【2013年10月25日追記】
1年以上前に下記の2012年6月1日記事を書きましたが、インターネット上では相変わらず「見付らなかった信長の遺体の謎」が話題になっているようです。
新聞やテレビのニュースで火事の報道を見たら即わかることが何で謎なんでしょう?!?!?
ボヤ程度でも焼死体はDNA鑑定しなければ身元が特定できません。火事の報道ではその家に住んでいた人がわかっていても、必ず「焼死体の身元は確認中です」と報道されます。焼死体はそれほど損傷が激しいのです。つまり、信長の遺体が見付らなかったのは「物理現象」です。
謎でもない「謎」に時間と頭脳を浪費するのはやめた方がよいと思います。
【2012年6月1日記事】
一時期、「日光東照宮に桔梗紋があるのは何故か」という謎が騒がれていました。
「それは基本的な事実誤認である!」とこのブログで書いたのはもう2年以上前のことになります。
★ 日光東照宮桔梗紋説を斬る!
本能寺の変研究がこれ以上、間違った方向に進んでほしくないという思いに駆られて書きましたが、その効果が少しあったという話が本ブログ読者のミケ氏のブログに書かれていました。
★ 三番隊平隊士日記「明智光秀 自画像のミステリ-」
要約すると、次の通りです。
関西ローカルTV番組のあるコーナーで取り上げた話を書籍化した若一光司氏著『大阪・関西の「謎と不思議」を歩く』を読んだところ、番組では若一氏が「日光には明智平という場所があり、東照宮には明智家の桔梗紋が散りばめられていて、光秀=天海僧正説というのがあるので、一度日光に行きたい」と話していたが、出版された本では桔梗紋のことには一切触れていない。「天海が亡くなったとされる年齢を考えると光秀だとするのは長命過ぎて不自然である。明智憲三郎氏が主張するように、信長に暗殺される寸前だった家康を救った光秀に感謝する思いが、明智平の命名や、斎藤利三の娘である福の重用、光秀の一字を用いた家光の命名などに現れていると考えるほうが自然である」と書かれている。
こうしてご理解が広まっていくことはとてもうれしいことです。
そこで、もうひとつ最近盛んに唱えられている謎を斬ります!
本能寺で信長の遺体が見つからなかった謎です。
この謎はベストセラーとなった加藤廣氏の歴史小説『信長の棺』が設定した謎です。
私も大変興味深く読んだ本ですが、まさか小説の設定した謎が真面目に論じられるようになるとは想像もしていませんでした。先日も「○○の説はこの謎に答えていない!」などという読者書評を見て唖然としてしまいました。
私のこれに対する答は「信長の遺体が見つからないことは謎ではなく、当然である!」という一言です。
それはテレビのニュースを見ていればすぐに理解できます。
住宅で火事があって焼死体が見つかるとその身元についてどのように報道されるでしょうか?
必ず次のように報道されます。
「この住宅には○○さんが住んでいますが、DNA鑑定による身元確認中です」
つまり、焼死体は損傷が激しくて見た目では身元を確認できないのです。
本能寺の大きな建物が焼け落ちた焼け跡から身元のわかる遺体など出てくるわけがない。それが焼死体を見慣れた当時の武士の常識でしょう。光秀は初めから信長の遺体を探す気にもならなかったでしょう。
別の答があるようでしたら教えてください。
***************************
『本能寺の変 431年目の真実』(文芸社文庫)
発売9ヶ月で26万部突破!!
>>> 「本能寺の変 431年目の真実」読者書評
>>> 「本能寺の変の真実」決定版出版のお知らせ
>>> 『本能寺の変 431年目の真実』プロローグ
>>> 『本能寺の変 431年目の真実』目次
>>> もはや本能寺の変に謎は存在しない!
>>> 本能寺の変当日に発生した謎が解けるか
>>> 愛宕百韻:桑田忠親・金子拓両博士の怪
1年以上前に下記の2012年6月1日記事を書きましたが、インターネット上では相変わらず「見付らなかった信長の遺体の謎」が話題になっているようです。
新聞やテレビのニュースで火事の報道を見たら即わかることが何で謎なんでしょう?!?!?
ボヤ程度でも焼死体はDNA鑑定しなければ身元が特定できません。火事の報道ではその家に住んでいた人がわかっていても、必ず「焼死体の身元は確認中です」と報道されます。焼死体はそれほど損傷が激しいのです。つまり、信長の遺体が見付らなかったのは「物理現象」です。
謎でもない「謎」に時間と頭脳を浪費するのはやめた方がよいと思います。
【2012年6月1日記事】
一時期、「日光東照宮に桔梗紋があるのは何故か」という謎が騒がれていました。
「それは基本的な事実誤認である!」とこのブログで書いたのはもう2年以上前のことになります。
★ 日光東照宮桔梗紋説を斬る!
本能寺の変研究がこれ以上、間違った方向に進んでほしくないという思いに駆られて書きましたが、その効果が少しあったという話が本ブログ読者のミケ氏のブログに書かれていました。
★ 三番隊平隊士日記「明智光秀 自画像のミステリ-」
要約すると、次の通りです。
関西ローカルTV番組のあるコーナーで取り上げた話を書籍化した若一光司氏著『大阪・関西の「謎と不思議」を歩く』を読んだところ、番組では若一氏が「日光には明智平という場所があり、東照宮には明智家の桔梗紋が散りばめられていて、光秀=天海僧正説というのがあるので、一度日光に行きたい」と話していたが、出版された本では桔梗紋のことには一切触れていない。「天海が亡くなったとされる年齢を考えると光秀だとするのは長命過ぎて不自然である。明智憲三郎氏が主張するように、信長に暗殺される寸前だった家康を救った光秀に感謝する思いが、明智平の命名や、斎藤利三の娘である福の重用、光秀の一字を用いた家光の命名などに現れていると考えるほうが自然である」と書かれている。
![]() | 大阪・関西の「謎と不思議」を歩く (ヴィジュアル新書) |
若一 光司 | |
ベストセラーズ |
こうしてご理解が広まっていくことはとてもうれしいことです。
そこで、もうひとつ最近盛んに唱えられている謎を斬ります!
本能寺で信長の遺体が見つからなかった謎です。
この謎はベストセラーとなった加藤廣氏の歴史小説『信長の棺』が設定した謎です。
![]() | 信長の棺 |
加藤 廣 | |
日本経済新聞社 |
私も大変興味深く読んだ本ですが、まさか小説の設定した謎が真面目に論じられるようになるとは想像もしていませんでした。先日も「○○の説はこの謎に答えていない!」などという読者書評を見て唖然としてしまいました。
私のこれに対する答は「信長の遺体が見つからないことは謎ではなく、当然である!」という一言です。
それはテレビのニュースを見ていればすぐに理解できます。
住宅で火事があって焼死体が見つかるとその身元についてどのように報道されるでしょうか?
必ず次のように報道されます。
「この住宅には○○さんが住んでいますが、DNA鑑定による身元確認中です」
つまり、焼死体は損傷が激しくて見た目では身元を確認できないのです。
本能寺の大きな建物が焼け落ちた焼け跡から身元のわかる遺体など出てくるわけがない。それが焼死体を見慣れた当時の武士の常識でしょう。光秀は初めから信長の遺体を探す気にもならなかったでしょう。
別の答があるようでしたら教えてください。
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『本能寺の変 431年目の真実』(文芸社文庫)
発売9ヶ月で26万部突破!!
![]() | 【文庫】 本能寺の変 431年目の真実 |
明智 憲三郎 | |
文芸社 |
>>> 「本能寺の変 431年目の真実」読者書評
>>> 「本能寺の変の真実」決定版出版のお知らせ
>>> 『本能寺の変 431年目の真実』プロローグ
>>> 『本能寺の変 431年目の真実』目次
>>> もはや本能寺の変に謎は存在しない!
>>> 本能寺の変当日に発生した謎が解けるか
>>> 愛宕百韻:桑田忠親・金子拓両博士の怪
私はもとより明智さんの考え方に賛成の者ですので、寺と共に焼け落ちたという理解に異論ありません。
ところで、明日は(旧暦じゃないので実際は違いますが)本能寺の変が起きた6月2日です。京都の阿弥陀寺で信長忌の追善供養がおこなわれます。
そこで私が気になっているのは、この寺にまつわる話です。寺を創建した清玉上人は信長と親交があったので変を聞きつけて現場に駆けつけ、信長の遺骸を火葬に臥したのち遺骨を阿弥陀寺へと持ち帰って供養したという話です。信長公記でしたでしょうか?
これだけですと、あまり信憑性を感じないのですが、その後秀吉が遺骨の引き渡しを要求したのに清玉上人が拒否、秀吉は遺骨の代わりに木像で葬儀を行わざるを得ず、そのために阿弥陀寺は社領の大半を没収され、京都の都市計画にともない強制的に移転させられてしまったと伝えられています(典拠はわかりません)。
本物の遺骨でなかったなら、上人が秀吉に楯突くことなどしただろうか、と思えてしまうのですが、これは秀吉がのちに天下人になったことを前提に過去を判断するからでしょうか。また、寺が没落した理由の後付けといえなくもないですね(お寺の関係者の方には失礼ながら)。とはいえ、秀吉が真実を体系的に揉み消していった人物だとすると、信憑性のある話とも思えてしまいます・・・
すみません、明日6月2日に阿弥陀寺に行ってみようと思っているのでついつい書いてしまいました。
wikipediaには次のように書かれています。
信長が帰依していたとする阿弥陀寺(上立売大宮)縁起によれば、住職・清玉が裏の生垣から割入って密かに運び出し、荼毘に付したとされる。この縁で阿弥陀寺(上京区鶴山町に移転)には、「織田信長公本廟」が現存する。しかし本能寺には堀と土居があり、この説は疑問である。また、この縁起「信長公阿弥陀寺由緒之記録」は古い記録が焼けたため享保16年に記憶を頼りに作り直したと称するもので、史料価値は低い。
享保16年というと1731年。本能寺の変の1582年から149年たっていますので、「記憶を頼りに」といっても何代も前の話です。信憑性は確かに低いと言わざるをえません。
なお、静岡県芝川町西山本門寺には信長の首が本能寺から持ち出されて埋葬されたという話が伝わっており首塚もあります。信憑性には疑問符が付きますが。
単に顔が焼けただれれば当時、ある程度の火力によって、判別は難しい事になるという予想はつきますがそのような場合にしろ、衣類や身体的特徴から、信長らしい人物の遺体は見当たるのでは?という思いはします。
ただ、状況証拠によって信長の死は確認できるはずですから、わざわざ特定しようとしなかった、というお話しは納得します。
また、当時は絶対に敵将の首を持って帰らなければ、みたいな世界だったてのは、ちょっと原始的な発想だと思います。
そして本能寺の変やその前後の事件について、これまで何となく変だと思っていたモヤモヤの大半が晴れました。
只、唯一晴れないのが、この信長の死体が見つからなかった点です。
私は「信長の棺」は読んでいませんが、40年ほど前に読んだ司馬遼太郎「新史太閤記」にも書かれており、これが本能寺の変最大の謎だと思っていました。
なので筆者の加藤廣氏が創作した謎だという書き方には違和感があります(変です)。
本能寺で焼死体となったのは信長一人ではない筈なので、見分けがつかなかった、あるいは特定できなかったということなら納得できますが、それならそれで、次作では書き方を変えては如何でしょうか。