連載してきた藤本正行氏・鈴木眞哉氏の拙著批判への反論も今回の7回目がいよいよ最終回です。前々回は両氏の唱える説の正体が歴史学界のメジャーを占める高柳説(高柳光寿氏が50年ほど前に『明智光秀』に書いた説)の追認であることを書きました。前回は光秀の前半生と謀反の動機について斬りましたが、今回は謀反のプロセスについての高柳説、藤本・鈴木説を斬ってみます。
★ 前回はこちら
【謀反プロセス】
単独犯行説
「共犯者はおらず光秀の単独犯行である」とする説です。
高柳氏は光秀が重臣に初めて謀反の企てを打ち明けたのは本能寺の変の前日の六月一日の夜だと書いています。高柳氏は『信長公記』『甫庵信長記』『当代記』などの記述を参考に示した上で『川角太閤記』の記述を引いて次のように書いています。
「光秀がその決意を深く蔵していたということ、出発のころにならなければそれを発表しなかったということであり、謀反の企ては他から勧められてのものではなく、またそれを他と相談して決定したものではないことを物語っている」
この主張は藤本・鈴木両氏の「機密漏洩が肝心であり、謀略はなかった」とする説の元になった主張といえます。
そして、高柳氏はこの文の続きを次のように書いています。
「この『川角太閤記』という本は、誤りも多いけれども、肝要なことはよく捉えており、珍重すべきところも多い」
ここに非常に危険な考え方が現れています。果たして、ある記事について「誤り」と「珍重すべき」との判定の基準は何なのでしょうか。「誤り」を「珍重すべき」と判定誤りしていませんか。そうではないと何をもって反証できるのでしょうか。特に「誤りの多い書物」と本人自身が認めている書物についてなのです。要は自説に合う記事のみを都合よくつまみ食いしているに過ぎないのです。
『川角太閤記』は本能寺の変から四十年以上たって書かれた軍記物、つまり物語に過ぎないのですが、高柳氏がこのように公認したことによって歴史学界では史料としての価値が認められてしまったようです。史料の信憑性の取り扱いに慎重な藤本・鈴木両氏も『川角太閤記』は躊躇無く引用しているように見えます。
結局のところ、藤本・鈴木両氏の共著では高柳説の六月一日説を踏襲して光秀は初めて六月一日夜に重臣に謀反の企てを話したと断定的に書いています。
ところで、軍記物が単独犯行説の元ネタに使ったのは『惟任退治記』です。その中で明らかに秀吉は光秀の単独犯であると宣言しています。しかし、重臣に打ち明けたのは六月一日が初めてだとは書いていません。軍記物は『惟任退治記』に書かれている「光秀は密に謀反を企てた」ということと「五人の重臣を頭として部隊編成した」という記述から「六月一日夜に五人に初めて話した」場面を創作したに過ぎないのです。「重臣にすら直前まで秘密にしていたのだから、他の人に事前に話すわけもない」という論拠は本能寺の変から四十年以上たって書かれた軍記物という物語が作った話に依拠しているに過ぎないのです。
一方で、長宗我部元親の家臣が書いた『元親記』には光秀重臣の斎藤利三が長宗我部氏の滅亡を危惧して「明智の謀反をさし急いだ」と書かれています。大軍勢を動員しての謀反という一大プロジェクトを遂行するには、それなりの準備が必要だ、というのが企業人としていくつも大きなプロジェクト経験してきた私の認識です。当然、重臣クラスとは綿密な事前調整を実施していなければできないことだと考えます。『元親記』の記述はそれを裏付けていると思います。
謀反を起こすからには成功しなければなりません。そのためには明智家中の結束は当然ですが、勝ち残るための施策が必要です。当然、同盟者の確保が必要です。光秀は同盟者の確保と情報漏えいのリスクを天秤にかけたでしょう。企業人は自然にそのように考えます。企業活動での政策決定はそうやって行っているのです。高柳説(それを踏襲した藤本・鈴木説)には、この視点が一切ありません。千載一遇のチャンスが来たので後先考えずにとにかく信長を討ってしまうのです。
当時の武将たちが生き残りをかけて、様々な形での合従連衡を行い、調略を行っていた事実は枚挙にいとまがありません。秀吉の公式発表である『惟任退治記』の単独犯行説に疑いを全く持たず、軍記物の作った六月一日説を論拠にして単独犯行説しかありえないという主張は余りにお人好しというか現実を見ないというか強引な主張です。この論理には無理があるという極めて常識的な認識がさまざまな謀略説を生んでいるといってよいでしょう。謀略説を嗤う前に単独犯行説の論拠の脆弱性を検証してみるべきではないでしょうか。
偶発説
「たまたま偶然に信長を討てるチャンスが来たので討った。特段の段取りも謀略も存在しない」とする説です。
これは企業人には全く納得できない説です。何故ならば、プロジェクトの成功には周到な計画と準備が必要だからです。偶然に謀反のような大事が成功することなどあり得ないのです。高柳氏も藤本・鈴木両氏も謀反成功のプロセスについては何も説明していません。偶然成功したのだから、その段取りを説明する必要は一切ないということでしょうか?
それでは以下のような史実はどのように考えたらよいのしょう。
1.信長の5月29日の上洛の報を受けた光秀はそれだけで信長を討って謀反を成功させられると何故思ったのか?謀反という重大事の決断には余りに安易ではないか。
2.翌日(この年は6月1日)及び決行日の6月2日の信長の動向を監視していなければ、いつ信長が安土へ帰ってしまったり、増員兵力が上洛してこないとも限らない。用心深い光秀であれば当然、監視を怠らなかったであろうが、では、何故5月29日にやはり上洛して本能寺の側の妙覚寺に滞在していた織田信忠の存在を見落としていたのか?光秀は5月29日から6月2日までの本能寺周辺の情報収集を全く行っていなかったということではないのか?
3.本能寺で信長を討った後に、光秀は安土城占拠に向かい、無血入城を果たしている。織田軍本隊が中国出陣のために集結しているかもしれない安土城にどうして無血入城できると読んでいたのか?
4.本能寺の変のあった6月2日の早朝、家康一行は信長に挨拶のため堺から京都へ向かっていた(『茶屋由緒記』)、筒井順慶も本能寺へ向かっていた(『多聞院日記』)。二人を呼び集めていた信長の意図は何だったのか?また、家康は前日に茶屋四郎次郎を先行して京都に戻し、当日は本多平八郎を先行して出発させているが、その狙いは何か?筒井順慶は途中で「信長は中国出陣のため安土に帰ったので上洛の必要はない」という偽情報を受け取って大和へ帰っているが、この偽情報は誰が何の目的で出したのか?
5.信長は本能寺へ大量の茶器を持参していた(『フロイス日本史』)。これは何を目的としたものであったか?
6.3月の甲斐武田攻めの際、信長が光秀・細川忠興・筒井順慶に「人数少なく」同行する命令を出したが、これは何が目的だったのか?戦闘行為をさせずに富士山見物をさせて慰労するつもりだったのか?
7.『フロイス日本史』には「安土城の密室において信長と光秀が二人だけで家康歓迎の準備について相談していた」と書かれているが、何故、そのようなことを密室で二人だけで相談する必要があったのか?
8.『惟任退治記』には「秀吉と光秀が相談した結果次第で信長も中国へ出陣する旨を厳重に申し渡した」と書かれているが、何故信長は光秀が秀吉と相談する前に中国出陣と称して上洛したのか?
9.本城惣右衛門やフロイスはどのような情報をもとにして「光秀の兵は皆、本能寺へ向かうと聞いて、信長の命令で家康を討ちに行くものと思った」のか?新聞やテレビのない時代に「皆が同じ考えを抱いた」という事実を単なる「彼らの誤解」で済ませられるのか?
また、藤本氏が著書で「信長が家康を討つわけがない」と決め付けていることと、当時の光秀の兵が皆揃って「信長の命令で家康を討つと誤解した」と解釈していることとに論理の整合はあるのか?当時の人がこぞって「信長による家康討ちがある」と思ったのに、それをどうして現代の歴史研究家は「あり得ない」と決め付けられるのか?当時の人が持っていた情報を現代の自分は持っていないが故に自分こそ「信長による家康討ちはない」と誤解しているのではないかと思はないのか。
神君伊賀越え命からがら説
「本能寺の変勃発後の徳川家康の脱出行は命からがらだった」とする説です。
これについては既に本ブログにたくさん書きましたので言い尽くされていると思います。以下のページをご覧ください。
定説の根拠を斬る!「神君伊賀越え」
定説の根拠を斬る!「神君伊賀越え」(続き)
定説の根拠を斬る!「神君伊賀越え」(最終回)
定説の根拠を斬る!「安土城放火犯」
中国大返し強行軍説
「本能寺の変を知った秀吉は六月六日午後に備中高松を出発し、暴風雨の中、1日80キロの強行軍で翌日姫路にたどり着いた」とする説です。
これについても本ブログで既に詳しく書いていますので以下のページをご覧ください。
定説の根拠を斬る!「中国大返し」
高柳氏は『惟任退治記』に秀吉が書かせた記事を鵜呑みにしています。藤本・鈴木両氏は『惟任退治記』という出典も示さずに既定の事実として書いています。秀吉が自分の都合のよいように書いた可能性など全く考えてもいないのです。六日の前日に既に途中まで引き返しているという秀吉の書状が残っているにもかかわらず、『惟任退治記』の記述が正しく、秀吉の書状は嘘を書いていると頭から決め付けています。
その逆の可能性の方が高くないでしょうか?『惟任退治記』の方が嘘を書いているのでは?暴風雨の中を1日80キロの強行軍が可能なのかを是非軍事科学的に検証していただきたいと思います。
以上、2回に渡って藤本・鈴木両氏の説と両氏が踏襲している高柳説の根拠の脆弱さを斬ってきました。こうして見るとあらためて三氏の史料の取り扱いの厳密性の欠如を感じます。ところがWIKIPEDIAやamazonの書評などを見ると三氏は歴史学界で最も史料の取り扱いが厳密で素晴らしいと誉めそやされています。エンジニアとして仕事をしてきた私にはどうにも理解しかねる評価です。そのことを最後に申し上げて、このシリーズを閉じることにいたします。
拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』が「奇説」「落第組」なのか、はたまた高柳氏、藤本・鈴木氏の説が「奇説」「落第組」なのか皆様のご評価を仰ぎたいと思います。コメント欄への書き込み大歓迎です。
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【拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』批判への反論シリーズ】
1.藤本正行氏「光秀の子孫が唱える奇説」を斬る!
2.鈴木眞哉氏『戦国「常識・非常識」大論争!』を斬る!
3.鈴木眞哉氏『戦国「常識・非常識」大論争!』を斬る!(続き)
4.鈴木眞哉氏『戦国「常識・非常識」大論争!』を斬る!(続きの続き)
5.信長は謀略で殺されたのだ:本能寺の変・偶発説を嗤う
6.信長は謀略で殺されたのだ:本能寺の変・偶発説を嗤う(続き)
7.信長は謀略で殺されたのだ:本能寺の変・偶発説を嗤う(完結編)
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【謀反プロセス】
単独犯行説
「共犯者はおらず光秀の単独犯行である」とする説です。
高柳氏は光秀が重臣に初めて謀反の企てを打ち明けたのは本能寺の変の前日の六月一日の夜だと書いています。高柳氏は『信長公記』『甫庵信長記』『当代記』などの記述を参考に示した上で『川角太閤記』の記述を引いて次のように書いています。
「光秀がその決意を深く蔵していたということ、出発のころにならなければそれを発表しなかったということであり、謀反の企ては他から勧められてのものではなく、またそれを他と相談して決定したものではないことを物語っている」
この主張は藤本・鈴木両氏の「機密漏洩が肝心であり、謀略はなかった」とする説の元になった主張といえます。
そして、高柳氏はこの文の続きを次のように書いています。
「この『川角太閤記』という本は、誤りも多いけれども、肝要なことはよく捉えており、珍重すべきところも多い」
ここに非常に危険な考え方が現れています。果たして、ある記事について「誤り」と「珍重すべき」との判定の基準は何なのでしょうか。「誤り」を「珍重すべき」と判定誤りしていませんか。そうではないと何をもって反証できるのでしょうか。特に「誤りの多い書物」と本人自身が認めている書物についてなのです。要は自説に合う記事のみを都合よくつまみ食いしているに過ぎないのです。
『川角太閤記』は本能寺の変から四十年以上たって書かれた軍記物、つまり物語に過ぎないのですが、高柳氏がこのように公認したことによって歴史学界では史料としての価値が認められてしまったようです。史料の信憑性の取り扱いに慎重な藤本・鈴木両氏も『川角太閤記』は躊躇無く引用しているように見えます。
結局のところ、藤本・鈴木両氏の共著では高柳説の六月一日説を踏襲して光秀は初めて六月一日夜に重臣に謀反の企てを話したと断定的に書いています。
ところで、軍記物が単独犯行説の元ネタに使ったのは『惟任退治記』です。その中で明らかに秀吉は光秀の単独犯であると宣言しています。しかし、重臣に打ち明けたのは六月一日が初めてだとは書いていません。軍記物は『惟任退治記』に書かれている「光秀は密に謀反を企てた」ということと「五人の重臣を頭として部隊編成した」という記述から「六月一日夜に五人に初めて話した」場面を創作したに過ぎないのです。「重臣にすら直前まで秘密にしていたのだから、他の人に事前に話すわけもない」という論拠は本能寺の変から四十年以上たって書かれた軍記物という物語が作った話に依拠しているに過ぎないのです。
一方で、長宗我部元親の家臣が書いた『元親記』には光秀重臣の斎藤利三が長宗我部氏の滅亡を危惧して「明智の謀反をさし急いだ」と書かれています。大軍勢を動員しての謀反という一大プロジェクトを遂行するには、それなりの準備が必要だ、というのが企業人としていくつも大きなプロジェクト経験してきた私の認識です。当然、重臣クラスとは綿密な事前調整を実施していなければできないことだと考えます。『元親記』の記述はそれを裏付けていると思います。
謀反を起こすからには成功しなければなりません。そのためには明智家中の結束は当然ですが、勝ち残るための施策が必要です。当然、同盟者の確保が必要です。光秀は同盟者の確保と情報漏えいのリスクを天秤にかけたでしょう。企業人は自然にそのように考えます。企業活動での政策決定はそうやって行っているのです。高柳説(それを踏襲した藤本・鈴木説)には、この視点が一切ありません。千載一遇のチャンスが来たので後先考えずにとにかく信長を討ってしまうのです。
当時の武将たちが生き残りをかけて、様々な形での合従連衡を行い、調略を行っていた事実は枚挙にいとまがありません。秀吉の公式発表である『惟任退治記』の単独犯行説に疑いを全く持たず、軍記物の作った六月一日説を論拠にして単独犯行説しかありえないという主張は余りにお人好しというか現実を見ないというか強引な主張です。この論理には無理があるという極めて常識的な認識がさまざまな謀略説を生んでいるといってよいでしょう。謀略説を嗤う前に単独犯行説の論拠の脆弱性を検証してみるべきではないでしょうか。
偶発説
「たまたま偶然に信長を討てるチャンスが来たので討った。特段の段取りも謀略も存在しない」とする説です。
これは企業人には全く納得できない説です。何故ならば、プロジェクトの成功には周到な計画と準備が必要だからです。偶然に謀反のような大事が成功することなどあり得ないのです。高柳氏も藤本・鈴木両氏も謀反成功のプロセスについては何も説明していません。偶然成功したのだから、その段取りを説明する必要は一切ないということでしょうか?
それでは以下のような史実はどのように考えたらよいのしょう。
1.信長の5月29日の上洛の報を受けた光秀はそれだけで信長を討って謀反を成功させられると何故思ったのか?謀反という重大事の決断には余りに安易ではないか。
2.翌日(この年は6月1日)及び決行日の6月2日の信長の動向を監視していなければ、いつ信長が安土へ帰ってしまったり、増員兵力が上洛してこないとも限らない。用心深い光秀であれば当然、監視を怠らなかったであろうが、では、何故5月29日にやはり上洛して本能寺の側の妙覚寺に滞在していた織田信忠の存在を見落としていたのか?光秀は5月29日から6月2日までの本能寺周辺の情報収集を全く行っていなかったということではないのか?
3.本能寺で信長を討った後に、光秀は安土城占拠に向かい、無血入城を果たしている。織田軍本隊が中国出陣のために集結しているかもしれない安土城にどうして無血入城できると読んでいたのか?
4.本能寺の変のあった6月2日の早朝、家康一行は信長に挨拶のため堺から京都へ向かっていた(『茶屋由緒記』)、筒井順慶も本能寺へ向かっていた(『多聞院日記』)。二人を呼び集めていた信長の意図は何だったのか?また、家康は前日に茶屋四郎次郎を先行して京都に戻し、当日は本多平八郎を先行して出発させているが、その狙いは何か?筒井順慶は途中で「信長は中国出陣のため安土に帰ったので上洛の必要はない」という偽情報を受け取って大和へ帰っているが、この偽情報は誰が何の目的で出したのか?
5.信長は本能寺へ大量の茶器を持参していた(『フロイス日本史』)。これは何を目的としたものであったか?
6.3月の甲斐武田攻めの際、信長が光秀・細川忠興・筒井順慶に「人数少なく」同行する命令を出したが、これは何が目的だったのか?戦闘行為をさせずに富士山見物をさせて慰労するつもりだったのか?
7.『フロイス日本史』には「安土城の密室において信長と光秀が二人だけで家康歓迎の準備について相談していた」と書かれているが、何故、そのようなことを密室で二人だけで相談する必要があったのか?
8.『惟任退治記』には「秀吉と光秀が相談した結果次第で信長も中国へ出陣する旨を厳重に申し渡した」と書かれているが、何故信長は光秀が秀吉と相談する前に中国出陣と称して上洛したのか?
9.本城惣右衛門やフロイスはどのような情報をもとにして「光秀の兵は皆、本能寺へ向かうと聞いて、信長の命令で家康を討ちに行くものと思った」のか?新聞やテレビのない時代に「皆が同じ考えを抱いた」という事実を単なる「彼らの誤解」で済ませられるのか?
また、藤本氏が著書で「信長が家康を討つわけがない」と決め付けていることと、当時の光秀の兵が皆揃って「信長の命令で家康を討つと誤解した」と解釈していることとに論理の整合はあるのか?当時の人がこぞって「信長による家康討ちがある」と思ったのに、それをどうして現代の歴史研究家は「あり得ない」と決め付けられるのか?当時の人が持っていた情報を現代の自分は持っていないが故に自分こそ「信長による家康討ちはない」と誤解しているのではないかと思はないのか。
神君伊賀越え命からがら説
「本能寺の変勃発後の徳川家康の脱出行は命からがらだった」とする説です。
これについては既に本ブログにたくさん書きましたので言い尽くされていると思います。以下のページをご覧ください。
定説の根拠を斬る!「神君伊賀越え」
定説の根拠を斬る!「神君伊賀越え」(続き)
定説の根拠を斬る!「神君伊賀越え」(最終回)
定説の根拠を斬る!「安土城放火犯」
中国大返し強行軍説
「本能寺の変を知った秀吉は六月六日午後に備中高松を出発し、暴風雨の中、1日80キロの強行軍で翌日姫路にたどり着いた」とする説です。
これについても本ブログで既に詳しく書いていますので以下のページをご覧ください。
定説の根拠を斬る!「中国大返し」
高柳氏は『惟任退治記』に秀吉が書かせた記事を鵜呑みにしています。藤本・鈴木両氏は『惟任退治記』という出典も示さずに既定の事実として書いています。秀吉が自分の都合のよいように書いた可能性など全く考えてもいないのです。六日の前日に既に途中まで引き返しているという秀吉の書状が残っているにもかかわらず、『惟任退治記』の記述が正しく、秀吉の書状は嘘を書いていると頭から決め付けています。
その逆の可能性の方が高くないでしょうか?『惟任退治記』の方が嘘を書いているのでは?暴風雨の中を1日80キロの強行軍が可能なのかを是非軍事科学的に検証していただきたいと思います。
以上、2回に渡って藤本・鈴木両氏の説と両氏が踏襲している高柳説の根拠の脆弱さを斬ってきました。こうして見るとあらためて三氏の史料の取り扱いの厳密性の欠如を感じます。ところがWIKIPEDIAやamazonの書評などを見ると三氏は歴史学界で最も史料の取り扱いが厳密で素晴らしいと誉めそやされています。エンジニアとして仕事をしてきた私にはどうにも理解しかねる評価です。そのことを最後に申し上げて、このシリーズを閉じることにいたします。
拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』が「奇説」「落第組」なのか、はたまた高柳氏、藤本・鈴木氏の説が「奇説」「落第組」なのか皆様のご評価を仰ぎたいと思います。コメント欄への書き込み大歓迎です。
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【拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』批判への反論シリーズ】
1.藤本正行氏「光秀の子孫が唱える奇説」を斬る!
2.鈴木眞哉氏『戦国「常識・非常識」大論争!』を斬る!
3.鈴木眞哉氏『戦国「常識・非常識」大論争!』を斬る!(続き)
4.鈴木眞哉氏『戦国「常識・非常識」大論争!』を斬る!(続きの続き)
5.信長は謀略で殺されたのだ:本能寺の変・偶発説を嗤う
6.信長は謀略で殺されたのだ:本能寺の変・偶発説を嗤う(続き)
7.信長は謀略で殺されたのだ:本能寺の変・偶発説を嗤う(完結編)
他の本能寺の変書籍でも「○○は偽書と言われる事が多いが、この部分に関してはわざわざ偽りを書く必要が無いから信憑性がある」といった引用の仕方を見かけたりします。
ですので、まず証拠採用の部分で各研究者や作家によって大きく異なってしまっているので、議論を交わす裁判そのものが成立していないように思います。
少し逸れてしまいますが、僕は兵庫県伊丹市の人間でして、地元の歴史講座などに参加すると議題が荒木村重の謀反が題材になることも多いのですが、村重も割と突然「思いつき的に」謀反を起こしたように認識されているように思います。
ですが、村重も信長と戦を起こすに当たり足利義昭、毛利輝元、本願寺顕如のもとに誓書を出し同盟を誓っています。
「突発的に」と感じるのは信長に主眼を置いているために「これだけ取り立ててやっているのに何故?」という印象になりますが、村重目線で見れば様々な蓄積や政治的流れがあってのことというのがわかります。
村重は丹波波多野氏の一族の流れであること。
播磨の小寺氏との繋がり。
足利の摂津での影響力。
秀吉が中国方面司令官に任命されたこと。
尼崎、伊丹等の摂津百姓には一向宗が盛んだったこと。
それら様々な政治的連動が謀反に繋がっています。
ですので、光秀の本能寺の変にしても「突発的行動」ということは絶対あり得ないと思います。
寧ろ光秀は、それまでに信長に反旗を翻した浅井、波多野、松永、別所、荒木などの謀反を常に最前線で目の当たりにし、より入念に精度の高い計画を思考したと思います。
土岐氏の流れは足利幕府成立以前から始まっていますし、戦国時代も信長以前に様々な争乱の流れがあります。そういった流れを踏まえて起きた土岐氏である明智光秀謀反です。
ましてや14年間の流れ、たとえば佐久間信盛追放の意味を咀嚼しないで光秀謀反は論じられないですし、久秀・村重謀反についても同様でしょう。まだまだ本能寺の変研究は浅いレベルに留まっており、私の研究がようやく本格的研究の端緒を開いたのではないでしょうか。
ひとつは引用している史料の成立年と作成者であり、作成の経緯です。これらは史料の信憑性を評価する上で極めて重要なことですが、調べてみてもしっかりした研究が行われていないと思いました。
ふたつめはフロイス・2様ご指摘の当時の武将の兵力であり、本能寺の変当時の兵力の配置です。これについては確かに正確な基礎情報が乏しいのだと思います。
新人物往来社の雑誌にアバウトですがそれらしいデータが掲載されていますので、明日の国分寺での講演会でコピーをお渡しします。この資料からどこまで読み取れるか疑問ではありますが、一歩前進になればと。
単純な兵力比較になりますが、侵攻軍の主力は光秀、藤考、順慶、これを上述の配置図によれば、光秀軍 10,000プラス、藤考、順慶がそれぞれ5~6,000と表されています。 光秀が本能寺のときに集めた軍勢が13,000と言われています。 これに藤考+順慶の10,000を加えて23,000、信忠の2,000ほどを加えて25,000、これを侵攻軍第1陣とします。 対する家康側は、水野忠重 2,000、穴山梅雪 6,000、どちらも多めに見積もっています。 肝心の家康軍は10,000人以上との表示しかないのですが、中国攻めの秀吉軍と同じくらいの20,000プラスと仮定すると、全軍で30,000前後でしょうか? これは毛利輝元の33,000人と匹敵します。
ここまで、数の上では家康有利ですが、k.ののさんが指摘されていたように、美濃、尾張で雪だるま式に兵を集めると(稲葉貞通、氏家直通など動員可能な部将は確かにいるようです)侵攻軍も3,000ほどの上乗せは可能です。 これに加えて、甲斐の河尻秀隆が5,000の軍勢を有しています。 さらに摂津には少なく見積もっても15,000人ほど動員可能な兵はいるようで、これらを侵攻軍第2陣とすると、この単純計算から信長軍は数の上で少なくとも10,000人の優位が見込まれます。
もちろん明智説では家康領侵攻に先立って、家康は家臣もろとも上意討ちにあって抹殺されてしまうわけです。 20,000以上と見積もった家康軍は、これも6,000と多めに見積もった梅雪軍同様、指揮官不在となるわけで、大混乱は避けられないでしょう。 その際、上意討ちの心理的効果も無視できないと思います。 さらに言えば、水野忠重の刈谷、家康の浜松、梅雪の江尻は信長が富士山見物と称して行軍した一直線上に並んでいるのです。短期決戦での決着さえ可能かもしれません。
以上は、不確定要素も多いデータからの極めてプリミティブな考察です。 シミュレーションなどと呼べるものとは思っていません。 大事なことは、このようなある意味雑な推論からも、「家康領侵攻は軍事的に不可能」という理由が見出しにくいことです。 より精緻なデータや情報をお持ちの方々にご批判をいただければ幸いです。
俸禄関係では明らかに織田方です。信長から本領安堵された武田旧臣だからです。とはいえ、武田から織田への寝返りは家康が仲介し、家康と親しかったのも確かです。加えて、本能寺の変当時は家康と行動を共にしていました。
信長が家康を本能寺で討つ際に果たして梅雪は一緒に討たれる立場だったのでしょうか?それとも、光秀と一緒になって家康を討って、三河に攻め込む立場だったのでしょうか?これは拙著でも考え落としていました。
6000の軍勢が右につくか左につくかの話ですのでミリタリーバランスは大きく変わります。これは面白い謎です。
私は梅雪の領地と家臣を手に入れるために家康が梅雪を切腹させたと推理しました。梅雪の子供を世継ぎとして守るという交換条件を突きつけたと考えました。
しかし、梅雪が信長の意を受けて家康討ちに協力していたと考えるとどうでしょうか?家康一行と行動を共にしていたのは家康一行の監視役だったことになります。
そうであれば、そのことをもってして家康から切腹を迫られた。そして本人も言い逃れできずに切腹せざるを得なかったと考えられます。その蓋然性が高いと思いますがどうでしょうか?
フロイス・2様の分析から思いもよらず推理の歯車が回りだしました。ありがとうございます。
私も「残念ながら定説の尖兵」と題して「星2つ」の評価を書きました。この書は既存の諸説の弱点を指摘して否定していることは確かですが謀略の存在そのものを否定できたわけではなく、その点に関しては定説・旧説の主張に留まっているからです。
ご賛同いただける方は「このコメントは参考になりましたか」に「はい」を入力していただけると幸いです。