私を真実解明に駆り立てたものの一番目は「光秀子孫としての思い」ということはご説明した通りです。
★本能寺の変の真実解明に駆り立てたもの
この思いについて少し補足説明をさせていただきます。
「光秀の子孫と知ったのはいつですか?」という質問もよく受けます。「物心付いてすぐ」と答えていたのですが、もっとはっきりした答を言えないものかと記憶を辿ってみました。
そうすると不思議なもので、ずっと忘れていたある出来事がふっと頭に浮かんできました。50年ぶりぐらいに思い出した記憶です。それは多分幼稚園に通うかその前か、よく遊びに行っていた近所の祖父・祖母の家(当時オバアチャンチと呼んでいました)でのことです。畳敷きの部屋ばかりの「日本家屋」と呼ぶに相応しい家でした。
その茶の間のこたつに座ると目の前の鴨居の上に2枚の人物の絵がかかっていました。今思えば、それは歌舞伎役者の錦絵(役者絵)です。色鮮やかでちょっと怖い、と子供心に感じたような気がします。
これは何、と祖父に聞いたときの答が「こっちは我が家の先祖の武智光秀」「あっちは先祖が討った織田信春」でした。(多分!?)
歌舞伎では実名を使わないなど知る由もなかったので、名字が違っているのをとても不思議に思った記憶があります。祖父の説明を聞いても腑に落ちなかったのです。
確かに、それが初めて先祖が明智光秀と知った瞬間だったと思います。
その後、少しずつ祖父から話を聞くようになりましたが、「いじめられて主君を討った」「小栗栖の竹薮で長兵衛に竹槍で刺されて殺された」といった話でした。とても暗い気分になったのはもちろんです。家族の誰もが同じ思いでしたので、家族の内で先祖のことを話題にすることはほとんどありませんでした。
ということで、光秀が先祖であるということはとても気の重いことでした。祖父から聞いた話をもちろん史実だと信じ込んでいました。
★明智小五郎と少年探偵団 ← 子供の頃の私の心の救い
ですから、二十歳の頃に、あのような話はどれも軍記物という後世の物語が作った嘘に過ぎない、と知ったときの驚きと喜びは言いようもないものだったのです。「今に研究家が真実を明らかにしてくれる!」そう期待しました。40年ほど前のことです。
ところが一向に真実は明らかになりませんでした。そればかりか、テレビの力で通説はますます広まったような気がします。なんとも残念で仕方がありません。
★本能寺の変の真実解明に駆り立てたもの
この思いについて少し補足説明をさせていただきます。
「光秀の子孫と知ったのはいつですか?」という質問もよく受けます。「物心付いてすぐ」と答えていたのですが、もっとはっきりした答を言えないものかと記憶を辿ってみました。
そうすると不思議なもので、ずっと忘れていたある出来事がふっと頭に浮かんできました。50年ぶりぐらいに思い出した記憶です。それは多分幼稚園に通うかその前か、よく遊びに行っていた近所の祖父・祖母の家(当時オバアチャンチと呼んでいました)でのことです。畳敷きの部屋ばかりの「日本家屋」と呼ぶに相応しい家でした。
その茶の間のこたつに座ると目の前の鴨居の上に2枚の人物の絵がかかっていました。今思えば、それは歌舞伎役者の錦絵(役者絵)です。色鮮やかでちょっと怖い、と子供心に感じたような気がします。
これは何、と祖父に聞いたときの答が「こっちは我が家の先祖の武智光秀」「あっちは先祖が討った織田信春」でした。(多分!?)
歌舞伎では実名を使わないなど知る由もなかったので、名字が違っているのをとても不思議に思った記憶があります。祖父の説明を聞いても腑に落ちなかったのです。
確かに、それが初めて先祖が明智光秀と知った瞬間だったと思います。
その後、少しずつ祖父から話を聞くようになりましたが、「いじめられて主君を討った」「小栗栖の竹薮で長兵衛に竹槍で刺されて殺された」といった話でした。とても暗い気分になったのはもちろんです。家族の誰もが同じ思いでしたので、家族の内で先祖のことを話題にすることはほとんどありませんでした。
ということで、光秀が先祖であるということはとても気の重いことでした。祖父から聞いた話をもちろん史実だと信じ込んでいました。
★明智小五郎と少年探偵団 ← 子供の頃の私の心の救い
ですから、二十歳の頃に、あのような話はどれも軍記物という後世の物語が作った嘘に過ぎない、と知ったときの驚きと喜びは言いようもないものだったのです。「今に研究家が真実を明らかにしてくれる!」そう期待しました。40年ほど前のことです。
ところが一向に真実は明らかになりませんでした。そればかりか、テレビの力で通説はますます広まったような気がします。なんとも残念で仕方がありません。
私の持っている古い新聞の史跡散策の記事には、地元の豪族で飯田氏の館があり、光秀を館に誘い襲ったと言う説が書かれていました。
もう30年前の記事になります。
明智藪の案内板にも、その説が書かれていました。
まず出典が何かをご確認ください。
軍記物として代表的なものには『太閤記』や『明智軍記』がありますが、それ以外にもいろいろなものがあります。いろいろなものがいろいろなことを書いています。
そのような話が出典も明示されないまま引用されて飛び交っております。
今回のお話も可能性としてないとはいえないようにも思いますが、本当かどうかを云々する前に、とにかく証言の信憑性を確認することが先決です。
史実か如何か解らない、伝説等や観光地での看板に書かれた由来について、聞きたい事、知りたい事など、ある場合、テレビや雑誌者の取材みたいに、郷土の歴史家や専門家に会って、聞く機会などありません。
この場合、何処から手を付けたらいいのでしょ~か?図書館へ行っても古い書籍を読める訳でも有りません。
特に私の祖先に付いて、知りたい事が山ほど有りますので、素人でも出来る事を、教えて頂へればと思います。
地域に密着した研究誌なども見つかるのではないでしょうか。(丹波史談会という団体の発行しているものがあるようです)