宝島社から出版した『歴史捜査・明智光秀と織田信長』の読者書評です。
2ページ4ページで項目ごとにバランスよくサクサク纏められてて読みやすく、網羅性も高い。他社発行の著書へのいざないもスムーズなのは宝島社の度量の深さ。これで1,300円は安い。宝島社、なかなかやる!
>>> amazonのページ
小和田哲男さんが豊臣秀吉について極めて真面目に書いています。一読の価値大いにあります。
>>> 中公新書『豊臣秀吉』のページ
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下の6行はNHKから発表された2020大河「麒麟が来る」に書かれている解説。これが滅茶苦茶、光秀の原点を狂わしている。よって来年一年の話が大きく曲がると見られます。所詮ドラマなので、お好きにどうぞ!ですが、視聴者が史実だと思って見てしまうので怖い!!「これはフィクションです」とテロップを流してくれると良いのですが!
若きころ、下剋上の代名詞・美濃の斎藤道三を主君として勇猛果敢に戦場をかけぬけ、その教えを胸に、やがて織田信長の盟友となり、多くの群雄と天下をめぐって争う智将・明智光秀。
「麒麟がくる」では謎めいた光秀の前半生に光を当て、彼の生涯を中心に、戦国の英傑たちの運命の行く末を描きます。
上の6行のどこが変かというと、光秀は美濃守護の土岐氏の重臣として斎藤道三と長年死闘を繰り返していた人物なのです。道三に仕えるわけがありません。結局、主君は道三に毒殺されたので、道三は主君どころか主君の敵(かたき)です。ですから、光秀は道三討ちの斎藤義龍軍に土岐一族と共に加勢して、みごとに仇を打ちました。
NHKのストーリーは軍記物(小説)の「明智軍記」の創作を、司馬遼太郎がふくらませて「国盗り物語」に書いて広まり、歴史学者の誰も正そうとしていないので、そのまま通説となってしまっているものです。光秀の立ち位置が正反対になってしまっていますから、これは重症です。詳しくは『光秀からの遺言』をお読みください。史実に基づいた光秀の系譜・前半生が書かれています。
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謎とされてきた光秀の前半生・系譜・享年などに決着がつきます。「斎藤道三に仕えた」なんてありえない。「道三と死に物狂いで戦った」のですから。
定説では、明智光秀は弘治2年に斎藤道三が息子の義龍に討たれた戦いで道三に加担して落城し、越前に落ち延びて朝倉義景に仕えた。その後、永禄9年に織田信長に仕え、信長と義昭の間を取り持って上洛させた。ということになっています。
ところが私の歴史捜査では、弘治2年光秀は義龍に加勢して道三を討ち、その後、越前の朝倉家を頼り、舟寄の黒坂備中守に仕えて10年間長崎称念寺のそばに居住しました。永禄8年に近江で足利義昭に加勢したのち、義昭らと越前に戻り、東大味(現在、明智神社のあるところ)に居住しました。そして、永禄11年に義昭らと上洛しました。その間、信長には仕えていません。細川藤孝に仕えて、幕府の足軽衆だったのです。
このことは9月出版の新刊にも書いたことですが、光秀は永禄8年に近江で足利義昭の加勢として戦っています。それを示す史料の情報がようやく脚光を浴びました。2014年に発見されたものですが、今まで無視されてきたのは定説に合わないからでしょうか。実はこの史料とは別の史料もあるのですが、従来元亀3年の史料だと誤った年代比定が行われていたために気づかれないままだったものです。まさに「436年後の発見!」です。
ともかく、新刊に書いた光秀の前半生が裏付け強化されたことは大変結構なことです。
>>> 「明智光秀の動静を示す最古の史料発見」記事
>>> 熊本県立美術館「ガラシャ展」
>>> 『本能寺の変 431年目の真実』エピローグ
舟寄館から長崎称念寺の林を遠望
東大味の明智神社
>>> YouTube「光秀プロジェクト始動」動画 謀反人か英雄か、それとも
>>> 河出書房新社特設サイト「光秀からの遺言」
>>> 河出書房新社特設サイト内「明智光秀全史料年表」
9月27日河出書房新社より発売『光秀からの遺言 436年後の発見』
>>> 河出書房新社のページ
【東京新聞2018年7月21日10面記事】
歴史を捜査する手法は仮説推論法(アブダクション)という手法です。歴史学者の方々の論説を見てると、残念なことに、この手法を理解している歴史学者がいないのではないかと思わざるを得なかったのですが、その手法を理解し、駆使している学者の存在を東京新聞の記事で初めて知りました。どうやら理解していないのは日本中世史の正統派の方々の特殊性のように見受けられます。あるいは古代史でも事情は同じなのかもしれませんが。
>>> 邪馬台国の会:東京新聞の記事
邪馬台国の研究者の安本美典氏です。
記事の中で次のように語っています。安本氏は仮説検証法と書いていますが、仮説推論法と同じものです。
私は仮説検証法という方法を取ります。かつては絶対正しいという公理(前提)を設けて定理に進み議論を展開していたのですが、現代では仮説の前提は絶対に正しいものではなくてもよく、その前提から矛盾のない大きな大系がどれだけできるかによって、価値が決まることになりました。
「ある一部分の事実だけをとりあげて、マスコミ報道に持ち込むという方法をとりません。それは宣伝であって、証明にはなりません」とも語っています。
まことに同感です。
私が歴史捜査と名付けた仮説推論法について、本能寺の変を例に以下に解説いたします。
従来の本能寺の変研究は光秀が謀反に及んだ動機論に終始し、謀反の実行プロセスの解明は行われてこなかった。当日起きた出来事はすべて偶然で片付けられている。光秀が信長や信忠を討てたのは信長が油断して、あの日の京都に軍事空白が生じたからであり、光秀は「偶然・幸運」にもこの機会を得て、謀反を思い立った。そのため準備も不十分で「無策・無謀」な行為だったため、味方もないまま中国大返しを行った秀吉に敗れて滅亡したという理解である。これを、仮に「偶発説」と名付けておく。
現代に起きている犯罪を考えてみていただきたい。動機があれば犯罪が成立するわけではない。成功させる見込みが立たずに実行に至らないケースの方がはるかに多いはずだ。
つまり、光秀が謀反の実行に踏み切ったということは謀反成功の見込みが立って、謀反の実行計画が立案できたのだ。この計画がいかなるもので、どのように実行されたのかを解明しなければ本能寺の変を解明したことにはならない。現代の犯罪捜査が動機の解明だけでは立件に至らないのと全く同じだ。
歴史の真実を信憑性ある史料の記述から復元する実証主義史学の基本姿勢は肯定すべきものである。しかし、歴史の真実について確定的な事実を直接的に書き残した史料が存在しないケースは多々ある。書かれていない史実を推理して埋める必要がある。この事情は現代に起きている犯罪でも同じだ。確定的な証拠のない事件も多い。最高裁は確定的な証拠がなく、状況証拠のみで有罪と判断する基準を次のように設定している。
「被告人が犯人とすると矛盾なく説明することができ、かつ被告人が犯人でないとすると矛盾なく説明することができない」。
この手法を歴史に適用した実証的手法を私は歴史捜査と名付けた。具体的には論理学で用いられる仮説推論法(アブダクション)という手法だ。
仮説推論法は、関連する証拠を最もよく説明する仮説を選択する推論法である。仮説推論法は観察された事実の集合(証拠群)から出発し、それらの事実についての最も辻褄の合う、ないしは最良の説明へと推論する。
私は25件の証拠から、9個の疑問を抽出し、その疑問のすべてに辻褄の合う答として、「信長による家康討ちの計画が立案されて進行していた」という答を出した。
私の出した答だけを見れば「ありえない」と誰もが叫ぶ。私自身、出てきた答に初めはそう思ったのだから、読者がそう思うのは当然である。しかし、これは憶測で出した答ではない。憶測とは不確かな根拠をもとに推測することだ。私の出した答は25件の具体的かつ確かな証拠から推論したものである。逆に偶発説には何も根拠がない。どの証拠をもってして偶然と立証するのか妥当な説明を見たことがない。
また、光秀の謀反の動機を野望とする説の根拠はこの説の提唱者の「信長は天下が欲しかった、秀吉も天下が欲しかった、光秀も天下が欲しかったのである」という主観的な説明だけしか存在しない(高柳光壽著『明智光秀』吉川弘文館)。これが実証的であろうはずがない。それこそ憶測としか言えない。怨恨とする説も同様だ。光秀が信長を恨んでいたとする明確な証拠が存在しない。また、恨んでいたから謀反を起こすという推論の妥当な説明もない。
私の推論は『織田信長 435年目の真実』幻冬舎文庫・二〇一八年四月発行の第七章に詳述したのでお読みいただけると幸いである。その推論に誤りがあるのであればご指摘いただきたい。
なお、信長が家康討ちを光秀に命じたとする兵の証言を以って信長が家康討ちを企てた決定的な証拠だとしているわけではない。光秀が兵に対して、このような命令を下したというのではなく、兵が勝手にそう思っただけだからだ。兵の証言が本当のことだったと仮定する(仮説を立てる)と、他の証言の辻褄が合うことを検証できたことを決め手としているのだ。
仮説推論法や蓋然性ということを理解せずに答だけ読んだ読者は残念だが「奇説」と叫び続けるしかないであろう。
また、「家康黒幕説」というレッテルを貼っている読者がいるようだが、どう浅読みしてみても明らかに光秀が主犯で家康は従犯だ。従犯の黒幕はあり得ない。どうやら誤解というよりも、何か裏の意図があるようだ。家康黒幕説だと主張している人にその理由を質問してみて、その論理性を確認していただきたい。
>>> 歴史に学ぶ、とは?
>>> 信長に何を学ぶか?
>>> 怨恨・野望・偶発説は完全フェイク
>>> 隠蔽された謀反の動機
2ページ4ページで項目ごとにバランスよくサクサク纏められてて読みやすく、網羅性も高い。他社発行の著書へのいざないもスムーズなのは宝島社の度量の深さ。これで1,300円は安い。宝島社、なかなかやる!
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小和田哲男さんが豊臣秀吉について極めて真面目に書いています。一読の価値大いにあります。
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下の6行はNHKから発表された2020大河「麒麟が来る」に書かれている解説。これが滅茶苦茶、光秀の原点を狂わしている。よって来年一年の話が大きく曲がると見られます。所詮ドラマなので、お好きにどうぞ!ですが、視聴者が史実だと思って見てしまうので怖い!!「これはフィクションです」とテロップを流してくれると良いのですが!
若きころ、下剋上の代名詞・美濃の斎藤道三を主君として勇猛果敢に戦場をかけぬけ、その教えを胸に、やがて織田信長の盟友となり、多くの群雄と天下をめぐって争う智将・明智光秀。
「麒麟がくる」では謎めいた光秀の前半生に光を当て、彼の生涯を中心に、戦国の英傑たちの運命の行く末を描きます。
上の6行のどこが変かというと、光秀は美濃守護の土岐氏の重臣として斎藤道三と長年死闘を繰り返していた人物なのです。道三に仕えるわけがありません。結局、主君は道三に毒殺されたので、道三は主君どころか主君の敵(かたき)です。ですから、光秀は道三討ちの斎藤義龍軍に土岐一族と共に加勢して、みごとに仇を打ちました。
NHKのストーリーは軍記物(小説)の「明智軍記」の創作を、司馬遼太郎がふくらませて「国盗り物語」に書いて広まり、歴史学者の誰も正そうとしていないので、そのまま通説となってしまっているものです。光秀の立ち位置が正反対になってしまっていますから、これは重症です。詳しくは『光秀からの遺言』をお読みください。史実に基づいた光秀の系譜・前半生が書かれています。
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謎とされてきた光秀の前半生・系譜・享年などに決着がつきます。「斎藤道三に仕えた」なんてありえない。「道三と死に物狂いで戦った」のですから。
定説では、明智光秀は弘治2年に斎藤道三が息子の義龍に討たれた戦いで道三に加担して落城し、越前に落ち延びて朝倉義景に仕えた。その後、永禄9年に織田信長に仕え、信長と義昭の間を取り持って上洛させた。ということになっています。
ところが私の歴史捜査では、弘治2年光秀は義龍に加勢して道三を討ち、その後、越前の朝倉家を頼り、舟寄の黒坂備中守に仕えて10年間長崎称念寺のそばに居住しました。永禄8年に近江で足利義昭に加勢したのち、義昭らと越前に戻り、東大味(現在、明智神社のあるところ)に居住しました。そして、永禄11年に義昭らと上洛しました。その間、信長には仕えていません。細川藤孝に仕えて、幕府の足軽衆だったのです。
このことは9月出版の新刊にも書いたことですが、光秀は永禄8年に近江で足利義昭の加勢として戦っています。それを示す史料の情報がようやく脚光を浴びました。2014年に発見されたものですが、今まで無視されてきたのは定説に合わないからでしょうか。実はこの史料とは別の史料もあるのですが、従来元亀3年の史料だと誤った年代比定が行われていたために気づかれないままだったものです。まさに「436年後の発見!」です。
ともかく、新刊に書いた光秀の前半生が裏付け強化されたことは大変結構なことです。
>>> 「明智光秀の動静を示す最古の史料発見」記事
>>> 熊本県立美術館「ガラシャ展」
>>> 『本能寺の変 431年目の真実』エピローグ
舟寄館から長崎称念寺の林を遠望
東大味の明智神社
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9月27日河出書房新社より発売『光秀からの遺言 436年後の発見』
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光秀からの遺言: 本能寺の変436年後の発見 | |
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【東京新聞2018年7月21日10面記事】
歴史を捜査する手法は仮説推論法(アブダクション)という手法です。歴史学者の方々の論説を見てると、残念なことに、この手法を理解している歴史学者がいないのではないかと思わざるを得なかったのですが、その手法を理解し、駆使している学者の存在を東京新聞の記事で初めて知りました。どうやら理解していないのは日本中世史の正統派の方々の特殊性のように見受けられます。あるいは古代史でも事情は同じなのかもしれませんが。
>>> 邪馬台国の会:東京新聞の記事
邪馬台国の研究者の安本美典氏です。
記事の中で次のように語っています。安本氏は仮説検証法と書いていますが、仮説推論法と同じものです。
私は仮説検証法という方法を取ります。かつては絶対正しいという公理(前提)を設けて定理に進み議論を展開していたのですが、現代では仮説の前提は絶対に正しいものではなくてもよく、その前提から矛盾のない大きな大系がどれだけできるかによって、価値が決まることになりました。
「ある一部分の事実だけをとりあげて、マスコミ報道に持ち込むという方法をとりません。それは宣伝であって、証明にはなりません」とも語っています。
まことに同感です。
私が歴史捜査と名付けた仮説推論法について、本能寺の変を例に以下に解説いたします。
従来の本能寺の変研究は光秀が謀反に及んだ動機論に終始し、謀反の実行プロセスの解明は行われてこなかった。当日起きた出来事はすべて偶然で片付けられている。光秀が信長や信忠を討てたのは信長が油断して、あの日の京都に軍事空白が生じたからであり、光秀は「偶然・幸運」にもこの機会を得て、謀反を思い立った。そのため準備も不十分で「無策・無謀」な行為だったため、味方もないまま中国大返しを行った秀吉に敗れて滅亡したという理解である。これを、仮に「偶発説」と名付けておく。
現代に起きている犯罪を考えてみていただきたい。動機があれば犯罪が成立するわけではない。成功させる見込みが立たずに実行に至らないケースの方がはるかに多いはずだ。
つまり、光秀が謀反の実行に踏み切ったということは謀反成功の見込みが立って、謀反の実行計画が立案できたのだ。この計画がいかなるもので、どのように実行されたのかを解明しなければ本能寺の変を解明したことにはならない。現代の犯罪捜査が動機の解明だけでは立件に至らないのと全く同じだ。
歴史の真実を信憑性ある史料の記述から復元する実証主義史学の基本姿勢は肯定すべきものである。しかし、歴史の真実について確定的な事実を直接的に書き残した史料が存在しないケースは多々ある。書かれていない史実を推理して埋める必要がある。この事情は現代に起きている犯罪でも同じだ。確定的な証拠のない事件も多い。最高裁は確定的な証拠がなく、状況証拠のみで有罪と判断する基準を次のように設定している。
「被告人が犯人とすると矛盾なく説明することができ、かつ被告人が犯人でないとすると矛盾なく説明することができない」。
この手法を歴史に適用した実証的手法を私は歴史捜査と名付けた。具体的には論理学で用いられる仮説推論法(アブダクション)という手法だ。
仮説推論法は、関連する証拠を最もよく説明する仮説を選択する推論法である。仮説推論法は観察された事実の集合(証拠群)から出発し、それらの事実についての最も辻褄の合う、ないしは最良の説明へと推論する。
私は25件の証拠から、9個の疑問を抽出し、その疑問のすべてに辻褄の合う答として、「信長による家康討ちの計画が立案されて進行していた」という答を出した。
私の出した答だけを見れば「ありえない」と誰もが叫ぶ。私自身、出てきた答に初めはそう思ったのだから、読者がそう思うのは当然である。しかし、これは憶測で出した答ではない。憶測とは不確かな根拠をもとに推測することだ。私の出した答は25件の具体的かつ確かな証拠から推論したものである。逆に偶発説には何も根拠がない。どの証拠をもってして偶然と立証するのか妥当な説明を見たことがない。
また、光秀の謀反の動機を野望とする説の根拠はこの説の提唱者の「信長は天下が欲しかった、秀吉も天下が欲しかった、光秀も天下が欲しかったのである」という主観的な説明だけしか存在しない(高柳光壽著『明智光秀』吉川弘文館)。これが実証的であろうはずがない。それこそ憶測としか言えない。怨恨とする説も同様だ。光秀が信長を恨んでいたとする明確な証拠が存在しない。また、恨んでいたから謀反を起こすという推論の妥当な説明もない。
私の推論は『織田信長 435年目の真実』幻冬舎文庫・二〇一八年四月発行の第七章に詳述したのでお読みいただけると幸いである。その推論に誤りがあるのであればご指摘いただきたい。
なお、信長が家康討ちを光秀に命じたとする兵の証言を以って信長が家康討ちを企てた決定的な証拠だとしているわけではない。光秀が兵に対して、このような命令を下したというのではなく、兵が勝手にそう思っただけだからだ。兵の証言が本当のことだったと仮定する(仮説を立てる)と、他の証言の辻褄が合うことを検証できたことを決め手としているのだ。
仮説推論法や蓋然性ということを理解せずに答だけ読んだ読者は残念だが「奇説」と叫び続けるしかないであろう。
また、「家康黒幕説」というレッテルを貼っている読者がいるようだが、どう浅読みしてみても明らかに光秀が主犯で家康は従犯だ。従犯の黒幕はあり得ない。どうやら誤解というよりも、何か裏の意図があるようだ。家康黒幕説だと主張している人にその理由を質問してみて、その論理性を確認していただきたい。
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