学会レベルでは「明智系図はどれも信用できない」(高柳光寿『明智光秀』)として無視され、一方、歴史愛好家の間では実に様々なことが唱えられて混迷を極めている明智系図研究。その歴史捜査結果を9回に分けて書いてきました。今回は、最終回としてこの歴史捜査を通じて感じたことを書きたいと思います。
★ 明智系図の歴史捜査1:ここにも明智軍記汚染
★ 明智系図の歴史捜査2:明智軍記汚染の実態
★ 明智系図の歴史捜査3:土岐明智氏の公式系図
★ 明智系図の歴史捜査4:別系統の土岐明智氏系図
★ 明智系図の歴史捜査5:土岐明智氏系図の復元
★ 明智系図の歴史捜査6:玄琳作明智系図の謎
★ 明智系図の歴史捜査7:玄琳作明智系図の謎解き
★ 明智系図の歴史捜査8:玄琳と光慶は別人!
★ 明智系図の歴史捜査9:光秀の子の推理
まず、系図研究は犯罪捜査と同じだということです。
ひとつの系図が一人の証人、系図に書かれていることがその証人の証言です。様々な証言にはガセネタもあれば信憑性の高い情報もあります。
系図は書き足されていくものなので、基本的に伝言ゲームです。意図的に伝言内容を変えたり、追加してしまう人もいれば、単純に間違えたりする人もいます。
まずやるべきことは、その証人(系図)の基本的な信頼性の評価です。基本的に信じてよい証人なのか期待できない証人なのかを分類します。これが歴史捜査1から歴史捜査3までで行った明智系図の分類と信ぴょう性評価です。
こうして最も信ぴょう性が高いものとして選定した証人(系図)がA2寛永諸家系図伝・土岐系図でした。もちろん、この証人の証言の中にも信ぴょう性が低いものが混じっていないか確認する必要はあります(今回はそこまでの捜査は行いませんでした)。
次にその他の証人(系図)で部分的に補完できる証言がないかどうかを調べます。系図は伝言ゲームですので、信ぴょう性の低い系図の中にも信ぴょう性の高い部分が混じっている可能性があります。それを行ったのが歴史捜査4から歴史捜査9です。
歴史捜査4ではA1尊卑分脈・土岐系図からA2に接合すべきミッシング・ブランチを見つけ出し、歴史捜査5で提示した土岐明智氏系図の復元を行いました。
歴史捜査6から歴史捜査8では、A5続群書類従・明智系図から信ぴょう性の高い証言と信ぴょう性の低い証言を分離し、そのような系図が作られた経緯を推理しました。
歴史捜査9では信ぴょう性が低い証人(B系の系図)の中から信ぴょう性の高い証言(部分)を切り出そうとしました。その結果、信ぴょう性の高い証言は存在しないことがわかりました。
以上の結果、極めて信ぴょう性の高い土岐明智氏系図の復元に成功しましたが、それと明智光秀をつなぐことはできませんでした。伝存している諸系図の光秀の祖父・父・兄弟・子に関する証言はどれも信ぴょう性が低いという結論です。
復元した土岐明智氏系図を再掲します。このどこかに光秀がつながっていたはずで、それは光兼の下の可能性が高く、頼典の下の可能性もあるというのが私の推理です。
以上のように、全くの混乱状態だった明智系図について科学的な整理ができました。全てが混とんの海だったところに、ようやく島と砂浜ができました。あとはこの島を拡大していくこと、つまり今回の結論の上に研究を積み重ねていくことです。歴史捜査5に書いたように、美濃だけでなく、京都、近江(特に坂本、朽木谷)、越前、尾張も対象として当時の古文書類を掘り起こしていく研究が必要です。
研究対象を前にして、これまでのように「十把一絡げで全てダメ」や「裏付けはないがこれがよい」では科学にはなりません。同じ平面の上で思い付きに任せて右へ行ったり左へ行ったりしているようなものです。
対象を分析して真偽を粘り強く着実に仕分けていくこと、そしてその成果を踏まえて真の部分を徐々に広げてステップアップしていくのが科学です。
本能寺の変研究が2009年『本能寺の変 四二七年目の真実』の出版によってそうなったように、今回の歴史捜査で明智系図研究もようやく科学の領域に達したといえます。
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『本能寺の変 四二七年目の真実』のあらすじはこちらをご覧ください。
また、読者の書評はこちらです。
>>>トップページ
>>>『本能寺の変 四二七年目の真実』出版の思い
【参考ページ】
残念ながら本能寺の変研究は未だに豊臣秀吉神話、高柳光寿神話の闇の中に彷徨っているようです。「軍記物依存症の三面記事史観」とでもいうべき状況です。下記のページもご覧ください。
★ 本能寺の変の定説は打破された!
★ 本能寺の変四国説を嗤う
★ SEが歴史を捜査したら本能寺の変が解けた
★ 土岐氏とは何だ!
★ 土岐氏を知らずして本能寺の変は語れない
★ 長宗我部氏を知らずして本能寺の変は語れない
★ 初公開!明智光秀家中法度
★ 明智系図の歴史捜査1:ここにも明智軍記汚染
★ 明智系図の歴史捜査2:明智軍記汚染の実態
★ 明智系図の歴史捜査3:土岐明智氏の公式系図
★ 明智系図の歴史捜査4:別系統の土岐明智氏系図
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★ 明智系図の歴史捜査7:玄琳作明智系図の謎解き
★ 明智系図の歴史捜査8:玄琳と光慶は別人!
★ 明智系図の歴史捜査9:光秀の子の推理
まず、系図研究は犯罪捜査と同じだということです。
ひとつの系図が一人の証人、系図に書かれていることがその証人の証言です。様々な証言にはガセネタもあれば信憑性の高い情報もあります。
系図は書き足されていくものなので、基本的に伝言ゲームです。意図的に伝言内容を変えたり、追加してしまう人もいれば、単純に間違えたりする人もいます。
まずやるべきことは、その証人(系図)の基本的な信頼性の評価です。基本的に信じてよい証人なのか期待できない証人なのかを分類します。これが歴史捜査1から歴史捜査3までで行った明智系図の分類と信ぴょう性評価です。
こうして最も信ぴょう性が高いものとして選定した証人(系図)がA2寛永諸家系図伝・土岐系図でした。もちろん、この証人の証言の中にも信ぴょう性が低いものが混じっていないか確認する必要はあります(今回はそこまでの捜査は行いませんでした)。
次にその他の証人(系図)で部分的に補完できる証言がないかどうかを調べます。系図は伝言ゲームですので、信ぴょう性の低い系図の中にも信ぴょう性の高い部分が混じっている可能性があります。それを行ったのが歴史捜査4から歴史捜査9です。
歴史捜査4ではA1尊卑分脈・土岐系図からA2に接合すべきミッシング・ブランチを見つけ出し、歴史捜査5で提示した土岐明智氏系図の復元を行いました。
歴史捜査6から歴史捜査8では、A5続群書類従・明智系図から信ぴょう性の高い証言と信ぴょう性の低い証言を分離し、そのような系図が作られた経緯を推理しました。
歴史捜査9では信ぴょう性が低い証人(B系の系図)の中から信ぴょう性の高い証言(部分)を切り出そうとしました。その結果、信ぴょう性の高い証言は存在しないことがわかりました。
以上の結果、極めて信ぴょう性の高い土岐明智氏系図の復元に成功しましたが、それと明智光秀をつなぐことはできませんでした。伝存している諸系図の光秀の祖父・父・兄弟・子に関する証言はどれも信ぴょう性が低いという結論です。
復元した土岐明智氏系図を再掲します。このどこかに光秀がつながっていたはずで、それは光兼の下の可能性が高く、頼典の下の可能性もあるというのが私の推理です。
以上のように、全くの混乱状態だった明智系図について科学的な整理ができました。全てが混とんの海だったところに、ようやく島と砂浜ができました。あとはこの島を拡大していくこと、つまり今回の結論の上に研究を積み重ねていくことです。歴史捜査5に書いたように、美濃だけでなく、京都、近江(特に坂本、朽木谷)、越前、尾張も対象として当時の古文書類を掘り起こしていく研究が必要です。
研究対象を前にして、これまでのように「十把一絡げで全てダメ」や「裏付けはないがこれがよい」では科学にはなりません。同じ平面の上で思い付きに任せて右へ行ったり左へ行ったりしているようなものです。
対象を分析して真偽を粘り強く着実に仕分けていくこと、そしてその成果を踏まえて真の部分を徐々に広げてステップアップしていくのが科学です。
本能寺の変研究が2009年『本能寺の変 四二七年目の真実』の出版によってそうなったように、今回の歴史捜査で明智系図研究もようやく科学の領域に達したといえます。
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『本能寺の変 四二七年目の真実』のあらすじはこちらをご覧ください。
また、読者の書評はこちらです。
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>>>『本能寺の変 四二七年目の真実』出版の思い
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【参考ページ】
残念ながら本能寺の変研究は未だに豊臣秀吉神話、高柳光寿神話の闇の中に彷徨っているようです。「軍記物依存症の三面記事史観」とでもいうべき状況です。下記のページもご覧ください。
★ 本能寺の変の定説は打破された!
★ 本能寺の変四国説を嗤う
★ SEが歴史を捜査したら本能寺の変が解けた
★ 土岐氏とは何だ!
★ 土岐氏を知らずして本能寺の変は語れない
★ 長宗我部氏を知らずして本能寺の変は語れない
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