てた劉邦(高祖)は天下を取るとそれまで自分を支えてきた重臣を次々と殺して、四百年続く漢王朝の基礎を作り上げました。徳川家康も豊臣家を滅ぼして徳川の長期政権を築きました。彼らの所業は非情なものでしたが、天下人としては見事に成功したのです。
このような武将の考え方を理解して歴史を見直すと、武将もずいぶん変わって見えてくると思います。父親の代から織田家と敵対し、祖父も父も信長の父の謀略で殺されたと考えている家康は何を考えたか、そのような家康を信長はどう見たか。彼らの立場に立って、考えてみてください。
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世の中に光秀の書かれた系図は数本伝存していますが、いずれも系図としての信憑性には疑問の多いものです。系図の作成者が光秀と自分なり関係者なりとをつなぐ意図で作成したものがほとんどです。江戸時代には光秀の評価が好転し、子孫であることを主張したい気運が生まれていたようです。私の先祖と伝わる於隺丸(おづるまる)が光秀の子として書かれている熊本安国寺蔵三宅系図も系図としてはいろいろ疑問があります。
>>> 明智系図の歴史捜査1~10
したがって、光秀の子孫であることを明記した系図を新たに発見して証明することなどありえません。状況証拠の積み重ねで、どこまで蓋然性(確からしさの度合)を高められるかの問題です。まったく手がかりの掴めない家もあれば、少ない手がかりを頼りにルーツ探索を少しずつ続けている家もあります。ペプラーさんのルーツ探索がこのような前提状況の中で行われたことをご理解いただき、以下を読み進めていただけると幸いです。
1.クリス・ペプラーさんからの聴取内容の要点
幼い時から母方の祖母から「明智光秀の子孫」と聞かされてきた。祖父・母からも聞かされた。
謀反人ということではなく「光秀の子孫という由緒ある家」といわれた。
祖母の旧姓は土岐。
>>> 本能寺の変:土岐氏とは何だ!
2.私の推理
祖母の発言を家族(母など)が否定していないということは祖母の虚言ではなく、代々伝承されてきたものと考えられる。
明智も土岐氏の一族なので土岐姓であることは明智とつながっている可能性は高い。
単に「土岐氏である(明智も一族)」という理由で祖母が「光秀の子孫」と言った可能性もある。
ルーツの探索を行う価値があり、菩提寺の過去帳を調べるべき。
3.菩提寺の過去帳の捜査結果の要点
過去帳に記載されているのは4代前の高祖父・土岐頼敬(よりたか?)氏まで。
過去帳に書かれている方々の戒名がいずれも「院殿」(戒名の最高位)であり、相当に家格の高い家柄である。
そのような家柄であれば、それだけで「由緒ある家」と言えるのにわざわざ「光秀の子孫」と言っていることは、その伝承に確たるものがあると推測できる。
家格の高い土岐姓の家系は徳川家康より土岐姓を与えられて大名に取り立てられた家康家臣の明智氏(菅沼定政)の家系である(以降、明智土岐家と表記する)。この明智土岐家は福島県上山藩や栃木県沼田藩の藩主を務めて、明治時代には華族に列せられている。この家系であれば「光秀の子孫」と言ってもおかしくはない。ただし、明智土岐家が光秀の子孫と書かれた史料は存在せず、光秀との関係は不明である。
明智土岐家は江戸時代から大名家として系図を書き継いでいるのでペプラーさんの高祖父「頼敬」の書かれた系図が存在する可能性がある。
明智土岐家の知人に確認したところ、日本家系協会出版の『土岐一族』という本に、この家系の幕末・明治初期までの系図が書かれていることが判明したので入手して調べた。
4.家系図の捜査結果の要点
明智土岐家の系図には残念ながら頼敬は発見できなかった。これで捜査は行き詰まり!
この本には斉藤道三に追放された最後の美濃守護である土岐頼芸(よりのり)の家系(以降、守護土岐家と表記)の系図も記載されていた。これまで守護土岐家についてはノーマークで、どのような系図なのか知りたくて、念のため確認してみた。なんと、系図の最後に頼敬を発見! 記載されている菩提寺の名も一致しており、間違いなくペプラーさんの高祖父である。
この家系は血脈的には明智とはまったくの別系統であり、この家系が「光秀の子孫」と名乗る必然性がまったくない。ましてや、頼芸の孫・頼勝が幕府旗本の高家に列せられたことが書かれているので、「高家の由緒ある家」というべきである。
>>> Wikipedia「高家」
それを敢えて「光秀の子孫」と伝承してきたことはそれが極めて高い確信によるものであることを裏付けている。つまり、どこかで光秀の血が入ったと考えるべきで、それが誰なのかを系図上で特定する必要がある。
5.光秀の実子の推理
頼芸は斉藤道三に追放されて各地を放浪した後、甲斐の武田勝頼に匿われた。本能寺の変の70日前に武田氏は滅び、その際に「発見」された頼芸は美濃の元家臣・稲葉一鉄に引き取られて一年ほどで没している。系図で見るとその子・頼次も「父とともに亡命」とのことで一鉄に引き取られたとみられる。その時、37歳。その子として系図には長男の位置に「斉藤外記(げき)」と添え書きされた人物と二男の位置に「左馬助・土佐守・高家に列す」と添え書きされた頼勝、その他男子2名・女子2名が書かれている。この頼勝の子孫が頼敬であるが、頼勝が光秀の実子だとすると「光秀の子孫」ということになる。この可能性を点検してみる必要がある。
光秀の一族は坂本城で全滅したことになっているが、その直接の目撃証言は存在しない。イエズス会宣教師のルイス・フロイスは「落城前日に大量の人が城から逃げた。明智の二子は逃げたとも死んだともいわれている」と書いている。一方、光秀の子孫と伝わる家は私の知る限りでも数家あり、光秀の子が各地に逃れた可能性は高い。謀反の目的が一族を滅亡から救うことであれば、当然謀反失敗したら一族を逃したはずである。光秀の子が見つかって処刑されたという記録はまったく存在しない。
実は稲葉一鉄のもとには光秀滅亡後に重臣・斉藤利三の妻と連れ子6~7名が匿われている。このことは2014年に岡山の林原美術館で「発見」された石谷(いしがい)家文書の中の石谷頼辰(よりとき)宛の稲葉一鉄書状で確認できる。利三の妻が一鉄の娘だったからである。子の中にはのちの春日局、幕府旗本になった利宗(立本)がいたであろう。その後、子の何人かが光秀滅亡後に土佐に逃れて長曽我部元親に仕えた頼辰(元親正室の兄)のもとに引き取られた(石谷家文書に残る天正十五年の長曽我部元親書状によれば、この時点で利三の妻、息子の利宗・三存が土佐にいたことがわかる)。石谷家も土岐氏であり、頼辰は利三の実兄、かつ光秀の家臣である。頼辰は一鉄に利三遺族の引き渡しを申し入れていたことが石谷家文書でわかる。
この連れ子6~7名の中に光秀の実子がいて、それが頼次の養子になって頼勝を名乗ったのではなかろうか。系図に頼勝の生年・没年は書かれていないが、光秀の男子は少年だったことが確認されており、年頃は合いそうだ。長男(とみられる)人物に斉藤外記と添え書きされているのは、この人物が利三の実子で頼次の養子になったとみられるし、二男(とみられる)頼勝が家督を継いで、高家に列せられたのも利三の主君である光秀の実子だったからではないか。高家に列せられたのは春日局の力が働いたのかもしれない。明智家ゆかりの左馬助という名や土佐守という官名もかかわりを思わせる。
6.まとめ
光秀の子孫と伝承されている家は苗字を変え、系図を残さず、光秀の子孫であることを隠して代々口伝のみでそのことを伝えてきた。今でもそのことを口外するなという家訓を守っている家もある。そのような中で、由緒ある土岐氏の高家がわざわざ「光秀の子孫」と伝承してきたこと、そして系図を四百年以上さかのぼれるということは極めて特異なことといえる。ましてや、光秀の子の可能性のある人物を特定できているということは、クリス・ペプラーさんが明智光秀の子孫である蓋然性が極めて高いことを示している。(ちなみに私の家系は250年前までさかのぼることができたが、残り150年は継続捜査中)
>>> ルーツを辿る:先祖明智光秀への道
7.継続捜査事項
守護土岐家の頼勝の父・頼次の甲斐亡命時の子の名前もしくは数を確認することができれば、頼勝が養子か否かの確証がえられる可能性が出てくる。
【2017年1月13日追記】
『岐阜県史』に収録されている頼芸の美濃追放後の頼芸、その子の小次郎(頼次)、斉藤道三家臣らの書状を調べると、頼芸追放後も頼次とその子たちは美濃に留まっていたことがわかります。つまり、系図の頼次の添え書き「父と共に亡命」は誤記ということになります。そして、美濃に居た頼次と光秀は当然親交があったと考えられます。頼次・頼勝と光秀の関係がぐっと近づきました。
【2019年2月6日追記】【2021年11月23日加筆】
本年9月に『明智家の末裔たち』を河出書房新社より出版を予定しています。子孫と伝承されている家の伝承内容やその裏付けについて書きますが、ペプラー氏についても詳述いたします。ペプラー氏はかなり高い確度で光秀の次男の末裔とみられます。(2019年12月に出版されています)
>>> 「明智家の末裔たち」読者感想
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明智憲三郎著の第4作『「本能寺の変」は変だ! 明智光秀の子孫による歴史捜査授業』文芸社2016年5月14日発売!!
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問 信長は中国(明)を攻めようとしていたのか?
当時、日本に来ていたイエズス会宣教師の報告書にそう書かれています。「信長は毛利に勝利したら、一大艦隊を編成して明へ攻めこむ考えである」と。日本国内にはそう書いた史料が存在していないのですが、十年後に豊臣秀吉が唐入り(中国侵攻)の準備を始める際に、イエズス会に対して東シナ海を渡れる軍船とその操縦のできる航海士の提供を求めたことから考えると、信長の唐入りの意思がイエズス会のみに伝わったのも同じ理由からだと気付くでしょう。当時の日本にはそのような大型の軍船も航海士も存在しなかったのです。
秀吉の唐入りの目的をイエズス会宣教師は「天下を統一して国内に新たな土地が無くなったので、家臣に与える土地を中国で確保するため」であるが、「これは表向きの目的で、本当の狙いは国内に置いておくと将来危険な人物を国外へ放逐するため」と分析しています。これは信長も同じだったでしょう。天下をとるような人物(天下人)は他人よりもはるかに先を読んで手を打っていたのです。
イエズス会宣教師は秀吉の唐入りのニュースが伝わると日本中がパニックに陥ったと書いています。見も知らない国へ攻め込むのは死に行くようなものだと考え、きっと有力な武将が謀反を起こすとか、各地で謀反が起きるといった噂が乱れ飛んだとのことです。イエズス会宣教師が「謀反」という言葉を書いた事案はこれだけです。明智光秀が信長の唐入りを知ったら、どう考えたでしょう。当時の光秀の立場に立って考えてみてください。
問 信長はどうして家康を討とうとしたのか?
戦国武将は自分の一族の生き残りを自分の責任として、その責任を果たすために最善を尽くして必死に生きていました。信長にとっては、その行きつく先が天下統一であり、唐入りだったのです。彼らが責任を負っていたのは自分一代のみのことではなく、子や孫や子孫代々への責任をも負っていました。
このことは先祖や子孫への感性が薄れた現代人にはピンと来ないことかもしれません。平家物語の描く悲劇は平清盛が自分一代で栄華を極めながら、自分の死後に一族滅亡をもたらしたことでした。琵琶法師の語る平家物語の悲劇を通じて、「平清盛の轍を踏むな!」が戦国武将の心に深く刻まれていました。
そうならないように自分が生きている間に最善の手を打っておくことが天下人に求められていました。秦の始皇帝や豊臣秀吉は自分の死後に家臣によって子を殺されて天下を奪われました。彼らは明かに失敗したのです。
一方、漢の国を建てた劉邦(高祖)は天下を取るとそれまで自分を支えてきた重臣を次々と殺して、四百年続く漢王朝の基礎を作り上げました。徳川家康も豊臣家を滅ぼして徳川の長期政権を築きました。彼らの所業は非情なものでしたが、天下人としては見事に成功したのです。
このような武将の考え方を理解して歴史を見直すと、武将もずいぶん変わって見えてくると思います。父親の代から織田家と敵対し、祖父も父も信長の父の謀略で殺されたと考えている家康は何を考えたか、そのような家康を信長はどう見たか。彼らの立場に立って、考えてみてください。
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明智先生の『「先祖とは私をこの世に生存させてくれた恩人」。』ということばに感動したことを思い出しました。
私は、自分の姓でからかわれて嫌な思いをすることが多々あり、〇〇〇の子孫(←不名誉)と親から言われたこともありました。
何でこの姓が私に受け継がれてきたのか、先祖を快く思っていませんでした。
そんな私に明智先生のことばで、先祖について考えさせられ、今は先祖の手がかりを調べています。
先祖を快く思っていなかったせめての償いのためにも、と考えています。
歴史捜査の歴史の史料の信憑性重視や、真実から学ぶことの大切さ楽しさ、これらを教えてくださった明智先生、そして明智先生に出会えた機会をつくってくれた先祖にも感謝しています。
しかし資料は何もありません。
私の母の旧姓も土岐で、祖父母から明智に関わるような話を聞いていたので、調べられたら何かわかったりするのかもしれないとドキドキしました。
小学生の頃、日本史を勉強し始めた時に母から聞かされた話だったので「親戚みたいなものか」と認識していましたが、このように家系を遡ってわかったりする事もあるのかとインターネットで自分が聞いていた話を調べたりしましたが、なかなか書いてあるような事でもないのですね。
こちらのブログも少し読ませて頂きましたが、大変興味深い内容のものがたくさんありましたので、出されていらっしゃる本と一緒にまた読ませて頂きます。
1.美濃源氏フォーラム
岐阜県瑞浪市に事務局を置き活発に講座などを開催して活動している。ホームページに土岐氏関連情報が栄西されている。
http://minogenji.html.xdomain.jp/page007.html
2.土岐会
土岐一族の集いを年1回開催している。地域別に関東・中部・関西に土岐会が存在する。関東のホームページがある。
http://tokikai.jp/
クリスペプラーさんの件とても驚きました。
私は歴史などほとんど興味がなく気にしなかったのですが、実は言うとクリスペプラーさんと同じく明智光秀の子孫と祖父に伝えられていました。
今は祖父は亡くなってるのですが家系図が親族の何処かにあるそうです。
かく言う自身もアメリカとハーフでクリスペプラーさんと同じ境遇なので、何か因果があるのでは?
と思っています。
※調べたところ他の子孫も混血が多いそうで…
何か調べる価値があると思いましたらご連絡下さい。
私自身もはっきりさせたい所存です。
祖父は設計士で横浜市の文化賞などもらっている人間なので嘘などつく人では無いと思います。かなり信憑性はあるので宜しくお願いします。
まず伝承内容を正確に文字にして残すことを行ってください。誰が、何をどう言ったのか。極力、多くの家族・親戚から情報を集めて、そのまま(加工しないで)記録してください。
この第一段階が終わったら、ルーツ探しになりますが、これは容易なことではありません。記録した伝承からヒントを得て、自分の身近な先祖(曾祖父あたり)から辿ってください。家紋、出身地、墓、過去帳、戸籍謄本などが手掛かりになります。自分一代では何も見つからないかもしれないと考えて、長期戦で取り組んでください。
一般的には長男賴勝、次男賴高、三男賴泰となっております
家系図では賴吉と言う人物もおります
この代以降の親類書きもありますが別人ながら同じ名前も多くあります
お尋ねの賴勝系は愛知の3兄弟が子孫でおられると聞いたますので
そちらに確認されたら良いと思います
私については明智憲三郎様と以前名刺交換もしておりますのでお尋ね下さい。