『「本能寺の変」は変だ! 明智光秀の子孫による歴史捜査授業』(明智憲三郎著・文芸社・2016年5月)の抜粋をこのブログで順次ご紹介しています。第1回から順に辿れるようにリンクを貼ってありますので、順にお読みください。
>>> 第1回「はじめに」と「おわりに」
第6回の今回は第4話「恨んで謀反って変だ!」です。
第4話 恨んで謀反って変だ!
これまで見てきたように「信長が怒って光秀を殴った」という話はいずれも軍記物の作り話です。殴った話の他にも信長が光秀をいじめ抜いた話を軍記物が面白おかしく書いて広めました。話がどんどん膨れ上がっていったのです。
(中略)
あるテレビ番組で著名な歴史学者が「私は軍記物を使います」と堂々とおっしゃったので唖然としたことがあります。その理由は「書状や触書などの一次史料(その当時に書かれた史料)ではどうしても埋められない部分を埋めるのに使います。もちろん、その記述の裏取りはします」とのこと。でも、一次史料に書かれていない記述なのですから、何から裏取りができるのでしょうか。変ですね!。
(中略)
読者の皆さんが想像する以上に研究者の軍記物依存は根が深く、光秀謀反の動機を恨みとする怨恨説への思い入れも根強いものがあります。怨恨説は今でも定説の地位を死守しているといってよいでしょう。その背景には「江戸時代にこれだけたくさんの恨んだ話が作られたということは、個々の話は作り話だとしても、光秀が信長を恨んでいたのは本当だろう」という考えがあるように思います。
確かに、それには一理あります。軍記物がこぞって恨んだエピソードを作り続けた理由が何かあるはずです。最初に恨んだ話を書いた軍記物は『川角太閤記』。その作者はなぜ恨んだ話をいろいろ作ったのでしょうか。ひとつの推理はこの作者の手本になるものがすでにあったのではないかということです。そこで捜査してみました。
ありました!本能寺の変からわずか四ヶ月後に書かれた『惟任退治記』という本に次のように書かれているのです。
【怨(うら)みを以(も)って恩に報ずるの謂(い)われ、ためし無きに非ず】
これは本能寺で信長が光秀謀反と聞いた時に言った言葉として書かれています。「恩を恨みで返す前例がないわけではない」と光秀が自分を恨んで殺すのだと信長自身が証言したものです。怨恨説の決定的な根拠になるものといってよいでしょう。
(中略)
この事実を研究者の誰一人として指摘していないのは不思議です。『惟任退治記』を活字にして注釈・解説を付けた学者も現代語訳本を出版した学者も「怨恨説はこの本がもとだ!」という重要な事実を指摘していないのです。お二人とも怨恨説を支持しているからでしょうか。それとも政治的な策謀や為政者の意向に対する関心がないのでしょうか。(後略)
怨恨説も野望説もその元は羽柴秀吉が家臣に本(『惟任退治記』)に都合良く書かせたものだったのです。いまだに日本中が秀吉に騙されているのです。
>>> 第7回「天下を取る五月って変だ!」へ続く
【関連リンク】
>>> 通説の創作者は秀吉!
>>> もはや本能寺の変に謎は存在しない!利休・秀次切腹事件にも!
--------------------------
明智憲三郎著の第4作『「本能寺の変」は変だ! 明智光秀の子孫による歴史捜査授業』文芸社
「秀吉がねつ造し、軍記物に汚染された戦国史を、今一度洗濯いたし申し候」。40万部突破の『本能寺の変 431年目の真実』の著者、明智憲三郎がさらなる歴史捜査を通じて、より解り易く「本能寺の変」の真実を解説した歴史ドキュメント! 「ハゲだから謀反って変だ! 」「歴史の流れ無視って変だ! 」「信長の油断って変だ! 」等々、まだある驚愕の真実に迫る!
本能寺の変研究の欠陥を暴き、「本当の歴史」を知る面白さを説く!
「若い方々や歴史に興味のない方々に歴史を好きになってもらいたいと思って書きました」 明智憲三郎
>>> サンテレビ「カツヤマサヒコSHOW」対談YouTube動画はこちら
【明智憲三郎著作一覧】
2016年5月発売予定
『「本能寺の変」は変だ! 明智光秀の子孫による歴史捜査授業』文芸社
>>> 文芸社のページ
2015年7月発売
『織田信長 四三三年目の真実 信長脳を歴史捜査せよ!』幻冬舎
>>> 幻冬舎のページ
2013年12月発売
『本能寺の変 431年目の真実』文芸社文庫
>>> 文芸社のページ
2009年3月発売
『本能寺の変 四二七年目の真実』プレジデント社
>>> 第1回「はじめに」と「おわりに」
第6回の今回は第4話「恨んで謀反って変だ!」です。
第4話 恨んで謀反って変だ!
これまで見てきたように「信長が怒って光秀を殴った」という話はいずれも軍記物の作り話です。殴った話の他にも信長が光秀をいじめ抜いた話を軍記物が面白おかしく書いて広めました。話がどんどん膨れ上がっていったのです。
(中略)
あるテレビ番組で著名な歴史学者が「私は軍記物を使います」と堂々とおっしゃったので唖然としたことがあります。その理由は「書状や触書などの一次史料(その当時に書かれた史料)ではどうしても埋められない部分を埋めるのに使います。もちろん、その記述の裏取りはします」とのこと。でも、一次史料に書かれていない記述なのですから、何から裏取りができるのでしょうか。変ですね!。
(中略)
読者の皆さんが想像する以上に研究者の軍記物依存は根が深く、光秀謀反の動機を恨みとする怨恨説への思い入れも根強いものがあります。怨恨説は今でも定説の地位を死守しているといってよいでしょう。その背景には「江戸時代にこれだけたくさんの恨んだ話が作られたということは、個々の話は作り話だとしても、光秀が信長を恨んでいたのは本当だろう」という考えがあるように思います。
確かに、それには一理あります。軍記物がこぞって恨んだエピソードを作り続けた理由が何かあるはずです。最初に恨んだ話を書いた軍記物は『川角太閤記』。その作者はなぜ恨んだ話をいろいろ作ったのでしょうか。ひとつの推理はこの作者の手本になるものがすでにあったのではないかということです。そこで捜査してみました。
ありました!本能寺の変からわずか四ヶ月後に書かれた『惟任退治記』という本に次のように書かれているのです。
【怨(うら)みを以(も)って恩に報ずるの謂(い)われ、ためし無きに非ず】
これは本能寺で信長が光秀謀反と聞いた時に言った言葉として書かれています。「恩を恨みで返す前例がないわけではない」と光秀が自分を恨んで殺すのだと信長自身が証言したものです。怨恨説の決定的な根拠になるものといってよいでしょう。
(中略)
この事実を研究者の誰一人として指摘していないのは不思議です。『惟任退治記』を活字にして注釈・解説を付けた学者も現代語訳本を出版した学者も「怨恨説はこの本がもとだ!」という重要な事実を指摘していないのです。お二人とも怨恨説を支持しているからでしょうか。それとも政治的な策謀や為政者の意向に対する関心がないのでしょうか。(後略)
怨恨説も野望説もその元は羽柴秀吉が家臣に本(『惟任退治記』)に都合良く書かせたものだったのです。いまだに日本中が秀吉に騙されているのです。
>>> 第7回「天下を取る五月って変だ!」へ続く
【関連リンク】
>>> 通説の創作者は秀吉!
>>> もはや本能寺の変に謎は存在しない!利休・秀次切腹事件にも!
--------------------------
明智憲三郎著の第4作『「本能寺の変」は変だ! 明智光秀の子孫による歴史捜査授業』文芸社
「秀吉がねつ造し、軍記物に汚染された戦国史を、今一度洗濯いたし申し候」。40万部突破の『本能寺の変 431年目の真実』の著者、明智憲三郎がさらなる歴史捜査を通じて、より解り易く「本能寺の変」の真実を解説した歴史ドキュメント! 「ハゲだから謀反って変だ! 」「歴史の流れ無視って変だ! 」「信長の油断って変だ! 」等々、まだある驚愕の真実に迫る!
本能寺の変研究の欠陥を暴き、「本当の歴史」を知る面白さを説く!
「若い方々や歴史に興味のない方々に歴史を好きになってもらいたいと思って書きました」 明智憲三郎
>>> サンテレビ「カツヤマサヒコSHOW」対談YouTube動画はこちら
「本能寺の変」は変だ!著者:明智憲三郎価格:1,080円(税込、送料込)楽天ブックスで詳細を見る |
「本能寺の変」は変だ! 明智光秀の子孫による歴史捜査授業 | |
amazonで詳細を見る | |
文芸社 |
【明智憲三郎著作一覧】
2016年5月発売予定
『「本能寺の変」は変だ! 明智光秀の子孫による歴史捜査授業』文芸社
>>> 文芸社のページ
2015年7月発売
『織田信長 四三三年目の真実 信長脳を歴史捜査せよ!』幻冬舎
>>> 幻冬舎のページ
2013年12月発売
『本能寺の変 431年目の真実』文芸社文庫
>>> 文芸社のページ
2009年3月発売
『本能寺の変 四二七年目の真実』プレジデント社