いよいよ4月6日(2012年)、PHP研究所発行の月刊誌「歴史街道」5月号の発売です!
総力特集「あれから430年・・・本能寺と光秀の謎」の8分の1、4頁をいただいて拙文「余は余自ら死を招いたな・・・非情な謀殺命令の果てに」が掲載されます。
私が期待しているのは拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』をまだお読みでない多くの歴史好きの方々の関心を引くのではないかというということです。
逆に心配するのはわずか4頁では語りつくせない裏付け証拠と科学的推理の存在をご理解いただけないまま、一見して感じてしまう結論の突飛さ(426年間誰も言った人がいないということのみが原因で感じられる突飛さ)で「有り得ない!」といって振り捨てられてしまうことです。
そう思われた方には是非とも拙著を読んでいただいて、従来のアプローチとは全く異なる「歴史捜査」の神髄をご理解いただきたいと思います。この捜査を開始したとき私は一切の答を持っていませんでした。答についてはまったく白紙だったのです。ただただ犯罪捜査同様の正しいプロセスで捜査を全うすることに一心に注力しました。
後世の物語に過ぎない軍記物の記述を全て捨てて、本能寺の変当時に書かれた信憑性ある史料のみから証拠となる記事を全て拾い上げ、それら全ての辻褄の合う答を復元したのです。
復元した答には正直、私も驚きました。でも、これしか辻褄の合う答はなかったのです。
★ 『本能寺の変 四二七年目の真実』出版の思い
出版社であるプレジデントの編集者が作ってくれたキャッチコピーは正に編集者が感じた素直な感動の現れであり、読者にも是非伝えたい言葉だったのだと思います。それは「光秀の血脈が生涯かけて解き明かした真実に、読者は驚愕し、やがて深く納得する」です。
★ 真実解明の手法「歴史捜査」
私の意図を素直に受け止めてくださった読書からたくさんの激励とお褒めの言葉もいただきました。
★ 『本能寺の変 四二七年目の真実』読者書評
その中からamazonの拙著サイトへのコメントとして書かれた一文をご紹介します。本質をとらえた最高のご評価と激励をいただいたと思います。
徹底した文献調査に基づく大規模なストーリ
明智光秀の血を引く筆者の長年の研究の成果である。本能寺の変は昔から様々な研究と異論がある。本書はその一つではあるが、格段に徹底した文献調査に基づく結論である。さすがIT技術者出身の経営者である筆者はあらゆる文献を読み込み相互検証し、推論を排し事実と思われる事柄を抽出し科学的論理的に驚くほど広範囲大規模なストーリを構築しており、私には大変説得力があった。
通常のサスペンスドラマよりも数段論理的な考察で、数等複雑なストーリを構築しており、数倍面白かった。
拙著出版から3年。出版部数2万部越えという実績や読者の声に励まされながら、ブログや講演会などで歴史の真実普及に頑張ってきました。昨年はNHKテレビのBS歴史館に取り上げていただき、ようやくマスメディアも注目してくれ出したように感じます。
★ 著者のプロフィール(講演会や出演の実績)
★ NHK・BS歴史館「本能寺の変の謎」10月20日放送
しかしながら、世の中に浸透してしまった通説の壁も歴史研究界の壁も絶望的に高く厚いものに感じています。マスメディアは相変わらず軍記物の創作した面白おかしい話をたくさん振りまき続けていますし、歴史研究界は拙著を読まずして頭からの否定か全くの無視です。
★ 信長は謀略で殺されたのだ:偶発説を嗤う(駄目押し編)
このような逆風にもめげずに頑張っていきますので、引き続き読者の皆様からの暖かいご声援をよろしくお願いいたします。
★ 「本能寺の変の真実」講演お引き受けします!
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総力特集「あれから430年・・・本能寺と光秀の謎」の8分の1、4頁をいただいて拙文「余は余自ら死を招いたな・・・非情な謀殺命令の果てに」が掲載されます。
私が期待しているのは拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』をまだお読みでない多くの歴史好きの方々の関心を引くのではないかというということです。
逆に心配するのはわずか4頁では語りつくせない裏付け証拠と科学的推理の存在をご理解いただけないまま、一見して感じてしまう結論の突飛さ(426年間誰も言った人がいないということのみが原因で感じられる突飛さ)で「有り得ない!」といって振り捨てられてしまうことです。
そう思われた方には是非とも拙著を読んでいただいて、従来のアプローチとは全く異なる「歴史捜査」の神髄をご理解いただきたいと思います。この捜査を開始したとき私は一切の答を持っていませんでした。答についてはまったく白紙だったのです。ただただ犯罪捜査同様の正しいプロセスで捜査を全うすることに一心に注力しました。
後世の物語に過ぎない軍記物の記述を全て捨てて、本能寺の変当時に書かれた信憑性ある史料のみから証拠となる記事を全て拾い上げ、それら全ての辻褄の合う答を復元したのです。
復元した答には正直、私も驚きました。でも、これしか辻褄の合う答はなかったのです。
★ 『本能寺の変 四二七年目の真実』出版の思い
出版社であるプレジデントの編集者が作ってくれたキャッチコピーは正に編集者が感じた素直な感動の現れであり、読者にも是非伝えたい言葉だったのだと思います。それは「光秀の血脈が生涯かけて解き明かした真実に、読者は驚愕し、やがて深く納得する」です。
★ 真実解明の手法「歴史捜査」
私の意図を素直に受け止めてくださった読書からたくさんの激励とお褒めの言葉もいただきました。
★ 『本能寺の変 四二七年目の真実』読者書評
その中からamazonの拙著サイトへのコメントとして書かれた一文をご紹介します。本質をとらえた最高のご評価と激励をいただいたと思います。
徹底した文献調査に基づく大規模なストーリ
明智光秀の血を引く筆者の長年の研究の成果である。本能寺の変は昔から様々な研究と異論がある。本書はその一つではあるが、格段に徹底した文献調査に基づく結論である。さすがIT技術者出身の経営者である筆者はあらゆる文献を読み込み相互検証し、推論を排し事実と思われる事柄を抽出し科学的論理的に驚くほど広範囲大規模なストーリを構築しており、私には大変説得力があった。
通常のサスペンスドラマよりも数段論理的な考察で、数等複雑なストーリを構築しており、数倍面白かった。
拙著出版から3年。出版部数2万部越えという実績や読者の声に励まされながら、ブログや講演会などで歴史の真実普及に頑張ってきました。昨年はNHKテレビのBS歴史館に取り上げていただき、ようやくマスメディアも注目してくれ出したように感じます。
★ 著者のプロフィール(講演会や出演の実績)
★ NHK・BS歴史館「本能寺の変の謎」10月20日放送
しかしながら、世の中に浸透してしまった通説の壁も歴史研究界の壁も絶望的に高く厚いものに感じています。マスメディアは相変わらず軍記物の創作した面白おかしい話をたくさん振りまき続けていますし、歴史研究界は拙著を読まずして頭からの否定か全くの無視です。
★ 信長は謀略で殺されたのだ:偶発説を嗤う(駄目押し編)
このような逆風にもめげずに頑張っていきますので、引き続き読者の皆様からの暖かいご声援をよろしくお願いいたします。
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歴史街道発売早々に購入しました。
ゆかりの地紹介では、しっかりした取材内容で大変良かったです。(周山の光秀公を安置するお寺では、私が読んだ雑誌の中では、初めて?真実が書かれていた様に思います。)
光秀公の出来事年表にて、明智説の24日ではなく、27日が愛宕参詣となっていたのが残念ですが、私の持っている本には、光秀の27日のアリバイが書いた一族の記録がが有るようです。
その記事は、新人物往来社「日本城郭体系11 京都・滋賀・福井」のP100ページに参考程度に書かれています。
「宇野系譜」の中で、宇野清秀は、5月27日、光秀より謀反の助力を求められたときに、これを拒絶し光秀の志を諌めたために暗殺された。
と書かれております・・・。
聞いた話ですが、謀反に関わった事を隠すために、その日は風邪で寝込んでいたので、合戦に参加出来なかったと言う記録を残している一族もあるようですので信憑性に欠けますが、私的には!何故?27日なのか?と言う事が気に成っています。
何故なら、一般的に光秀は27日に愛宕山にいて亀山城不在となっているからです。
あと、明智説の細川家家臣の情報漏えいに関してですが、鈴木・藤本氏の偽書「武功夜話」の研究の本の中で、も気に成る記事がありましたよ。(P214ページ)
私もお二人と同じようなことを感じていました。PHP研究所の編集者の方はかなり拙著の内容を研究しており、好意的にとらえてくれていたと思います。ゆかりの場所を取材に回るとのことだったので、餅寅さんを紹介しておいて正解でした。
さて、信忠の件は重要だったと思いました。
光秀は信忠が2日前に上洛していることを見落としていたのですが、それは信長の計画では「信忠は家康一行に同行して堺まで遊覧して本能寺の変の当日に一緒に上洛する」ことになっていたからです。信長の計画通りであれば信忠はまだ京都にはいないはずだったのです。
信長の家康討ちが一転して信長討ちに変わったことにより、家康を監視する信忠の役割も逆転して家康に監視される立場になっていたわけです。「ミイラ盗りがミイラ」ですね。
したがって、光秀は「飛んで火にいる夏の虫」の如くに信忠を待てばよい、途中で逃げれば家康一行が討てばよい、いずれにせよ確実に討てると確信していたと考えます。このことは光秀の謀反の決断に作用したことは確かでしょう。
ところで、この特集記事では江宮隆之氏が秀吉黒幕説のコンテクストで指摘されていますが、「信長だけを殺しても、嫡男・信忠を同時に殺せなければ秀吉の謀反は成功しない」という件、これは明智説についても当てはまるでしょうか? それとも、信忠殺害はそこまでのMUSTではなかったのか?(もちろん光秀は信忠を殺していますが) どなたかご見解をお示しいただければ幸いです。
餅寅さんのコーナーは良いですね。信長との関係に目がいってしまいますが、一番大事なののは光秀のイメージ払拭の普及です。この雑誌がもっと読まれるようブログなどで広めて行こうと思います。