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本能寺の変 「明智憲三郎的世界 天下布文!」

『本能寺の変 431年目の真実』著者の公式ブログです。
通説・俗説・虚説に惑わされない「真実」の世界を探究します。

戦国時代につながる現代:侵略の記憶

2013年01月11日 | 歴史捜査レポート
 拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』(プレジデント社、2009年)出版以来、福知山市と綾部市で講演の機会をいただきました。いずれも先祖光秀の治めていた丹波の地です。
 ★ 京都府福知山市での講演会
 ★ 京都府綾部市での講演会

 先祖ゆかりの地ということで講演会をお世話いただいた方々に歓迎を受けたことはもちろんですが、丹波の歴史の影の部分も肌で感じることになりました。それは「私の先祖は光秀に滅ぼされた側です」とおっしゃる方の言葉に象徴されていました。
 まぎれもなく丹波は光秀が侵略した地!
 冒頭の写真は福知山城の石垣に使われていた墓石の残骸です。光秀は福知山城の築城にあたって近隣の寺から墓石を徴発したのです。美しく立派な福知山城の石垣に侵略の痕跡が残されていたわけです。


 こういった戦国時代の侵略された記憶は未だにしっかりと地元の記憶には残っているものです。
 三重県菰野町に講演に行った際に、悪さをする子供を諫めるときに地元では「ガモジガクルゾ!」と言うと聞きました。これは豊臣秀吉が北伊勢を攻めた際に蒲生氏郷が攻め込んできたときの記憶とのことです。
 ★ 三重県菰野町での講演会

 四国の愛媛県に生まれ育った大江健三郎氏の著『万延元年のフットボール』には自分の子供時代についての次のような記述があります。
 チョウソカベはあらゆる時間と空間に偏在しているのである。恐ろしく巨大な他者だ。僕が反抗すると、祖母はチョウソカベが森からやってくる! と威嚇したが、その声の響きは、幼児の僕のみならず八十歳の祖母自身にも、われわれと同時代に生きている恐しく巨大なチョウソカベの気配を実感させた・・・・・・

 これは土佐から発して四国全土を侵略した長宗我部氏の伊予の国に残した侵略の記憶です。
 「カモジガクルゾ!」も「チョウソカベが森からやってくる!」も戦国時代の記憶です。四百年前の記憶が侵略された側には恐ろしい記憶として現代にもつながって残っているのです。その恐ろしさの度合いがどれほどのものであったかがわかります。
 「壁をかじったネズミは覚えていないが、かじられた壁は忘れない」という諺がありますが、四百年前の侵略した側は忘れていますが、侵略された側は決して忘れていないのです。
 私は四百年前に侵略した側として、この事実だけはしっかり心に刻んでおこうと思います。
 そして、日本人としては、420年前の1592年に豊臣秀吉が朝鮮に侵攻した歴史の事実は理解しておかねばならないと考えます。
 ★ 日本と朝鮮半島2000年(深く知るべき歴史)

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 『本能寺の変 四二七年目の真実』のあらすじはこちらをご覧ください。
 また、読者の書評はこちらです
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>>>『本能寺の変 四二七年目の真実』出版の思い
本能寺の変 四二七年目の真実
明智 憲三郎
プレジデント社

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2 コメント

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Unknown (氷上丹波)
2013-01-17 13:29:50
私の父の郷里は奥丹波です。最期まで光秀軍に抵抗したためか、
福知山や亀岡と違い、明智光秀の遺恩を偲ぶという話は聞きま
せん。奥丹波三郡は江戸時代に織田信長の子孫が藩主として
「柏原藩」が立藩していたためかと思われます。
だから、仮に織田軍による残虐行為があったとしても、記録に
はないかも知れませんが、民間伝承に残るような記憶にもない
ところを見ると、織田軍にしても、波多野、赤井、籾井諸軍も
非戦闘員を巻き込むような戦をしていなかったのかも知れませ
んね。私の勉強不足の可能性もありますが。

秀吉による朝鮮侵略よりも以前に、日本は壱岐、対馬に侵略を
受けています。いわゆる元寇ですが、これは元に降った高麗の
王世子の椹(後の忠烈王)が、元国のクビライ皇帝に「惟んみ
るに、日本は未だに聖化を蒙らず。故に詔を発し、軍容を継耀
せしめんとせば、戦艦兵糧まさに、須いる所あらん、もし此事
を以って臣に委ねなば、王師を小助せん(高麗史)」と具申した
ことが原因でした。
この時、老人、男たちは皆殺しにされ、女たちは集められて手の
平に杭で穴を開けられて縄を通され数珠つなぎにされ船縁に吊る
されて中国本土に連行され、子供たちは高麗軍に連れ去られて奴
隷として王世子の椹に献上されたとのことでした。
ですので、壱岐、対馬では今でも泣いた子供に対して黙らす言葉
が、ムクリ(蒙古)、コクリ(高麗)の鬼が来る、というそうです。
日蓮も「高祖遺文録」の中で、「皆、人の当時の壱岐対馬の様にな
らせ給わん事思いやり候へば、涙も留まらず」と結んでいるそう
です。
ちなみに、この元寇では高麗軍の他、亡国の宋の民も参加してい
たそうですが、残虐行為には加わらなかったため、捕虜になって
も、大陸へ送り返されたそうです。

恐らく、私は侵略された側の立場(墓石の元号には弘治が刻まれ
てました)なのでしょうが、全く自覚がありません。
それは、秀吉の朝鮮侵略軍の不法行為、残虐行為が目に余るもの
だったのと違い、丹波経略における織田軍が軍紀厳正だったのか
も知れません。
長文、失礼しました。
返信する
貴重なお話ありがとうございます (明智憲三郎)
2013-01-17 14:45:03
 丹波の話、壱岐・対馬の話、いずれも表だって歴史書には書かれない貴重なお話であり、大変ありがとうございました。
 「ムクリ、コクリの鬼が来る」ですか。弘安三年(1281)のことでしょうから732年前のことですか。それだけ深い記憶なのでしょう。辛い史実ですが正視しておく必要がありますね。
返信する

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