怨恨(えんこん)説を通説の主演賞とすれば野望説は助演賞でしょう。「信長を怨んでいたろうが、もちろん光秀には天下を取りたい野望もあったに違いない」と思っている方が多いのではないでしょうか。
例によって5つの視点から斬ってみます。
まず、動機です。ある高名な歴史学者が「光秀も天下が欲しかったのだ」と50年ほど前に本に書きました。この歴史学者は怨恨説は軍記物が作ったものに過ぎないと否定し、その代わりに野望説を唱えたのです。
私には子供が「お菓子が欲しい、おもちゃが欲しい」といっているのと同じに感じますが、いかがでしょうか?
頼朝が平氏を倒し、足利尊氏が鎌倉幕府を倒したのは天下が取りたかったからでしょうか。「天下を取る」のは手段であって最終目的ではありません。彼らはその先の目的を持っていたはずです。天下を取って、一族を繁栄させたいとか、逆に天下を取らないと一族が滅亡するといったことです。
光秀も同様と考えられます。信長を倒して天下を取った先の「何か」が動機だったはずです。
ところが、光秀はその「何か」を果たさないまま敗れてしまいました。したがって、本当の動機が見えないのです。つまり、野望説とは、本当の動機が見えないがために仕方なく、苦し紛れに設定した仮説ということです。
光秀は謀反後のビジョンを何も持っていなかったかの如くにもいわれます。信長を討った後は目的を達成して虚脱状態だったという人までいます。しかし、史実は違っており、秀吉に敗れるまで光秀は当然なすべき軍事行動をしています。
このように、謀反後のビジョンがなかったというのも、やはり苦し紛れに設定された仮説です。要は真相を追究する側が追究努力を放棄したということに過ぎないのです。
それでは、実行可能性はどうかというと、実行プロセスは野望説も怨恨説と同じ通説通りということです。したがって、怨恨説と同じ評価、つまり立証不十分という判定になります。
★怨恨説を斬る!
関係者の証言としては信長の家臣が書いた『信長公記(しんちょうこうき)』に以下の記述があります。
・・・談合を相究め、信長を討ち果たし、天下の主となるべき調儀を究め・・・
確かに「天下を取るべく策を練った」と書いています。
ただし、この証言には疑問があります。信長の家臣が何故光秀と重臣との打ち合わせの内容を知ることができたのか?ということです。
『信長公記』に書かれた信長についての話は身近にいた家臣の証言ですから信用できます。しかし、光秀についての話は誰かからの又聞きということになります。格段に信憑性が落ちます。
果たして光秀の身近にいて、光秀と重臣の話を聞き、それを信長の家臣に語ることのできる人物がいたのでしょうか?おそらく光秀の側近で生き残ることができた人はほとんどいないと思いますが。
本人の自白としては有名な句があります。愛宕百韻(あたごひゃくいん)と呼ばれる連歌(れんが)の会で光秀が詠んだとされる発句(初めの句)です。
時は今 あめが下しる 五月かな
この句の表の意味は「この雨の下にいると今は季節が五月だったことに気がつく」といったような意味です。
裏の意味は「土岐氏である自分が天下を治める五月となった」と光秀が天下取りの決意を語ったものと解釈されてきました。
しかし、この解釈には決定的な欠陥があります。
何かというと、光秀が天下を取ることになる本能寺の変は六月二日に起きており、五月ではないのです。
したがって、本人の自白の証拠としては採用できません。
それどころか、この句は光秀の野望を偽証するためにある人物が改竄したものです。そのことについては『本能寺の変 四二七年目の真実』で詳しく書きました。下記のページにも書きましたので、詳しくお知りになりたい方はお読みください。
★愛宕百韻の改竄を暴く(その1)
★愛宕百韻の改竄を暴く(その2)
★愛宕百韻の改竄を暴く(その3)
最後に、成功時報酬についてです。三日天下などと言われるとおり、一旦は天下を取ったのだから光秀も野望を達して満足だったに違いない、という人もいます。わが先祖光秀はその程度の人と考えられてきたことは誠に残念です。一族郎党が滅亡する結果にどれだけの思いでいたことか。「無念!」。これに尽きるのではないでしょうか。天下を取ることなど目的ではない、とあらためて思います。
以上まとめると、5つの視点のどれにも確たる証拠がありません。加えて、怨恨説と同様に実行可能性を説明できないという決定的な欠陥があるということです。
例によって5つの視点から斬ってみます。
まず、動機です。ある高名な歴史学者が「光秀も天下が欲しかったのだ」と50年ほど前に本に書きました。この歴史学者は怨恨説は軍記物が作ったものに過ぎないと否定し、その代わりに野望説を唱えたのです。
私には子供が「お菓子が欲しい、おもちゃが欲しい」といっているのと同じに感じますが、いかがでしょうか?
頼朝が平氏を倒し、足利尊氏が鎌倉幕府を倒したのは天下が取りたかったからでしょうか。「天下を取る」のは手段であって最終目的ではありません。彼らはその先の目的を持っていたはずです。天下を取って、一族を繁栄させたいとか、逆に天下を取らないと一族が滅亡するといったことです。
光秀も同様と考えられます。信長を倒して天下を取った先の「何か」が動機だったはずです。
ところが、光秀はその「何か」を果たさないまま敗れてしまいました。したがって、本当の動機が見えないのです。つまり、野望説とは、本当の動機が見えないがために仕方なく、苦し紛れに設定した仮説ということです。
光秀は謀反後のビジョンを何も持っていなかったかの如くにもいわれます。信長を討った後は目的を達成して虚脱状態だったという人までいます。しかし、史実は違っており、秀吉に敗れるまで光秀は当然なすべき軍事行動をしています。
このように、謀反後のビジョンがなかったというのも、やはり苦し紛れに設定された仮説です。要は真相を追究する側が追究努力を放棄したということに過ぎないのです。
それでは、実行可能性はどうかというと、実行プロセスは野望説も怨恨説と同じ通説通りということです。したがって、怨恨説と同じ評価、つまり立証不十分という判定になります。
★怨恨説を斬る!
関係者の証言としては信長の家臣が書いた『信長公記(しんちょうこうき)』に以下の記述があります。
・・・談合を相究め、信長を討ち果たし、天下の主となるべき調儀を究め・・・
確かに「天下を取るべく策を練った」と書いています。
ただし、この証言には疑問があります。信長の家臣が何故光秀と重臣との打ち合わせの内容を知ることができたのか?ということです。
『信長公記』に書かれた信長についての話は身近にいた家臣の証言ですから信用できます。しかし、光秀についての話は誰かからの又聞きということになります。格段に信憑性が落ちます。
果たして光秀の身近にいて、光秀と重臣の話を聞き、それを信長の家臣に語ることのできる人物がいたのでしょうか?おそらく光秀の側近で生き残ることができた人はほとんどいないと思いますが。
本人の自白としては有名な句があります。愛宕百韻(あたごひゃくいん)と呼ばれる連歌(れんが)の会で光秀が詠んだとされる発句(初めの句)です。
時は今 あめが下しる 五月かな
この句の表の意味は「この雨の下にいると今は季節が五月だったことに気がつく」といったような意味です。
裏の意味は「土岐氏である自分が天下を治める五月となった」と光秀が天下取りの決意を語ったものと解釈されてきました。
しかし、この解釈には決定的な欠陥があります。
何かというと、光秀が天下を取ることになる本能寺の変は六月二日に起きており、五月ではないのです。
したがって、本人の自白の証拠としては採用できません。
それどころか、この句は光秀の野望を偽証するためにある人物が改竄したものです。そのことについては『本能寺の変 四二七年目の真実』で詳しく書きました。下記のページにも書きましたので、詳しくお知りになりたい方はお読みください。
★愛宕百韻の改竄を暴く(その1)
★愛宕百韻の改竄を暴く(その2)
★愛宕百韻の改竄を暴く(その3)
最後に、成功時報酬についてです。三日天下などと言われるとおり、一旦は天下を取ったのだから光秀も野望を達して満足だったに違いない、という人もいます。わが先祖光秀はその程度の人と考えられてきたことは誠に残念です。一族郎党が滅亡する結果にどれだけの思いでいたことか。「無念!」。これに尽きるのではないでしょうか。天下を取ることなど目的ではない、とあらためて思います。
以上まとめると、5つの視点のどれにも確たる証拠がありません。加えて、怨恨説と同様に実行可能性を説明できないという決定的な欠陥があるということです。