本能寺の変 「明智憲三郎的世界 天下布文!」

『本能寺の変 431年目の真実』著者の公式ブログです。
通説・俗説・虚説に惑わされない「真実」の世界を探究します。

「桶狭間の戦い」の勝利は「偶然・幸運」か?

2017年03月05日 | 歴史捜査レポート
 織田信長研究で著名な歴史学者の方々は信長が「桶狭間の戦い」に勝てたのは「偶然・幸運」の産物と主張しています。しかし、実社会では周到に計画したことでも「偶然・不運」で失敗する例がいくらでもあるのに対して、何も考えずにやったことが「偶然・幸運」で成功する例はまずありません。ましてや、織田家存亡の戦いです。「必然・必勝」の作戦を立て、覚悟を決めて臨まない織田家棟梁がいるのでしょうか。しかも、彼は天下統一まで上り詰めようとした人物です。
 私には歴史学者が自分では説明がつけられなくなると、信長の「偶然・幸運」や光秀の「無策・無謀」やら、理由を歴史上の人物に押し付けているように見えます。皆様はいかがお考えでしょうか。
 以下に歴史学者の堂々たる主張の一例をご紹介します。「合理的な説明は無理」とは自ら歴史学は科学ではないと宣言した言葉ではないでしょうか。

 要するに、信長が勝ち義元が頸をとられたのはあくまでも結果の問題であって、必然的なものであったとは認めがたく、したがって合理的な説明は無理なのである。(中略)しかし、結局の所、藤本氏も述べているように、信長の作戦が都合よく展開したのは、「はなはだ幸運」だったからであるとせざるを得ないのであり、必然の結果とは見なしがたいのである。合戦の結果は偶然の産物としか言いようがない。
(注)文中の「藤本氏」とは『信長公記』の記述を基にして、桶狭間の戦いは迂回奇襲戦ではなく正面攻撃説を唱えた歴史学者・藤本正行氏のことです。

 実は桶狭間の戦いでの信長必勝の作戦は簡単に解くことができるのです。
 その必勝の作戦を初めて、そして唯一解いた本。
 それが『織田信長 四三三年目の真実』明智憲三郎著・幻冬舎です。

 >>> 「桶狭間の戦い」信長勝利の方程式が解けた!
 詳しくは『織田信長 四三三年目の真実 信長脳を歴史捜査せよ!』明智憲三郎著・幻冬舎をお読みください。

(この記事は2014年12月に投稿した記事に加筆修正したものです)
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 amazonカスタマーさんの「論理的な歴史の解明は画期的。加えて、現代にも通じる教訓がここにありました」と題するレビューコメントです。
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 この本が画期的なのは、信長をはじめとした戦国武将たちが、
・どのような事情に置かれ、
・どのような価値観を持ち、
・どのような考え方を学び、実践したか
について先ず丁寧な解説がしてあることでしょう。
 当時の人たちの考え方を念頭に改めて史実を再構築した研究家は過去にはいなかったのではないでしょうか
 その上で膨大な文献の読み込むことによって、いくつかの古文書にある記述が、その時代の支配者によって意図的に歪曲され、ねつ造されたものであることさえ暴いて見せている事は圧巻と言ってよいと思います。
 当時の人たちの考え方が理解できる素地が整った所で、いよいよ本能寺の変の謎解きにかかります。
著者が少しづつ提示していくヒントを辿り、自分でも推理しながら読み進めていく面白さは過去に経験したことの無いものでした。
 人は歴史から学ばなければなりません。著者は、今、日本と世界が置かれている状況は、当時の戦国武将の置かれた状況に近づいてきていると鋭く指摘しています。傑出した才能の持ち主であった信長と秀吉は、結局運命づけられた滅亡から逃れる事ができませんでした。対して家康が300年の平和支配を築くことができたのは、それまでの利益を追及する価値観から仁・義・礼・智・信を善とする価値観への転換を成し遂げたからであったという指摘は、競争がし烈、過酷を極めている中にいる現代人こそ学ぶべき教訓ではないでしょうか。

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2 コメント

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Unknown ()
2015-07-26 23:52:08
新刊と藤本著「信長の戦争」で、桶狭間の戦いにおける最初に私の目についた違いは、佐々と千秋が義元本陣(先陣)へ東へ向かって攻めたのではなく、鳴海城へ向かって西へ、つまり逆方向に攻めたことですね。地図も結構違う。鳴海の南側の海とか。熱海神宮と沓掛城を地図に含めた点が良いと思います。高根山も含めたことも。新刊p77で「狭間に細長く展開した軍勢の比較的前方」およびp78で「義元が戦況を見るためには高根山に登るか」が秀逸な指摘です。p55の古典引用「狭い場所で迎え撃つ」も注目しました。山崎みたいですね。あとp59の夏の海風にも注目しました。とはいえ先月の伊勢崎市で太陽電池パネルが飛ばされ壁に木片が突き刺さった突風は6/15でしたが、「桶狭間の戦いは」永禄3年5月19日は西暦換算で1560年6月12日だそうですから、ほとんど同じ時期ですね。夏の海風ですと多治見市は南西からの風が吹いて連日超高温になるそうですから(ここ最近みたいに。)、新刊を読んで興味深く思った箇所でした。
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佐々と千秋 (明智憲三郎)
2015-07-27 09:27:22
 『信長公記』には佐々と千秋がどこを攻めたかが書かれていません。『信長公記』を改ざんした軍記物『甫庵信長記』は「(義元本隊の布陣する)山際へ向かって攻めた」と書きました。研究者の多く(藤本氏も)、義元のいた「桶狭間山」が桶狭間東南の64.7メートル高地とみなした上で、『甫庵信長記』の記述を信じ込んで佐々と千秋が遭遇した山際の敵とは「義元前軍」と解釈しました。ここに二重の錯覚が生じたのです。64.7メートル高地が「桶狭間山」ではありえないことは現地を一度でも訪ねてみればわかることです。
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