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『本能寺の変 431年目の真実』明智憲三郎著、文芸社文庫 24万部突破!!
京都府綾部市での「本能寺の変」講演会のあと、京都府大山崎町のビジネスホテルに宿泊し、翌日「山崎合戦」の地を歩いて回りました。
先祖・光秀の敗戦の地ですので、先祖を偲んでという気持ちはもちろんです。加えて、山崎の合戦の経緯については未だ疑問が残っており、その解明のために現地を見ておきたかったのです。
その疑問については2年前に「歴史捜査レポート」で4回に分けて書き、ブログ読者からも有益なコメントをたくさんいただき、まだ捜査継続中となっているものです。
★ 「山崎の合戦」その1:捜査開始宣言
★ 「山崎の合戦」その2:天王山争奪戦
★ 「山崎の合戦」その3:秀吉の証言
★ 「山崎の合戦」その4:フロイスの証言
まず、JR山崎駅から天王山中腹の旗立松まで登ることにしました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6e/37/29a0423c7aee0882bfcd0b9c7f9034b7.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/15/af/33871d2b0ac6e57055a0e63e5e320d7a.jpg)
登山口からすぐのところに宝積寺があります。奈良時代に創建された由緒あるお寺です。山崎の合戦の当時も存在していたことになります。宝積寺の先から急な山道になります。
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JR山崎駅から30分ぐらい登ったところに旗立松があります。秀吉が山崎の合戦の際に、旗を掲げさせて味方を鼓舞したという話があるそうです。この話の真偽はわかりませんが、この場所が山崎合戦場からよく見える場所であること、逆にこの場所が山崎合戦場をよく見晴らせる場所であることは確かです。山頂までは登りませんでしたが、この旗立松が天王山で唯一の眺望が開けた場所とのことです。展望台が設けられていて、そこから山崎合戦場の写真を撮ることができました。
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旗立松からは登りとは別の道で観音寺(山崎聖天)に向かって下りました。やはり急な山道でした。
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天王山を降り切って線路を渡ると大山崎町の中央を通る西国街道に出ました。山崎合戦場へとつながる東黒門に向かいました。合戦の当時は東西の黒門で山崎の街が仕切られていました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/37/8c/dca8d2021fa5a6f32b82ab620b434fc5.jpg)
東黒門はボトルネックのように道が狭くなっていて、車がすれ違えません。これがもともとの西国街道の道幅だったのでしょう。この東黒門の出口で光秀軍が待ち構えたのは当然の作戦だったと思います。
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東黒門を通り過ぎると道幅は広がりますが、その先でまた車がすれ違えない狭さになります。それが昔ながらの西国街道本来の道幅なのでしょう。この道幅では大量の軍勢を一挙に移動することは難しかったでしょう。
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山崎合戦場跡から天王山がよく見えます。逆に天王山からは合戦場が一望のもとに見えていたわけで、敵陣の配置や戦況を知る上では絶好の場所だったと感じました。
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山崎合戦場には目立たない石碑が立っているだけでした。
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光秀本陣跡と伝えられる境野1号墳(御坊塚)も看板が立っているだけで、地元の人に尋ねてもよく知られていない場所でした。東黒門からゆっくり歩いて30分の距離でした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/07/42/8793cbe8d68240cd1ee70603785454df.jpg)
さらに、20分ほど歩くと勝龍寺城に着きました。光秀が一旦逃げ込んで、夜中に脱出したとされる城です。小さな城ですが、これは本丸跡に復元した城の模型のようなもので、外堀はもっと広い場所を囲んでいたことが見取り図でわかりました。
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こうして見てきた感想をまとめると次の通りです。
・天王山は大規模な軍勢の移動には適しておらず、ここを確保することは攻撃のためというよりも、敵情把握のための効果が大きかったのではないか。
・光秀が勝龍寺城に逃げ込んだのは、狭い街道は退却する軍勢で身動きがつかない状況で、至近距離にある城内へ逃げ込むしかなかったのではないか。
私はもちろん軍事には素人ですが、上記のまとめはいかがでしょうか。
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『本能寺の変 431年目の真実』(文芸社文庫)
発売半年で20万部突破!!
>>> 「本能寺の変 431年目の真実」読者書評
>>> 「本能寺の変の真実」決定版出版のお知らせ
>>> 『本能寺の変 431年目の真実』プロローグ
>>> 『本能寺の変 431年目の真実』目次
>>> もはや本能寺の変に謎は存在しない!
>>> 本能寺の変当日に発生した謎が解けるか
>>> 愛宕百韻:桑田忠親・金子拓両博士の怪
京都府綾部市での「本能寺の変」講演会のあと、京都府大山崎町のビジネスホテルに宿泊し、翌日「山崎合戦」の地を歩いて回りました。
先祖・光秀の敗戦の地ですので、先祖を偲んでという気持ちはもちろんです。加えて、山崎の合戦の経緯については未だ疑問が残っており、その解明のために現地を見ておきたかったのです。
その疑問については2年前に「歴史捜査レポート」で4回に分けて書き、ブログ読者からも有益なコメントをたくさんいただき、まだ捜査継続中となっているものです。
★ 「山崎の合戦」その1:捜査開始宣言
★ 「山崎の合戦」その2:天王山争奪戦
★ 「山崎の合戦」その3:秀吉の証言
★ 「山崎の合戦」その4:フロイスの証言
まず、JR山崎駅から天王山中腹の旗立松まで登ることにしました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6e/37/29a0423c7aee0882bfcd0b9c7f9034b7.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/15/af/33871d2b0ac6e57055a0e63e5e320d7a.jpg)
登山口からすぐのところに宝積寺があります。奈良時代に創建された由緒あるお寺です。山崎の合戦の当時も存在していたことになります。宝積寺の先から急な山道になります。
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JR山崎駅から30分ぐらい登ったところに旗立松があります。秀吉が山崎の合戦の際に、旗を掲げさせて味方を鼓舞したという話があるそうです。この話の真偽はわかりませんが、この場所が山崎合戦場からよく見える場所であること、逆にこの場所が山崎合戦場をよく見晴らせる場所であることは確かです。山頂までは登りませんでしたが、この旗立松が天王山で唯一の眺望が開けた場所とのことです。展望台が設けられていて、そこから山崎合戦場の写真を撮ることができました。
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旗立松からは登りとは別の道で観音寺(山崎聖天)に向かって下りました。やはり急な山道でした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2a/b1/9eb41a0382a9fa7c2154c7e3c1a6d3a2.jpg)
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天王山を降り切って線路を渡ると大山崎町の中央を通る西国街道に出ました。山崎合戦場へとつながる東黒門に向かいました。合戦の当時は東西の黒門で山崎の街が仕切られていました。
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東黒門はボトルネックのように道が狭くなっていて、車がすれ違えません。これがもともとの西国街道の道幅だったのでしょう。この東黒門の出口で光秀軍が待ち構えたのは当然の作戦だったと思います。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/04/43/8e0b8dc53d9101c6c6f30840909e2a5f.jpg)
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東黒門を通り過ぎると道幅は広がりますが、その先でまた車がすれ違えない狭さになります。それが昔ながらの西国街道本来の道幅なのでしょう。この道幅では大量の軍勢を一挙に移動することは難しかったでしょう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/05/54/3c88e0905a7b2a32d3d2284793ad9a3d.jpg)
山崎合戦場跡から天王山がよく見えます。逆に天王山からは合戦場が一望のもとに見えていたわけで、敵陣の配置や戦況を知る上では絶好の場所だったと感じました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/47/a2/25ae62cc13ffe2aeb7dfb671ed59f52e.jpg)
山崎合戦場には目立たない石碑が立っているだけでした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3d/30/4eec951e846b74e4dc7903213e314333.jpg)
光秀本陣跡と伝えられる境野1号墳(御坊塚)も看板が立っているだけで、地元の人に尋ねてもよく知られていない場所でした。東黒門からゆっくり歩いて30分の距離でした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/07/42/8793cbe8d68240cd1ee70603785454df.jpg)
さらに、20分ほど歩くと勝龍寺城に着きました。光秀が一旦逃げ込んで、夜中に脱出したとされる城です。小さな城ですが、これは本丸跡に復元した城の模型のようなもので、外堀はもっと広い場所を囲んでいたことが見取り図でわかりました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/78/5e/e247226b54797224ef080f912f976efa.jpg)
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こうして見てきた感想をまとめると次の通りです。
・天王山は大規模な軍勢の移動には適しておらず、ここを確保することは攻撃のためというよりも、敵情把握のための効果が大きかったのではないか。
・光秀が勝龍寺城に逃げ込んだのは、狭い街道は退却する軍勢で身動きがつかない状況で、至近距離にある城内へ逃げ込むしかなかったのではないか。
私はもちろん軍事には素人ですが、上記のまとめはいかがでしょうか。
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『本能寺の変 431年目の真実』(文芸社文庫)
発売半年で20万部突破!!
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明智 憲三郎 | |
文芸社 |
>>> 「本能寺の変 431年目の真実」読者書評
>>> 「本能寺の変の真実」決定版出版のお知らせ
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>>> もはや本能寺の変に謎は存在しない!
>>> 本能寺の変当日に発生した謎が解けるか
>>> 愛宕百韻:桑田忠親・金子拓両博士の怪
山崎の戦いの地行かれたんですね!
どうでした?
サントリービール工場は行けずですか?
相方の実家が淀川の向こう岸にある八幡市なので、土地勘は、、、無茶苦茶ありますです。ハイ。
長岡京市、大山崎町の学芸員さんのお話では、お出掛けになったサントリービール工場あたりが主戦場だったのでは?というお話でした。
その割には安土、桃山期の出土品はあまり聞かないのですが。もう少し国道171号線沿いに北へ行くと、日本電産の本社があり、その1階ロビーには長岡京市が都だった頃の出土品が飾られています。
なお、安土・桃山期の大山崎・長岡京エリアは淀川から山裾まで現在から比べると500メートル狭い狭隘の地だったのことです。
兵力が少ない方が、相手に戦力の逐次投入を強いるのは当然です。
さて戦後、光秀主従は近江・坂本を目指す途上、現在は伏見区の小栗栖で討たれたとあります。
長岡京、大山崎は桂川、宇治川、木津川の三川が合流し、淀川となる地ですが、秀吉が干拓工事を行うまでは、三川合流地のすぐ北東に「巨椋池」という巨大な湖があり、幾つもの船着場が有ったそうです。
つまり、勝竜寺城の側を流れる小畑川を下って、三川合流地まで出れば、小栗栖の南にある六地蔵まで、舟のまま一気に行くことが出来たのです。
六地蔵で降りれば、大和街道を北上し、五条通の鴨川東岸まで行くことができます。
ちなみにこの大和街道を下れば、家康が通ったとされる伊賀越えへ行くこと出来ます。本来は伊勢参宮のための街道ですが。
もしかすると、光秀主従が東へ向かったのは、家康と合流するためだったかも知れませんね。