TBSテレビ「ザ・今夜はヒストリー」で放送した本能寺の変の内容が余りにもひどかったことを前回書きました。
★ 前回はこれです
要は歴史研究では悪書の極みとされる『明智軍記』の記事が未だに堂々と史実として扱われているのです。
解説の加来耕三氏は謀反の動機を下記の3つの事柄をあげて、その結果として光秀は正常な判断ができない状況に陥っていたと説明されました。
光秀は武田攻めの際、信長から欄干に頭をぶつけられて折檻された
光秀は近江・丹波の領地を召し上げられた
秀吉の援軍へ行けと命令されて秀吉の格下にされた
このいずれも『明智軍記』の創作したお話に過ぎないのです。
そして、結論として動機は怨恨説のような発作説のような偶発説のような話でした。このあたりが現代の歴史研究界の大勢なのでしょうか。はなはだ残念です。
★ 怨恨説を斬る!
★ 発作的犯行説を斬る!
★ 偶発説を斬る!
出演していたタレントは「犯行の動機が現代と同じです!」と感心していましたが、当時の武将を現代人が理解できる姿に勝手に引き摺り下ろしてみているだけなのです。当時の武将たちが聞いたら、さぞ悔しいことだろうと思います。
★ 本能寺の変は三面記事?!
唯一『明智軍記』には書かれていない話は信長の小姓「彌介」の話でした。
本能寺の変から唯一生き残った小姓「彌介」は拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』では重要な証人でした。彼の証言が本能寺の変の本当の姿を指し示していたのです。本能寺の変とはそもそも信長による家康討ちだったと。
そして、私の推理では彌介は秀吉によって抹殺されたのです。その裏付けがどのようなものであるかは拙著をお読みください。
加来耕三氏は国外に脱出したとおっしゃっていましたが、それはあり得ないと思います。何故ならば彼が人の目に触れたら大騒ぎになります。彼が信長に会うためにイエズス会宣教師と一緒に堺から京都へ向かったときには沿道に人が溢れて大変な騒ぎになったとフロイスの報告などに書かれていますので。当時の日本人にとってアフリカ人の彌介は驚嘆すべき存在だったのです。
彼が国内を移動して人の目に触れて大騒ぎになったら何らかの記録に残ったでしょう。現に太田牛一は『信長公記』に、松平家忠は『家忠日記』に彼と会った際の驚きを書き残しています。
そして決定的なことは彼のことを本能寺の変の四ヵ月後に報告書にかなり詳しく書いたイエズス会宣教師フロイスが後年まとめた『日本史』には全く何も彼について書かなかったことです。何か公式記録である『日本史』には書けないことがあったと考えるべきなのです。
当時の政治状況を考えると私は彌介が秀吉に抹殺された蓋然性が極めて高いと推理して拙著に書きました。加来氏は無事国外へ脱出したと楽天的に考えておられますが、その根拠は何なのでしょうか?「歴史が楽しく学べるワイドショー」というのがこの番組のキャッチフレーズのようですので、やはり楽しく明るい話でまとめねばならないのでしょうか。
この番組で私が唯一うれしかったのは光秀首塚を守る和菓子屋「餅寅」さんのそれこそ明るく元気なおかみさんが登場したことです。この六月には念願の京町屋の宿「白川庵」に家族で宿泊します。餅寅さん、がんばってください。
★ 餅寅さんの挑戦(京町屋の宿と光秀饅頭)
>>>BS・TBS「THEナンバー2 明智光秀」を斬る!
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>>>本能寺の変 四二七年目の真実
【拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』批判への反論シリーズ】
1.藤本正行氏「光秀の子孫が唱える奇説」を斬る!
2.鈴木眞哉氏『戦国「常識・非常識」大論争!』を斬る!
3.鈴木眞哉氏『戦国「常識・非常識」大論争!』を斬る!(続き)
4.鈴木眞哉氏『戦国「常識・非常識」大論争!』を斬る!(続きの続き)
5.信長は謀略で殺されたのだ:本能寺の変・偶発説を嗤う
6.信長は謀略で殺されたのだ:本能寺の変・偶発説を嗤う(続き)
7.信長は謀略で殺されたのだ:本能寺の変・偶発説を嗤う(完結編)
★ 前回はこれです
要は歴史研究では悪書の極みとされる『明智軍記』の記事が未だに堂々と史実として扱われているのです。
解説の加来耕三氏は謀反の動機を下記の3つの事柄をあげて、その結果として光秀は正常な判断ができない状況に陥っていたと説明されました。
光秀は武田攻めの際、信長から欄干に頭をぶつけられて折檻された
光秀は近江・丹波の領地を召し上げられた
秀吉の援軍へ行けと命令されて秀吉の格下にされた
このいずれも『明智軍記』の創作したお話に過ぎないのです。
そして、結論として動機は怨恨説のような発作説のような偶発説のような話でした。このあたりが現代の歴史研究界の大勢なのでしょうか。はなはだ残念です。
★ 怨恨説を斬る!
★ 発作的犯行説を斬る!
★ 偶発説を斬る!
出演していたタレントは「犯行の動機が現代と同じです!」と感心していましたが、当時の武将を現代人が理解できる姿に勝手に引き摺り下ろしてみているだけなのです。当時の武将たちが聞いたら、さぞ悔しいことだろうと思います。
★ 本能寺の変は三面記事?!
唯一『明智軍記』には書かれていない話は信長の小姓「彌介」の話でした。
本能寺の変から唯一生き残った小姓「彌介」は拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』では重要な証人でした。彼の証言が本能寺の変の本当の姿を指し示していたのです。本能寺の変とはそもそも信長による家康討ちだったと。
そして、私の推理では彌介は秀吉によって抹殺されたのです。その裏付けがどのようなものであるかは拙著をお読みください。
加来耕三氏は国外に脱出したとおっしゃっていましたが、それはあり得ないと思います。何故ならば彼が人の目に触れたら大騒ぎになります。彼が信長に会うためにイエズス会宣教師と一緒に堺から京都へ向かったときには沿道に人が溢れて大変な騒ぎになったとフロイスの報告などに書かれていますので。当時の日本人にとってアフリカ人の彌介は驚嘆すべき存在だったのです。
彼が国内を移動して人の目に触れて大騒ぎになったら何らかの記録に残ったでしょう。現に太田牛一は『信長公記』に、松平家忠は『家忠日記』に彼と会った際の驚きを書き残しています。
そして決定的なことは彼のことを本能寺の変の四ヵ月後に報告書にかなり詳しく書いたイエズス会宣教師フロイスが後年まとめた『日本史』には全く何も彼について書かなかったことです。何か公式記録である『日本史』には書けないことがあったと考えるべきなのです。
当時の政治状況を考えると私は彌介が秀吉に抹殺された蓋然性が極めて高いと推理して拙著に書きました。加来氏は無事国外へ脱出したと楽天的に考えておられますが、その根拠は何なのでしょうか?「歴史が楽しく学べるワイドショー」というのがこの番組のキャッチフレーズのようですので、やはり楽しく明るい話でまとめねばならないのでしょうか。
この番組で私が唯一うれしかったのは光秀首塚を守る和菓子屋「餅寅」さんのそれこそ明るく元気なおかみさんが登場したことです。この六月には念願の京町屋の宿「白川庵」に家族で宿泊します。餅寅さん、がんばってください。
★ 餅寅さんの挑戦(京町屋の宿と光秀饅頭)
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【拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』批判への反論シリーズ】
1.藤本正行氏「光秀の子孫が唱える奇説」を斬る!
2.鈴木眞哉氏『戦国「常識・非常識」大論争!』を斬る!
3.鈴木眞哉氏『戦国「常識・非常識」大論争!』を斬る!(続き)
4.鈴木眞哉氏『戦国「常識・非常識」大論争!』を斬る!(続きの続き)
5.信長は謀略で殺されたのだ:本能寺の変・偶発説を嗤う
6.信長は謀略で殺されたのだ:本能寺の変・偶発説を嗤う(続き)
7.信長は謀略で殺されたのだ:本能寺の変・偶発説を嗤う(完結編)
明智さんは著作があるとのことなので、今度読ませていただきます。乱文失礼致しました。これからも応援しています。
1年半で本ブログにかなり書き溜めました。左上の「天下布文ブログのご案内」から目次を辿っていただくとストーリーが理解しやすいかと思います。
本ブログで説明していることは拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』に凝縮した私の研究成果の補足・拡張説明ですので、是非拙著をお読みいただきたいと思います。
明智光秀像がいかに歪められたもので、その元を作ったのは羽柴秀吉だということがご理解いただけると思います。
先ほど、こちらのブログと法丸様のブログとを4日かかって読み切りました。本当に楽しく読ませて頂きました。ありがとうございました。今、私は海外に住んでおりますので、すぐに御書を読むことはできませんが、帰国後すぐにでもと思っています。
私は岐阜市の出身で子供の頃から信長については興味を持っておりましたが、これがどれほど通説まみれであったかを痛感すると同時に(痛感するほどおもしろいわけですが)、研究するとはどういうことであるかを明智様の捜査プロセスから勉強させていただきました。「徹底」「客観」というのは、つまりこういうことなのだと。学生の頃、一時研究者を志したことがあるのですが、やはりそちらへ進まなくて良かったです。これほど緻密に史料に当たることは、私にはできそうにありません(笑)。
私はまだ明智様の研究に触れただけですので、気の利いた疑問が湧くというところまでいっておりませんが、読んでいて思い出したことがあります。私が大変好きな時代小説家の池波正太郎氏が、時代小説を書くということは、史実の行間を想像力豊かに埋めることだとおっしゃっていました。あるかもしれない、ないとは言えない、いかにもありそうで、しかも登場人物をよく活かすこしらえものをすることが小説家だと。つまり、昔の時代小説である軍記物が現代の歴史研究家の目すらくらませているなら、その作家にとってはきっと「してやったり」だろうな、ということです。
また現代では、本能寺の明智光秀と同じく松の廊下の浅野内匠頭も、ともすればちょっと精神がアレになってしまって突発的に大事を起こしたと片付けられてしまいがちだけれど、そんなはずは絶対に無いともおっしゃられていました。一国の主として一族、家臣の全てに対する重い責任と引き換えにする理由が必ずそこにあり、現代人が現代人のままの心情で読み解けるはずのないものだと。例えば、その後の四十七士の討ち入りも、主君の恨みを晴らすためだけだと思えてしまうの現代人の誤りであり、幕府に対する怒りの理解なくして蔵之介の真意は理解できないと言われていました。
作り話と作らせ話、聞いた話と見た話、その史料的信憑性に対するチェックが甘いなど、信じられません。とはいえ、その緊張感の無さが思い込みを肯定し、現代人と戦国不精の感性を区別できず、結果歴史をミスリードしたのであれば仕方ないのかもしれませんが。現代人がメディアに踊らされているということが問題視されていますが、その道のプロである歴史家が過去のメディアに踊らされているというのは、読んでいて滑稽でした。もっとも、情報を選んだ上で能動的に踊らされているなら、それほどタチが悪いことはないです。
明智様の見解に対して、果たして論点の噛み合った反論がなされるのか、いささか疑問ですが(実証的な反論に対して、微妙に論点をずらして「常識的に考え難い」「自然に考えればこうなる」といったような再反論がされる論争を何本も読んだことがあるので。その”常識””自然”の出所が論点なんですがね)、ぜひ気の利いた反論がされることを願っています。
長くなってしまい申し訳ありません。これからの明智様の研究に期待しております。ありがとうございました。
ようやく出発点に立ったばかりだとあらためて腹をくくってがんばっていきたいと思います。
本当に皆様の一言が支えになっています。