これまで誰も試みたことのない、坂本城から土佐までの明智一族の脱出ルートを捜査しました。その結果、丹波を抜けて毛利領へ逃げるルートがもっとも安全であり、可能性が高いという捜査結果となりました。
★ 坂本龍馬先祖の脱出ルート捜査(前編)
ただ、もっと安全性の高いルートがありました。
それは秀吉の軍勢が攻めてくるのとは逆の方向、すなわち北へ向かって逃げるルートです。
坂本からほぼ真北へ向かって80キロほど行くと日本海にぶつかります。そこにあるのが「小浜(おばま)港」です。
小浜はオバマ大統領の出現で一躍知られるようになりましたが、古代から江戸時代まで日本有数の港として有名だったのです。古くは朝鮮との交易の窓口として、江戸時代には北前船(きたまえぶね)による北海道・東北地方と大阪・京都を結ぶ交易の中継地として。
★ Wikipedia「小浜市」記事
★ Wikipedia「北前船」記事
この小浜港から船に乗って土佐まで行くルートこそ、もっとも安全性が高く、しかも一度にたくさんの人を脱出させられるルートです。
長宗我部方と明智方とで前もって脱出策の相談が行われていたとしたら、脱出のための船を長宗我部氏が用意して小浜港に停泊させていたと考えられます。当時の軍船で最も大きかったのは安宅船(あたけぶね)で、これであれば数十人から百数十人は運べたようです。
★ Wikipedia「安宅船」記事
もう一段小型の関船(せきぶね)でもよかったかもしれません。
★ Wikipedia「関船」記事
★ 船の科学館「関船」
そして、この小浜港からの脱出に大変有利な条件がもうひとつありました。それは当時小浜を治めていたのが武田元明(もとあき)だということです。武田元明こそ本能寺の変に際して、光秀に加担して佐和山城を攻め落とし、後に処刑(自害とも)された人物です。当然、明智一族の脱出には力を貸してくれたでしょう。
★ Wikipedia「武田元明」記事
「港に停泊する何隻かの長宗我部軍船に坂本から逃れてきた人々が次々と乗り込み、見送る小浜城主高田元明に手を振ったり、手を合わせて拝んだりしながら船が岸を離れていきました。その中に坂本龍馬の先祖となる明智秀満の一子・弥太郎丸の姿もありました。土岐氏の再興を念じながら。・・・」
というのは、もちろん作り話です。軍記物のやり方を真似てみました。こういう記述を「その場にいないと書けない臨場感」などといって信憑性ありとする研究家がいるので困ってしまいます。書いた人物がその場にいることができたかどうかを考えればたちどころに嘘とわかるはずなのです。何十年、百年、何百年も前のことを書いている筆者がその場に居合わせるわけがありませんので。
★ 刷り込まれた本能寺の変の通説
歴史捜査的には次の結論となります。
「坂本龍馬の先祖が明智一族だったとしたら、小浜港から長宗我部の軍船で土佐へ逃れた可能性が高い。ただし、全て状況証拠に基づく推論であり、物的証拠や証言は得られなかった。
別ルートとして毛利領を経由して土佐に至った可能性も残る。明智一族の子孫と伝えられる家系に山口県や香川県に逃れてきたという言い伝えがあることが裏付けとなる。
なお、坂本龍馬の先祖が明智一族である可能性は状況証拠から見て高いと思われるが、継続して捜査する必要がある」
いかがでしょうか?
【お知らせ】
本ブログは『本能寺の変 四二七年目の真実』著者のブログです。通説・俗説・虚説に惑わされない「真実」の世界を探究します。
★ このブログの説明のページ
★ このブログの目次(サイトマップ)
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ただ、もっと安全性の高いルートがありました。
それは秀吉の軍勢が攻めてくるのとは逆の方向、すなわち北へ向かって逃げるルートです。
坂本からほぼ真北へ向かって80キロほど行くと日本海にぶつかります。そこにあるのが「小浜(おばま)港」です。
小浜はオバマ大統領の出現で一躍知られるようになりましたが、古代から江戸時代まで日本有数の港として有名だったのです。古くは朝鮮との交易の窓口として、江戸時代には北前船(きたまえぶね)による北海道・東北地方と大阪・京都を結ぶ交易の中継地として。
★ Wikipedia「小浜市」記事
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この小浜港から船に乗って土佐まで行くルートこそ、もっとも安全性が高く、しかも一度にたくさんの人を脱出させられるルートです。
長宗我部方と明智方とで前もって脱出策の相談が行われていたとしたら、脱出のための船を長宗我部氏が用意して小浜港に停泊させていたと考えられます。当時の軍船で最も大きかったのは安宅船(あたけぶね)で、これであれば数十人から百数十人は運べたようです。
★ Wikipedia「安宅船」記事
もう一段小型の関船(せきぶね)でもよかったかもしれません。
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そして、この小浜港からの脱出に大変有利な条件がもうひとつありました。それは当時小浜を治めていたのが武田元明(もとあき)だということです。武田元明こそ本能寺の変に際して、光秀に加担して佐和山城を攻め落とし、後に処刑(自害とも)された人物です。当然、明智一族の脱出には力を貸してくれたでしょう。
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「港に停泊する何隻かの長宗我部軍船に坂本から逃れてきた人々が次々と乗り込み、見送る小浜城主高田元明に手を振ったり、手を合わせて拝んだりしながら船が岸を離れていきました。その中に坂本龍馬の先祖となる明智秀満の一子・弥太郎丸の姿もありました。土岐氏の再興を念じながら。・・・」
というのは、もちろん作り話です。軍記物のやり方を真似てみました。こういう記述を「その場にいないと書けない臨場感」などといって信憑性ありとする研究家がいるので困ってしまいます。書いた人物がその場にいることができたかどうかを考えればたちどころに嘘とわかるはずなのです。何十年、百年、何百年も前のことを書いている筆者がその場に居合わせるわけがありませんので。
★ 刷り込まれた本能寺の変の通説
歴史捜査的には次の結論となります。
「坂本龍馬の先祖が明智一族だったとしたら、小浜港から長宗我部の軍船で土佐へ逃れた可能性が高い。ただし、全て状況証拠に基づく推論であり、物的証拠や証言は得られなかった。
別ルートとして毛利領を経由して土佐に至った可能性も残る。明智一族の子孫と伝えられる家系に山口県や香川県に逃れてきたという言い伝えがあることが裏付けとなる。
なお、坂本龍馬の先祖が明智一族である可能性は状況証拠から見て高いと思われるが、継続して捜査する必要がある」
いかがでしょうか?
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丹波から四国へ抜けるルートで毛利領へ行くには、秀吉領の但馬・播磨・因幡などがあり通過は難しいのでは?とおもいました。
逆に軍勢が通過した後の、丹波→摂津→淡路へ抜ける方が意外性があって早く行けるかも?と思いました。
何故かと言うと、秀吉軍は幾つもある丹波へのルートを攻めずに、老ノ坂から高山・中川軍に攻めさせています。(敗走した丹波衆は?そのまま山に逃げ入れば!丹波逃げられるのにワザワザ?素人の様に、老ノ坂ルート選ぶかな・・・?と言うのも疑問ですが・・・?)
また、戦後処理でも丹波の国人領は殆んどが安堵に近い状態で、蜷川氏も住み続けています。不思議です??
四国繋がりで・・・。
徳川家康の命で、丹波亀山城の改修工事をした祭、藤堂高虎が今治城の天守閣を移築したそうです。(現在の今治城の天守は、幕末の亀山城の写真を参考に建てられたそうです。)