光秀と信長にはいろいろ確執があり、たまたま本能寺に信長が無防備で宿泊することを知った光秀が発作的に謀反に踏み切ったというのが発作的犯行説です。
この説は朝廷黒幕説を唱えていたある研究者が朝廷黒幕説に代わるものとして主張しているもので、比較的新しい説です。この研究者は史料を大変丁寧に掘り起こして研究されており、その点で大変評価されるべき方です。
ただ、史料の信憑性の評価を抜きにして、多数決論理を適用するため史実の評価を誤ってしまいます。つまり、3つの史料が嘘を書いていて、1つの史料が真実を書いている場合、3対1で嘘の方が史実と判断してしまうのです。
通説を否定していながら、この点では通説を擁護する研究者と全く同じく「軍記物容認」の罠にはまってしまっています。残念ながら、この姿勢では真実にたどりつけません。
★刷り込まれた本能寺の変の通説 ← 軍記物容認の解説
★怨恨説を斬る! ← 通説主演賞の否定
★野望説を斬る! ← 通説助演賞の否定
それでは、例によって5つの視点で評価を行います。
①動機 犯人に信長殺しの動機があるか
②犯行可能性 犯行を実行できる可能性があるかどうか
③関係者の証言 犯行を裏付ける証言があるかどうか
④本人の自白 犯人自身の自白があるかどうか
⑤成功時報酬 犯行成功による報酬があったかどうか
動機については、「いろいろあったが、結局発作的」、つまり決定的な動機がないという説です。
この説を主張する研究者の本には「光秀は謀反へとジャンプした」と書かれていますが、私は研究者の論理がジャンプしたのであって、光秀がジャンプしたのではないと思います。野望説と同様に「本当のところはよくわからない」という研究者のあきらめから出た仮説と思いますが、いかがでしょうか。
★野望説を斬る!
実行可能性についてはノイローゼ説とも相通ずるところがありますが、本能寺の変という成功させるには周到な準備と実行が必要なプロジェクトを発作的に行って成功させることは難しいでしょう。
★ノイローゼ説を斬る!
関係者の証言としては、確かに当時の誰も光秀謀反の理由を明解に語った証言をしていません。そこで「何でもあり」となります。このため、現代の研究者が様々な説を唱えているわけです。
ただし、『元親記』という長宗我部元親(ちょうそかべ・もとちか)の家臣が書いた書物には、織田信孝(信長の三男)の長宗我部征伐軍の先陣が阿波(四国の香川県)に攻め込んだので、光秀家臣の斉藤利三が謀反の戦いを差し急いだ、と書かれています。やはり謀反という大事ですので、一・二日前に急に思いついて成功させられるものではなく、事前の十分な準備があったと思います。
本人の自白として、謀反の直前に光秀が山陰の織田方の城主に出した書状に謀反のムの字もない、ということをこの説を唱える研究者は根拠にしています。
しかし、これが証拠になるとは思えません!
光秀が謀反を成功させるためには、その秘密が漏れないことが肝心です。謀反の兆候を示すような書状を出すはずがないのです。そう思われませんでしょうか。
これ以上の説明を要しないと思いますが、この書状が本当にこの年に出されたものかは慎重に確認する必要があります。というのは、当時は書状に月日を書いても年は書かないからです。問題の書状にも天正十年という年は書かれていません。書かれている内容から研究者が年を推定しているのです。
戦国史の研究において年の確定が難しくて、研究者によって解釈が異なるという状況が起きていることをお知り置きください。年の解釈によっては史実がひっくりかえることがあるのです。
成功時報酬としては、一族郎党滅亡という代償を払うには「発作的」というのはあまりに説得力がないと思います。光秀が土岐氏という重いものを背負っていたいうご理解を得たいと思います。
★土岐氏解説集(土岐氏を知らずして本能寺の変は!)
当時の日本を代表するような武将(現代の総理大臣、県知事、大企業の社長のようなもの)が後先考えずに発作的に重大決定をするという見方には通説と何ら変わらない視点を感じます。
★本能寺は三面記事?!
以上の通りですので、最新の説とはいえ発作的犯行説は全くありえないとう結論です。
【お知らせ】
本ブログは『本能寺の変 四二七年目の真実』著者のブログです。通説・俗説・虚説に惑わされない「真実」の世界を探究します。
★ このブログの説明のページ
★ このブログの目次(サイトマップ)
この説は朝廷黒幕説を唱えていたある研究者が朝廷黒幕説に代わるものとして主張しているもので、比較的新しい説です。この研究者は史料を大変丁寧に掘り起こして研究されており、その点で大変評価されるべき方です。
ただ、史料の信憑性の評価を抜きにして、多数決論理を適用するため史実の評価を誤ってしまいます。つまり、3つの史料が嘘を書いていて、1つの史料が真実を書いている場合、3対1で嘘の方が史実と判断してしまうのです。
通説を否定していながら、この点では通説を擁護する研究者と全く同じく「軍記物容認」の罠にはまってしまっています。残念ながら、この姿勢では真実にたどりつけません。
★刷り込まれた本能寺の変の通説 ← 軍記物容認の解説
★怨恨説を斬る! ← 通説主演賞の否定
★野望説を斬る! ← 通説助演賞の否定
それでは、例によって5つの視点で評価を行います。
①動機 犯人に信長殺しの動機があるか
②犯行可能性 犯行を実行できる可能性があるかどうか
③関係者の証言 犯行を裏付ける証言があるかどうか
④本人の自白 犯人自身の自白があるかどうか
⑤成功時報酬 犯行成功による報酬があったかどうか
動機については、「いろいろあったが、結局発作的」、つまり決定的な動機がないという説です。
この説を主張する研究者の本には「光秀は謀反へとジャンプした」と書かれていますが、私は研究者の論理がジャンプしたのであって、光秀がジャンプしたのではないと思います。野望説と同様に「本当のところはよくわからない」という研究者のあきらめから出た仮説と思いますが、いかがでしょうか。
★野望説を斬る!
実行可能性についてはノイローゼ説とも相通ずるところがありますが、本能寺の変という成功させるには周到な準備と実行が必要なプロジェクトを発作的に行って成功させることは難しいでしょう。
★ノイローゼ説を斬る!
関係者の証言としては、確かに当時の誰も光秀謀反の理由を明解に語った証言をしていません。そこで「何でもあり」となります。このため、現代の研究者が様々な説を唱えているわけです。
ただし、『元親記』という長宗我部元親(ちょうそかべ・もとちか)の家臣が書いた書物には、織田信孝(信長の三男)の長宗我部征伐軍の先陣が阿波(四国の香川県)に攻め込んだので、光秀家臣の斉藤利三が謀反の戦いを差し急いだ、と書かれています。やはり謀反という大事ですので、一・二日前に急に思いついて成功させられるものではなく、事前の十分な準備があったと思います。
本人の自白として、謀反の直前に光秀が山陰の織田方の城主に出した書状に謀反のムの字もない、ということをこの説を唱える研究者は根拠にしています。
しかし、これが証拠になるとは思えません!
光秀が謀反を成功させるためには、その秘密が漏れないことが肝心です。謀反の兆候を示すような書状を出すはずがないのです。そう思われませんでしょうか。
これ以上の説明を要しないと思いますが、この書状が本当にこの年に出されたものかは慎重に確認する必要があります。というのは、当時は書状に月日を書いても年は書かないからです。問題の書状にも天正十年という年は書かれていません。書かれている内容から研究者が年を推定しているのです。
戦国史の研究において年の確定が難しくて、研究者によって解釈が異なるという状況が起きていることをお知り置きください。年の解釈によっては史実がひっくりかえることがあるのです。
成功時報酬としては、一族郎党滅亡という代償を払うには「発作的」というのはあまりに説得力がないと思います。光秀が土岐氏という重いものを背負っていたいうご理解を得たいと思います。
★土岐氏解説集(土岐氏を知らずして本能寺の変は!)
当時の日本を代表するような武将(現代の総理大臣、県知事、大企業の社長のようなもの)が後先考えずに発作的に重大決定をするという見方には通説と何ら変わらない視点を感じます。
★本能寺は三面記事?!
以上の通りですので、最新の説とはいえ発作的犯行説は全くありえないとう結論です。
【お知らせ】
本ブログは『本能寺の変 四二七年目の真実』著者のブログです。通説・俗説・虚説に惑わされない「真実」の世界を探究します。
★ このブログの説明のページ
★ このブログの目次(サイトマップ)