『太平記』を角川文庫ビギナーズ・クラシック日本の古典(武田友安編)で読みました。
NHK大河ドラマの「太平記」がとても面白かったので、以前文庫本で原文形式のものを読みかけました。ところが、やはり難しくて途中で読み進めず、そのまま放ってありました。先日、たまたま本屋でビギナーズ・クラッシク版を見つけてページをめくってみたら、あらすじを知ることができ、かつ一部原文形式も読めるので買ってみました。
★ Wikipedia「太平記(NHK大河ドラマ)」記事
大河ドラマで何が面白かったかというと武将たちのバサラ大名としての生き方や離合集散の人間模様を初めて知ったことです。それまでは、『太平記』も足利尊氏もほとんどマスコミに取り上げられなかったので、とても新鮮な感覚で見ることができました。天皇に弓を引いた足利尊氏を悪人とする戦前の風潮の影響ではなはだ人気がなかったのです。今でも信長・秀吉・家康にはいささか食傷気味ですが。
★ Wikipedia「バサラ大名」記事
★ Wikipedia「足利尊氏」記事
今回本を読んでみて、武将の生き残るための論理をあらためて強く感じました。後醍醐天皇方の南朝と足利尊氏方の幕府(北朝)は40年間に渡って対立を続けますが、その間、南朝方の武将が幕府方に寝返ったり、その逆だったりと実にドライに立場を入れ替えています。たとえば、代表的なものとして下記があります。
足利直義(ただよし)は尊氏の弟として足利幕府を支えていましたが尊氏と対立し、一時南朝方へ。
★ Wikipedia「足利直義」記事
足利直冬は尊氏の実子、かつ直義の養子でしたが南朝方に寝返り。
★ Wikipedia「足利直冬」記事
石塔義房は尊氏の重臣でしたが、尊氏と敵対した直義に味方して南朝方に寝返り。
宇都宮公綱も尊氏から南朝へ。
塩谷高貞は南朝方の新田義貞から尊氏へ。
大内弘世は南朝方の直冬から幕府方の尊氏の子・義詮(よしあきら)へ。
斯波(しば)高経は尊氏から直義へ、一度尊氏へ戻って直冬へ、そして再び尊氏へ。
仁木(につき)義長は直義から尊氏へ、一度南朝へ寝返って、義詮へ。
畠山国清は尊氏から直義(南朝方)へ、そして尊氏へ戻った。
桃井直常は新田義貞から尊氏へ、そして直義(南朝方)へ。
山名時氏は尊氏から直義(南朝方)へ、そして義詮へ。
その原因には味方の内部抗争で追い出される形になったケースもありますが、やはり勝ち残る方に乗って生き残りたいという武将として当然の論理だったのだと思います。武将たちは正にゲーム理論で動いていたのです。
現代人の感覚からみると「義がない」「節操がない」といった評価となると思います。そこに現代人が戦国時代を現代人感覚でとらえてしまって見誤る落とし穴があります。
たとえば拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』でたどり着いた真実のひとつに「織田信長は徳川家康を討つつもりだった」ということがありますが、これを「ありえない~」と頭から思い込んでしまっている人がいます。「同盟者を討つわけがない」というのがその理由とされますが、それは当時の武将たちの論理ではないのです。
現に信長は本能寺の変のわずか2年前に長年の譜代家臣で最大勢力を持つ家老の佐久間信盛父子を追放しています。これも「大切な家老を追放するわけがない」ので「ありえない~」となってしまいます。しかし、現実に起きています。そこで、当時の武将の論理を理解しない人は、これは「信長の冷酷な性格によって起きた」という解釈をつけてしまうことになります。
★ Wikipedia「佐久間信盛」記事
武将の論理で考えると、そうはなりません。
家臣への報酬が土地(領地)であった時代には領地拡大を伴わない戦争での功労者への報酬は主君にとってはなはだ解決困難な問題だったのです。信長も功労のあった光秀・秀吉らへの報酬に悩み、その結果出した答が佐久間家の領地没収とその再配分だったのです。
この政策は信長の性格から生まれたものではなく、生き残るための武将の論理から生まれたものなのです。そういった理解無くして戦国時代に起きた事柄を解釈するのは誤りですし、不遜なのではないでしょうか。戦国時代の武将のとても重い判断による行動を現代人の我々の軽々しい判断で理解してしまう態度は不遜だと私は自戒するように務めています。
ここに見てきたことはほんの一例に過ぎません。現代人の歴史に対する思い込みはいろいろあります。マスメディアを通じて流される情報でいつの間にか思い込んでしまっていることが多いです。その思い込みを捨てて当時の実態をよく知ることが歴史の真実を理解する上で大事なことだと思います。
【お知らせ】
本ブログは『本能寺の変 四二七年目の真実』著者のブログです。通説・俗説・虚説に惑わされない「真実」の世界を探究します。
★ このブログの説明のページ
★ このブログの目次(サイトマップ)
★ 怨恨説を斬る!
★ 野望説を斬る!
★ 本能寺の変は三面記事?!
★ 通説の創作者は秀吉!
★ ノイローゼ説を斬る!
★ 発作的犯行説を斬る!
★ 朝廷黒幕説を斬る!
★ 朝廷黒幕説を斬る!(続き)
★ 足利将軍黒幕説を斬る!
★ 足利将軍黒幕説を斬る!(続き)
★ イエズス会陰謀説を斬る!
★ イエズス会陰謀説を斬る!(続き)
★ イエズス会陰謀説を斬る!(続きの続き)
★ 日光東照宮桔梗紋説を斬る!
★ 「敵は本能寺にあり」を斬る!
★ 「是非に及ばず」を斬る!
★ 安土城放火・織田信雄の冤罪を晴らす!
★ 安土城放火・織田信雄の冤罪を晴らす!(続き)
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NHK大河ドラマの「太平記」がとても面白かったので、以前文庫本で原文形式のものを読みかけました。ところが、やはり難しくて途中で読み進めず、そのまま放ってありました。先日、たまたま本屋でビギナーズ・クラッシク版を見つけてページをめくってみたら、あらすじを知ることができ、かつ一部原文形式も読めるので買ってみました。
★ Wikipedia「太平記(NHK大河ドラマ)」記事
大河ドラマで何が面白かったかというと武将たちのバサラ大名としての生き方や離合集散の人間模様を初めて知ったことです。それまでは、『太平記』も足利尊氏もほとんどマスコミに取り上げられなかったので、とても新鮮な感覚で見ることができました。天皇に弓を引いた足利尊氏を悪人とする戦前の風潮の影響ではなはだ人気がなかったのです。今でも信長・秀吉・家康にはいささか食傷気味ですが。
★ Wikipedia「バサラ大名」記事
★ Wikipedia「足利尊氏」記事
今回本を読んでみて、武将の生き残るための論理をあらためて強く感じました。後醍醐天皇方の南朝と足利尊氏方の幕府(北朝)は40年間に渡って対立を続けますが、その間、南朝方の武将が幕府方に寝返ったり、その逆だったりと実にドライに立場を入れ替えています。たとえば、代表的なものとして下記があります。
足利直義(ただよし)は尊氏の弟として足利幕府を支えていましたが尊氏と対立し、一時南朝方へ。
★ Wikipedia「足利直義」記事
足利直冬は尊氏の実子、かつ直義の養子でしたが南朝方に寝返り。
★ Wikipedia「足利直冬」記事
石塔義房は尊氏の重臣でしたが、尊氏と敵対した直義に味方して南朝方に寝返り。
宇都宮公綱も尊氏から南朝へ。
塩谷高貞は南朝方の新田義貞から尊氏へ。
大内弘世は南朝方の直冬から幕府方の尊氏の子・義詮(よしあきら)へ。
斯波(しば)高経は尊氏から直義へ、一度尊氏へ戻って直冬へ、そして再び尊氏へ。
仁木(につき)義長は直義から尊氏へ、一度南朝へ寝返って、義詮へ。
畠山国清は尊氏から直義(南朝方)へ、そして尊氏へ戻った。
桃井直常は新田義貞から尊氏へ、そして直義(南朝方)へ。
山名時氏は尊氏から直義(南朝方)へ、そして義詮へ。
その原因には味方の内部抗争で追い出される形になったケースもありますが、やはり勝ち残る方に乗って生き残りたいという武将として当然の論理だったのだと思います。武将たちは正にゲーム理論で動いていたのです。
現代人の感覚からみると「義がない」「節操がない」といった評価となると思います。そこに現代人が戦国時代を現代人感覚でとらえてしまって見誤る落とし穴があります。
たとえば拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』でたどり着いた真実のひとつに「織田信長は徳川家康を討つつもりだった」ということがありますが、これを「ありえない~」と頭から思い込んでしまっている人がいます。「同盟者を討つわけがない」というのがその理由とされますが、それは当時の武将たちの論理ではないのです。
現に信長は本能寺の変のわずか2年前に長年の譜代家臣で最大勢力を持つ家老の佐久間信盛父子を追放しています。これも「大切な家老を追放するわけがない」ので「ありえない~」となってしまいます。しかし、現実に起きています。そこで、当時の武将の論理を理解しない人は、これは「信長の冷酷な性格によって起きた」という解釈をつけてしまうことになります。
★ Wikipedia「佐久間信盛」記事
武将の論理で考えると、そうはなりません。
家臣への報酬が土地(領地)であった時代には領地拡大を伴わない戦争での功労者への報酬は主君にとってはなはだ解決困難な問題だったのです。信長も功労のあった光秀・秀吉らへの報酬に悩み、その結果出した答が佐久間家の領地没収とその再配分だったのです。
この政策は信長の性格から生まれたものではなく、生き残るための武将の論理から生まれたものなのです。そういった理解無くして戦国時代に起きた事柄を解釈するのは誤りですし、不遜なのではないでしょうか。戦国時代の武将のとても重い判断による行動を現代人の我々の軽々しい判断で理解してしまう態度は不遜だと私は自戒するように務めています。
ここに見てきたことはほんの一例に過ぎません。現代人の歴史に対する思い込みはいろいろあります。マスメディアを通じて流される情報でいつの間にか思い込んでしまっていることが多いです。その思い込みを捨てて当時の実態をよく知ることが歴史の真実を理解する上で大事なことだと思います。
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本ブログは『本能寺の変 四二七年目の真実』著者のブログです。通説・俗説・虚説に惑わされない「真実」の世界を探究します。
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★ 安土城放火・織田信雄の冤罪を晴らす!
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