
>>> 『「本能寺の変」は変だ!』文芸社、2016年
>>> 『織田信長 四三三年目の真実』幻冬舎、2015年【2012年11月27日初稿 2014年5月30日追記】
天正十年(1582)六月二日、つまり本能寺の変が起きたその当日の早朝、二人の武将が信長に呼び出されて本能寺へ向かっていました。堺を出発した徳川家康と奈良から出発した筒井順慶です。このことを書いた信憑性ある史料(茶屋由緒記、多聞院日記)が存在しています。
明らかに信長は二人を本能寺へ招いて何かをしようとしていたのです。それは何だったのでしょうか?それを解かずして本能寺の変の真相は明らかになりません。
信長が二人を呼び出していたという事実も、その理由についても、これまで本能寺の変を研究してきたそうそうたる歴史学者も誰一人として取り上げていないのです。完全に無視です。犯罪捜査でいえば基本的な事実認識が欠如しているのです。そんな犯罪捜査で真相を解明できるはずもありません。
この謎を427年目にして初めて解いたのが拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』です。この書は推理小説のごとくして、小説ならぬ真実のドキュメントです。幸いに読者の支持を得て、2万部・第10刷を越えました。
そして、さらに四年間の追跡捜査の結果を盛り込んで『本能寺の変 431年目の真実』(文芸社文庫)を2013年12月に出版しました。「ズバリ本能寺の変の謎を解いてしまった本」として読者の絶大な御支持をいただき、6か月で20万部を突破しました。
いかに歴史の通説なるものが勝者の宣伝で作られ、歴史学の権威者たちによって世の中に信じこまされてきたものなのかを是非知っていただきたいと思います。目から鱗が落ちるはずです。
★ 本能寺の変の通説に欠落しているもの
★ 本能寺の変の通説は打破された!
従来の本能寺の変研究は動機論のみであり、謀反の実行プロセスについては何も解明されていません。犯罪捜査であれば動機と犯行プロセスの両方の解明が必要であり、明らかに片手落ちです。しかも、動機論が怨み、野望、メンツ、出世、ロマン、唆しなど新聞記事でいえば三面記事の犯罪次元で論じられるという信じがたい状況が続いています。本能寺の変をそのような次元に矮小化したのは羽柴秀吉です。
★ みんな秀吉にだまされた!
「信長の遺体が本能寺で見つからなかった謎」という小説が作り出した非科学的な馬鹿げた謎など追わずに、信憑性ある史実に残された真面目な謎を追っていただくと、歴史の真実が見えてきます。
★ 「見つからなかった信長の遺体の謎」を斬る!
本能寺の変研究よ、いい加減に目を覚まそう!!!!
『本能寺の変 431年目の真実』(文芸社文庫)2013年12月発売
2014年5月20万部突破、啓文堂大賞受賞
>>> 「本能寺の変 431年目の真実」読者書評
>>> 「本能寺の変の真実」決定版出版のお知らせ
>>> 『本能寺の変 431年目の真実』プロローグ
>>> 『本能寺の変 431年目の真実』目次
>>> もはや本能寺の変に謎は存在しない!
>>> 本能寺の変当日に発生した謎が解けるか
>>> 『織田信長 四三三年目の真実』幻冬舎、2015年【2012年11月27日初稿 2014年5月30日追記】
天正十年(1582)六月二日、つまり本能寺の変が起きたその当日の早朝、二人の武将が信長に呼び出されて本能寺へ向かっていました。堺を出発した徳川家康と奈良から出発した筒井順慶です。このことを書いた信憑性ある史料(茶屋由緒記、多聞院日記)が存在しています。
明らかに信長は二人を本能寺へ招いて何かをしようとしていたのです。それは何だったのでしょうか?それを解かずして本能寺の変の真相は明らかになりません。
信長が二人を呼び出していたという事実も、その理由についても、これまで本能寺の変を研究してきたそうそうたる歴史学者も誰一人として取り上げていないのです。完全に無視です。犯罪捜査でいえば基本的な事実認識が欠如しているのです。そんな犯罪捜査で真相を解明できるはずもありません。
この謎を427年目にして初めて解いたのが拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』です。この書は推理小説のごとくして、小説ならぬ真実のドキュメントです。幸いに読者の支持を得て、2万部・第10刷を越えました。
そして、さらに四年間の追跡捜査の結果を盛り込んで『本能寺の変 431年目の真実』(文芸社文庫)を2013年12月に出版しました。「ズバリ本能寺の変の謎を解いてしまった本」として読者の絶大な御支持をいただき、6か月で20万部を突破しました。
いかに歴史の通説なるものが勝者の宣伝で作られ、歴史学の権威者たちによって世の中に信じこまされてきたものなのかを是非知っていただきたいと思います。目から鱗が落ちるはずです。
★ 本能寺の変の通説に欠落しているもの
★ 本能寺の変の通説は打破された!
従来の本能寺の変研究は動機論のみであり、謀反の実行プロセスについては何も解明されていません。犯罪捜査であれば動機と犯行プロセスの両方の解明が必要であり、明らかに片手落ちです。しかも、動機論が怨み、野望、メンツ、出世、ロマン、唆しなど新聞記事でいえば三面記事の犯罪次元で論じられるという信じがたい状況が続いています。本能寺の変をそのような次元に矮小化したのは羽柴秀吉です。
★ みんな秀吉にだまされた!
「信長の遺体が本能寺で見つからなかった謎」という小説が作り出した非科学的な馬鹿げた謎など追わずに、信憑性ある史実に残された真面目な謎を追っていただくと、歴史の真実が見えてきます。
★ 「見つからなかった信長の遺体の謎」を斬る!
本能寺の変研究よ、いい加減に目を覚まそう!!!!
『本能寺の変 431年目の真実』(文芸社文庫)2013年12月発売
2014年5月20万部突破、啓文堂大賞受賞
![]() | 【文庫】 本能寺の変 431年目の真実 |
明智 憲三郎 | |
文芸社 |
>>> 「本能寺の変 431年目の真実」読者書評
>>> 「本能寺の変の真実」決定版出版のお知らせ
>>> 『本能寺の変 431年目の真実』プロローグ
>>> 『本能寺の変 431年目の真実』目次
>>> もはや本能寺の変に謎は存在しない!
>>> 本能寺の変当日に発生した謎が解けるか
大変興味深い情報をありがとうございます。
詳細を知りたく、できれば根拠史料をご教示ください。
主家より妻を戴き大切にしました。
細川藤孝に仕え主君が足利義昭を見限ると追従し、
土岐再興を祈願してました。
生前、明智の名字は使ってませんでした。
証明は難しいので自ら<想像>と申し上げております(笑
ただ、牛一がそこに義輝の名を挙げているのは事実であり、その点については管見の限り過去に言及した事例を知らず、あえて無視されているのではないかと思います。
自己陶酔はきつい言葉かも知れませんが、あくまで自戒を込めての諫言です。
>12月発売予定の次作をお読みいただいて、それでも納得いただけないようでしたら、あらためてコメントしてください。
信者的読者ではなく、研究者の方々からどのようなご意見が寄せられる注視しております。
「家康討ち」は実際に出陣命令を受けた兵士たちがそう思ったと言っているので、「「巷の噂」程度の下世話な発想以外の何者でもない」と決めつけるのはご勝手ですが同意はいたしかねます。牛一の首巻の話は正に根拠のない想像の世界ですので、これも同意はしかねます。
貴説の主張に熱心なことはわかりましたが、生産的な議論にもならないこともわかりました。拙著を本当にお読みなのか疑問に感じますが、現状で云々しても無意味でしょう。12月発売予定の次作をお読みいただいて、それでも納得いただけないようでしたら、あらためてコメントしてください。
理由を付けるのであれば家康を討つのは安土であろうが本能寺であろうが何れでもよく、信長が無防備であったとか油断していたと言われるのは「変」があったうえでの結果論的視点であり、信長にとっては至極当然の行動であり、「変」がなければ別段指摘されることもなかったでしょう。
当時、巷間に家康不要論があったのは確かですが、言い換えれば家康自身もそれを承知していたうえでそれに対する備えもしていたと考えるべきで、逆にそのことに信長が思い及ばなかったとすれば、よほど慢心していたか耄碌していたことになるでしょう。
だとすれば、信長とはそれだけの人間であったことになります。
「家康討ち」は、あくまで「巷の噂」程度の下世話な発想以外の何者でもないでしょう。
おそらく牛一もそれを承知の上で、家康の立場を信長に置き換え、首巻の「信長暗殺未遂事件」を創作したのではないかと想像しています。
自戒を込めてですが、思い込みが深くなればなるほど何でもないことがさも重要なことに見え、逆に根本的かつ重要なことを瑣末な問題として無視してしまいがちです。
御説については一部に共感する点もあれば、過去にも指摘されていた点もありますが、それぞれに問題点を含んでおります。
自己批判なく主張するのみでは、他人からの批判に耳を塞いだ独り善がりの自己陶酔に浸った奇説と言わざるを得ません。
自説を絶対と思わず、一歩退いて批判的に自己検証することも重要ですね。
、自己満足の世界に逃げ込む
陥る結果となります。
拙著の中でも書いているように、当時の人は「時は今あめが下しる五月かな、これぞ謀反の先兆なり」だけで理解できています。現代人がこの句を見ただけで「謀反の先兆」とは誰も気が付きません。その差こそ土岐氏及び光秀の立場に対する当時の人と現代人の差です。
拙著をお読みになって、まだ疑問がある場合には改めてご質問ください。
つまり、過去=変当時から<土岐云々>が問題とされていなかった何よりの証左ですね。
それを当時の常識だから云々と言い包めるのは、謀略史観の常套手段です。
都合の良い事例のみ列挙して不都合な事実を無視した主張は、結局のところ大衆受けはよくても研究者筋からは批判の的にされるのは今から目に見えてます。
光秀にとって土岐氏はアイデンティティーであったかも知れませんが、家臣達にとっては明智家こそがアイデンティティーであり、それを摩り替え如何なる主張をされても肯首し難いというのが正直なところです。
>毛利が信長の死を知ったときには既に秀吉の軍勢が姫路まで撤収していたことも戦意を削いだのかもしれません。毛利が姫路まで秀吉を追って戦争をするという重い負担を背負う必要性は感じなかったでしょう。
とおっしゃいましたが、私の知識では毛利が情報をつかんだのは四日の午後ですし、撤退を開始した数時間後です。 勿論全ての部隊が同時に撤退した訳ではないでしょうし、知った時には少なくない部隊が現地に残っていたと思われます。萩藩閥閲録では柴田と信澄と光秀が謀反を起こしたとのことですし、毛利は当初はそういった情報を掴んだのだと思います(単なる風評か、誰かが意図的に流したかは不明です)。、秀吉を殺して恩を売っておいたほうが良かったと思うのですが、どうでしょうか? 毛利がどんなことを考えて秀吉を見逃したか良く分かりません
愛宕百韻については科学的な解読作業が終わっており、このブログでも一端をご紹介済みですが、12月発売予定の次作で丁寧にご説明していますので、お読みいただければ、従来の研究が土岐氏という理解を欠いていたために解読できなかったことが、よくおわかりいただけると思います。
<ときは今>に土岐氏云々を言及したのは近代の歴史家であるとの基本認識を欠いていることです。
すなわち、秀吉が言及したのは<光秀の野心>であり、<光秀の出自>ではないのです。
つまり、当時、光秀の謀反の理由として<光秀の出自>は話題に上がっておらず、存在したかも疑わしいと言わざるを得ないのです。
その意味においても、Unknown (s)さんの指摘は至極妥当な疑問だと言えます。
その上で注目すべきは、牛一が行祐と紹巴の脇句・第三句をも掲載しているのに対し、大村由己が取り上げているのが光秀の発句のみであった
という点であり、行祐は藤孝の代弁者ではないかとの指摘があるように、秀吉の意向としてその関与を疑わせることを憚ったのではないかと考えられます。
実際、本能寺の変前後の細川氏関係者の動性には不可解なものがあり、光秀の謀反に何らかの関与をしていたのではないかと見られます。
もちろん黒幕云々などではなく、光秀の決意に影響を与えまた察知していたのではないかという程度であり、「愛宕百韻」については、余り深読みし過ぎることで自己陶酔に陥るものと危惧申し上げます。
http://blog.goo.ne.jp/akechikenzaburotekisekai/e/03482cecfc92d662f6d0bdf7b16db3b5
なお、12月に詳しく解説した本を出版予定ですので、ご理解できない場合には、それをご覧ください。
とにかく土岐氏、土岐明智氏といった構造について御理解をいただくようにお願いします。拙著をお読みいただくか、下記のページ(土岐氏とは何だ)などをご覧ください。http://blog.goo.ne.jp/akechikenzaburotekisekai/e/d238f82f6261e82fe91726a420742bb3
現代の土岐一族の会でも合言葉は「土岐桔梗一揆」です。それが心のよりどころとなっており、私の思い込みではありません。光秀が土岐氏再興を担っていたことは愛宕百韻の完全解読によって裏付けられています。http://blog.goo.ne.jp/akechikenzaburotekisekai/e/03482cecfc92d662f6d0bdf7b16db3b5
帰蝶がいとこというのは「明智軍記」の創作に過ぎません。
そういえば帰蝶も光秀と従妹かどうかは不明ですが母親は明智氏ですね。氏族長の光秀に対してどのような思いを抱いていたのでしょう。(光秀がなにをもって氏族長なのかわかりませんが)
前にコメントした人と私は別人です
貴兄がそう思い込むのは勝手ですが、具体的な事例を挙げてもらいたいものですね。
>明智光秀がその悲願を背負った人物であったことを世の中の人はよく知っていたのです。
まさに貴兄自信が秀吉の頚木に囚われた一人であることを証明していますね。
秀吉と家臣との関係については戦国時代は忠義の時代ではなかったので、家臣は実利的に判断し、秀吉が成功することが自分も成功することであると考えていたでしょう。下記のページ(戦国武将のゲーム理論)が参考になるかもしれません。http://blog.goo.ne.jp/akechikenzaburotekisekai/e/445c0125826175c5dfaf7086ce71335e
また光秀は土岐氏の氏族長だったそうですが、土岐頼芸が失明しても援助をしなかったそうですし、子供の頼元もそうですし土岐氏はばらばらで対立した勢力に仕えているようにおもいます。 部下思いとはいえこれで本当に氏族長と呼べるほどだったのか不思議におもいます。 そもそも光秀は土岐姓を名乗ってもいないし土岐氏の中で年長というわけでもないですし、配下の武将も本能寺の時はほとんどが日和見を決めました。なにをもって氏族長といえるのでしょうか。
毛利が信長の死を知ったときには既に秀吉の軍勢が姫路まで撤収していたことも戦意を削いだのかもしれません。毛利が姫路まで秀吉を追って戦争をするという重い負担を背負う必要性は感じなかったでしょう。
一応講和を結んだとはいえ嘘をつかれていたのですし条約破棄なんてよくありましたから毛利にとっても追撃した方が得だった気がします。
このことから実は光秀は秀吉に協力してもらうつもりでいたから秀吉の陣に使者を早く送り込んでいたという説もありますがどう思いますか?
最近、光秀冤罪説の本を読みました。
その本にて、水野勝成と人物を知り、チョット調べたら。
徳川家康の従兄弟で、明智光秀・愛用の朱槍を家康から頂いたそうで、また、日向守を志願し「鬼の日向」と呼ばれた人だそうです。
(家康は、朱槍を何処から手に入れてのか?)
この事から、家康は何か知っていた様ですね。
説は、一押し足りませんでしたが、違った情報源を調たりするには(暇つぶしには)丁度良かったです。
お言葉を糧にこれからもがんばり続けますので、よろしくお願いいたします。
ですが、明智先生のブログや執筆された本を拝読し深い感銘を受けました。
歴史に素人の私が申し上げるのも僭越ですが、現代の我々が100%の真実に辿り着くのは限り無く不可能に近いと思います。ただ、本能寺の変と明智光秀という人物の真実に一番近付いたのが明智先生の研究だと感じました。
明智先生の研究がもっと広く世に出ることと明智先生のご活躍を心よりご祈念致します。
末筆ながらくれぐれもご自愛下さい。
光秀は戦勝祈願として愛宕百韻を詠んだ。そこには光秀の祈願が間違いなく詠みこまれている。それは光秀の謀叛の動機の「自白」に他ならない。
そう着眼して拙著で愛宕百韻の解読を行いました。拙著をお読みいただければ光秀の動機はご理解いただけるものと思います。「ときは今あめが下なる五月かな」「国々はなおのどかなるとき(頃)」です。
この400年の実績が現代の人々の評価能力を完全に狂わせています。怨恨・野望説の対論も結局、新聞記事でいえば三面記事の刑事事件、犯人の個人的な性格・感情・エゴに起因した事件ととらえているのです。400年間の秀吉に騙されているのですから悲しいですね。
謀反に失敗したら一族滅亡です。悲惨な事例はいくらでも光秀の身近に起きていたのです。そのような謀反を決意するには、絶対条件が2つあります。1つ目は謀反を起こさなければ一族が滅亡してしまう危機が迫っているという認識があること、2つ目は謀叛を起こすのであれば必ず成功させられるという目算が立つことです。
これは極めて当然の論理なのですが、400年前の秀吉の呪縛によって現代人は見誤ってしまっています。確かに光秀謀反は失敗しましたので結果だけ見て「無策」と唱える人はいるでしょう。本因坊の碁でも負ければ、ど素人があれこれ講釈を垂れるものです。
突発説・偶発説・発作説といったものは、その説を唱える人が論理的な説明を放棄した結果に過ぎません。自分の論理では説明が付けられずに論理破たんしたのです。著名な某研究家が「諸々の状況から光秀は謀叛へとジャンプした」と書きましたが、ジャンプしたのは光秀ではなく研究家本人の論理なのです。
それでもやはり動機には疑問が残ります。 信長討ちのリスクを考えると、素直に家康を殺して三河に進出していた方が光秀にとっても良い選択だったのではないかと思います。 光秀の領国の坂本は元々比叡山領でありました。 一般的な認識では光秀は比叡山焼き討ちには反対していたとされがちですが、実際は地元の土豪の和田秀純に対しての事前の調略や武器の調達を行っていますし、和田秀純の手紙の中で仰木(比叡山の場所)の事は撫で斬り(皆殺し)するべきとも言っています。
そんな場所の領主になったにも関わらず光秀はそこに城を構え、善政をしき、ついには領民に慕われるようになったのです。 そんな光秀なら駿河を治めることもさほど難しくはないのではないでしょうか?光秀は琵琶湖の水運を利用し坂本を大いに栄えさせました。駿河も近年では副首都の構想もあったくらいですし、水運は坂本よりも遥かに良い位置にあります。光秀にとっては変を起こすよりも駿河に領国を移した方がはるかにいい気がします。 後の大陸侵攻においても朝鮮出兵でも徳川は大して兵を出さなかったのですし、役割はせいぜい東北勢の抑えでしょう。後の駿河大納言徳川忠長も江戸と駿府に二人将軍がいるといわれたほどです。 だから本当の動機はこうであった、とはいえませんが、意見をお伺いしたいです。
ただし、67歳が当時異常に高齢な年齢かというとそうではありません。武将の享年をみると、伊達政宗69、佐竹義重65、北条早雲87、徳川家康74、六角承禎70、松永久秀67、尼子経久83、毛利元就74、島津義久78。
彼らが高齢で痴呆だったという話は聞いたことがありません。もちろん光秀についても。ちまきを笹ごと食べた話は軍記物(川角太閤記)の作った話であり証拠能力はゼロです。
「後世の人間がいちいちこじつけただけ」という言葉はむしろその説を述べている方へお返しすべき言葉と思います。光秀が謀反を悟られないように愛宕百韻を詠んだことも変のあとに不可解な行動をとっていないことも拙著をお読みいただければご理解いただけるはずです。
光秀は五十を過ぎてから信長に仕え、明智さんのおっしゃっている通りただ一族の存続を願う一武将であったが、晩年には当時の観点からすれば非常に高齢であったため痴呆が進行しており、本能寺は突発的に引き起こしたという説です。根拠としては光秀がちまきを笹ごと食べようとしたというのがあります。 なんでもその説によると愛宕百韻は光秀の決断でもなんでもない唯の句で、後世の人間がいちいちこじつけただけだそうです。実際光秀の本音が隠されていたとしても大勢の人間がいるなかで謀叛を悟られそうなことを言うなんて光秀の評価が下げられても仕方ないとおもいます。 本能寺の変の後は結果論を抜きにしてもあまりに不可解な行動が多く見受けられます。 実際変によって一族は安定どころではなくなったのだし、これなら素直に家康を討ったほうが良かったのではないかなとおもいます。 失礼とは思いますが、明智さんのこの説への評価を聴きたいです。
筒井j順慶さんの方は、憶えてないので、
もう一度、本を読み直します!