昨日、東京は台風9号の影響で昼頃から土砂降りになりました。その中をびしょ濡れになりながら田町で開催された国際サービス・マネージメント協会のクラウド分科会に出席してきました。
★ 国際サービス・マネージメント協会ホームページ
この協会では5月に「SE手法で解き明かす本能寺の変」と題して、この協会としてはちょっと異質な講演をさせていただきましたが、今回はクラウド・コンピューティングがIT保守サービス事業にどのようなインパクトを与えるかといったことを討議する極めて「真面目」な会議への出席でした。
クラウド(雲)といっても一般の方には何のことかさっぱりわからないと思いますが、最近TVのCMに堂々と登場しているので驚きです。あのCMはどのように見られているのか実に興味深いです。問題はクラウドの中味ではなくて、IT企業にとってはとにかく黒船のようなものだということです。その点だけご理解いただければよいかと思います。
さて、本日この記事を書いているのはクラウドのお話をしたいからではありません。この会議でとてもショッキングなお話を聞き、それがきっかけとなって数年前のやはりショッキングな記憶(それが本能寺の変の歴史捜査にかかわった)を思い出したので、その記憶が薄れない内に書いてしまおうと思ったからです。
それでは、数年前のお話から。
当時担当していた仕事の関係で、中国のソフトハウス(ソフトウェアを開発する会社)の実力を評価するために中国の大連、上海に出張しました。
大連では社員2000人というかなりの規模のソフトハウスを訪問し、中国全土から優秀な学生を集め、朝・昼・晩の三食会社で仕事づけ(ソフトウェア・パークという素晴らしい企業環境の周辺には飲食店などの生活環境がないため)、日本語教育づけの状況を見ました。日本語修得に熱心に取り組む若い人達のハツラツとしたエネルギーを直に感じました。日本ではIT産業が3K職場として嫌われて学生に人気のない産業になってしまっている現実と対比して、とてもうらやましかったです。「賃金が安いだけでなく、製造技術では中国が圧倒的に強くなる」と実感しました。
でも、積極的に話しかけてくださる若い方々の日本語能力は私の英語力と同じ程度で、とても顧客と仕様の打ち合わせをして仕様書を書くという、実戦では通用しないレベルでした。そのことは日本側だけでなく中国側も認識していて「私たちは製造業務を担当します。設計業務は日本側でよろしく頼みます」というのが相互の共通認識でした。
ところが、昨日の会議に出席した中国大手ソフトハウスの日本子会社の社長のお話ではこの数年で事態は進展し、いまや要件定義という最上流の業務から中国ソフトハウスが担当しているというのです。もはや日本語は障害にはなっておらず、日本語の仕様書を中国人の技術者が書いていると。
これは衝撃的なことです。製造業務だけであれば、恐らく全業務の最大3割程度に留まると見ていたソフトウェア開発業務の全てが中国でできてしまう、日本人は最終的に不要ということです。ソフトウェア事業の国内空洞化が見えてきたということです。
昨日はこの衝撃でかなり気持ちが落ち込みました。会議で発言する気力もなくなるぐらい。自分が40年がんばってきた日本のソフトウェア産業が消える!?
この衝撃が数年前の中国出張での記憶を思い起こさせました。中国は初めての体験でしたので、いろいろカルチャーショックがありましたが、最も衝撃があり記憶に残ったのが「未来在我手中」(未来は我が手中に在り!!)という言葉でした。この言葉は大連から上海へ向かう国内便の座席に貼られていた中国の会社のCMのキャッチコピーです。
「未来は我が手中に在り!!」、この新鮮で自信にあふれた衝撃的な言葉!日本国内ではこんな言葉を思いつきもしませんでした。ひょっとすると子供の頃にこれに近い感覚があったのかも、いやバブルの頃だったか・・・。これが今の中国と日本の、国としての機運の決定的な違いだと痛切に感じました。皆さんはどう感じられるでしょうか?私にはとても大きなショックでした。そして、とてもやるせないというかうらやましいというか、何ともいえない気がしました。もはや日本人にはとり戻せない言葉!?
そして、このことから、こういったことは現代の日本と中国の違いだけではなくて、現代の日本と過去の日本にも共通する構図なのではないかと気付いたのです。現代の日本と戦国時代の日本とではお互いに理解を越えた時代の機運といったものがあったのではないか。いや、当然あったに違いない。現代人には想像のつかない戦国時代の機運。それを現代人の感覚で推し量ってしまう誤り。現代の歴史研究は皆、こういった誤りを犯しているのではないか。
光秀謀反の動機が秀吉との出世競争に負けたから?これって現代のサラリーマン物語ですね。信長にいじめられたから?これって現代の学校のお話ですね。天下を盗りたかったから?これって現代のやくざの仁義なき戦いですね。
これに気付いたお陰で「土岐氏」に行き着きました。「移封」ということが現代の「転勤」とは全く違うレベルのことであることにも気付きました。当時の人々が先祖代々の土地と切り離されることの重さを現代人は想像できないでしょう。
★ 土岐氏を知らずして本能寺の変は!
ひとつの気付きが別の気付きを誘発して、さらにその先に展開していく。人間の脳の活動は本当に面白いです。拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』は正にそういった脳の活動が生み出した作品だと再認識しました。
★ 国際サービス・マネージメント協会ホームページ
この協会では5月に「SE手法で解き明かす本能寺の変」と題して、この協会としてはちょっと異質な講演をさせていただきましたが、今回はクラウド・コンピューティングがIT保守サービス事業にどのようなインパクトを与えるかといったことを討議する極めて「真面目」な会議への出席でした。
クラウド(雲)といっても一般の方には何のことかさっぱりわからないと思いますが、最近TVのCMに堂々と登場しているので驚きです。あのCMはどのように見られているのか実に興味深いです。問題はクラウドの中味ではなくて、IT企業にとってはとにかく黒船のようなものだということです。その点だけご理解いただければよいかと思います。
さて、本日この記事を書いているのはクラウドのお話をしたいからではありません。この会議でとてもショッキングなお話を聞き、それがきっかけとなって数年前のやはりショッキングな記憶(それが本能寺の変の歴史捜査にかかわった)を思い出したので、その記憶が薄れない内に書いてしまおうと思ったからです。
それでは、数年前のお話から。
当時担当していた仕事の関係で、中国のソフトハウス(ソフトウェアを開発する会社)の実力を評価するために中国の大連、上海に出張しました。
大連では社員2000人というかなりの規模のソフトハウスを訪問し、中国全土から優秀な学生を集め、朝・昼・晩の三食会社で仕事づけ(ソフトウェア・パークという素晴らしい企業環境の周辺には飲食店などの生活環境がないため)、日本語教育づけの状況を見ました。日本語修得に熱心に取り組む若い人達のハツラツとしたエネルギーを直に感じました。日本ではIT産業が3K職場として嫌われて学生に人気のない産業になってしまっている現実と対比して、とてもうらやましかったです。「賃金が安いだけでなく、製造技術では中国が圧倒的に強くなる」と実感しました。
でも、積極的に話しかけてくださる若い方々の日本語能力は私の英語力と同じ程度で、とても顧客と仕様の打ち合わせをして仕様書を書くという、実戦では通用しないレベルでした。そのことは日本側だけでなく中国側も認識していて「私たちは製造業務を担当します。設計業務は日本側でよろしく頼みます」というのが相互の共通認識でした。
ところが、昨日の会議に出席した中国大手ソフトハウスの日本子会社の社長のお話ではこの数年で事態は進展し、いまや要件定義という最上流の業務から中国ソフトハウスが担当しているというのです。もはや日本語は障害にはなっておらず、日本語の仕様書を中国人の技術者が書いていると。
これは衝撃的なことです。製造業務だけであれば、恐らく全業務の最大3割程度に留まると見ていたソフトウェア開発業務の全てが中国でできてしまう、日本人は最終的に不要ということです。ソフトウェア事業の国内空洞化が見えてきたということです。
昨日はこの衝撃でかなり気持ちが落ち込みました。会議で発言する気力もなくなるぐらい。自分が40年がんばってきた日本のソフトウェア産業が消える!?
この衝撃が数年前の中国出張での記憶を思い起こさせました。中国は初めての体験でしたので、いろいろカルチャーショックがありましたが、最も衝撃があり記憶に残ったのが「未来在我手中」(未来は我が手中に在り!!)という言葉でした。この言葉は大連から上海へ向かう国内便の座席に貼られていた中国の会社のCMのキャッチコピーです。
「未来は我が手中に在り!!」、この新鮮で自信にあふれた衝撃的な言葉!日本国内ではこんな言葉を思いつきもしませんでした。ひょっとすると子供の頃にこれに近い感覚があったのかも、いやバブルの頃だったか・・・。これが今の中国と日本の、国としての機運の決定的な違いだと痛切に感じました。皆さんはどう感じられるでしょうか?私にはとても大きなショックでした。そして、とてもやるせないというかうらやましいというか、何ともいえない気がしました。もはや日本人にはとり戻せない言葉!?
そして、このことから、こういったことは現代の日本と中国の違いだけではなくて、現代の日本と過去の日本にも共通する構図なのではないかと気付いたのです。現代の日本と戦国時代の日本とではお互いに理解を越えた時代の機運といったものがあったのではないか。いや、当然あったに違いない。現代人には想像のつかない戦国時代の機運。それを現代人の感覚で推し量ってしまう誤り。現代の歴史研究は皆、こういった誤りを犯しているのではないか。
光秀謀反の動機が秀吉との出世競争に負けたから?これって現代のサラリーマン物語ですね。信長にいじめられたから?これって現代の学校のお話ですね。天下を盗りたかったから?これって現代のやくざの仁義なき戦いですね。
これに気付いたお陰で「土岐氏」に行き着きました。「移封」ということが現代の「転勤」とは全く違うレベルのことであることにも気付きました。当時の人々が先祖代々の土地と切り離されることの重さを現代人は想像できないでしょう。
★ 土岐氏を知らずして本能寺の変は!
ひとつの気付きが別の気付きを誘発して、さらにその先に展開していく。人間の脳の活動は本当に面白いです。拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』は正にそういった脳の活動が生み出した作品だと再認識しました。
それゆえに、僕は「歴史捜査」と名づけられた方法論には本当に敬服しています。 当時の人の日記からアリバイの検証までなされているとは、本当に驚きでした。 広範なリソースを客観的に扱った精緻な事実認定がなされていると考えます。 少なくとも「法廷開催」の論拠は十分だと思います。 傍聴人になれる機会があったら行列に並びますよ。
ある意味、光秀の領地安堵戦法(平和作戦?)は有効だったのではないでしょ~か?
また、一般的に言われている、光秀の丹波1国ですが、寺社領・皇族公家領・細川領と言った碁盤の白黒模様の様な飛び石領地が多く、国人の多くは、掛け持ちで自分の領地や寺社領の管理もしていたので、光秀の直轄領は、その空いた土地の何パーセントだった?、丹波の知事的存在なのに他の戦国大名と同じく国王レベルで比較されがちです。
土地への拘り、多分、丹波衆は本に書かれておられるように、丹波に残った事でしょね。