先週の大河ドラマ「江」は妹・初の恋を実らせるために親の仇である秀吉の側室になることを茶々が決意していくプロセスが描かれていました。初が京極高次に恋をしたというのはもちろん脚本家の創作でしょう。
ただ、放送の中でひとつだけ私の主張と一致する大事な話が出てきました。
それは、夫の仇である秀吉の側室になった京極龍子が言った言葉です。
「京極の家が生き残るためにはこれしかなかった」
この龍子の思いは見事に生きて京極家は大名として秀吉・徳川の時代を生き残り、明治になって華族となっています。
恐らく現代人にとっては家(氏族)の存続を図るという目的意識ははなはだ希薄だと思います。私も本能寺の変の本格解明に取り掛かったときには全く意識していませんでした。研究を進めるうちに当時の武将たちの目的意識は「氏族存続」であると気付きました。それが真実解明につながっていったのです。
★ 真実への手がかり(明智光秀は氏族長)
★ 土岐氏を知らずして本能寺の変は!
★ 土岐一族のつどい
★ 戦国武将のゲーム理論『太平記』
5月16日放送のTBS「ザ・今夜はヒストリー」の中で歴史家・作家の加来耕三氏は光秀が小栗栖の竹薮で討たれたことについて次のように解説していました。
「光秀は坂本城に帰りついて一族と一緒に死のうと思っていたのでしょう」
この解説に納得した方が多かったと思うのですが、私の見解は全く違います。
「光秀は明智の家が生き残るためにこれしかないと謀反を起こした。坂本城へたどり着けばまだ勝ち残る策があるかもしれない。もし勝ち残れないのならば一族を逃して明智の家を何らかの形で生き残らせたい」
光秀は坂本城にたどり着けませんでしたが、この光秀の思いを坂本城にたどり着いた明智秀満が代わって果たしたと私はみています。イエズス会宣教師フロイスは「坂本城落城前日に多くの人が逃れた」と書いていますし、各地に明智一族の末裔と口伝された人々がいることで裏付けられます。京都、山口、香川、千葉と各地にバラバラに逃したのは危険分散のためだったのでしょう。坂本龍馬の先祖も高知に逃れた明智一族と伝えられています。京極家のように華々しくはありませんでしたが、光秀もその思いをなんとか生かすことができたわけです。
★ 坂本龍馬先祖の脱出ルート捜査(前編)
★ 坂本龍馬先祖の脱出ルート捜査(後編)
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【拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』批判への反論シリーズ】
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5.信長は謀略で殺されたのだ:本能寺の変・偶発説を嗤う
6.信長は謀略で殺されたのだ:本能寺の変・偶発説を嗤う(続き)
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「光秀は坂本城に帰りついて一族と一緒に死のうと思っていたのでしょう」
この解説に納得した方が多かったと思うのですが、私の見解は全く違います。
「光秀は明智の家が生き残るためにこれしかないと謀反を起こした。坂本城へたどり着けばまだ勝ち残る策があるかもしれない。もし勝ち残れないのならば一族を逃して明智の家を何らかの形で生き残らせたい」
光秀は坂本城にたどり着けませんでしたが、この光秀の思いを坂本城にたどり着いた明智秀満が代わって果たしたと私はみています。イエズス会宣教師フロイスは「坂本城落城前日に多くの人が逃れた」と書いていますし、各地に明智一族の末裔と口伝された人々がいることで裏付けられます。京都、山口、香川、千葉と各地にバラバラに逃したのは危険分散のためだったのでしょう。坂本龍馬の先祖も高知に逃れた明智一族と伝えられています。京極家のように華々しくはありませんでしたが、光秀もその思いをなんとか生かすことができたわけです。
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【拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』批判への反論シリーズ】
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その点は歴史研究者や歴史に詳しい方なら十分承知されていると思いますが、まだまだ一般層には浸透していないように思います。
戦国時代に「責任を取って切腹する」などというのは何の価値もありません。
明智先生が述べておられる通り、何としても生き延び、家を存続させることこそ最大の価値とされています。
江戸時代以降の切腹の概念を戦国にも当てはめて「武士らしい死に様」とか「潔さ」などと解釈することは、根本のから誤りですね。
僕は、勝龍寺城脱出の時点では、光秀はまだまだ再起の可能性は充分残されていたと思います。
「旗の色」一つで、オセロのように白黒が塗り換わる可能性は充分ありました。
山崎の合戦から坂本城落城までの史実は未だ解明されていないと思います。偶発説を前提とする方々にはどうでもよいことかもしれませんが、本当の本能寺の変を知りたい我々には解明しなければならない謎です。
これについて書かれた史料が少ないのが残念ですが、諦めずに追ってみたいと思います。光秀は最後まで家康の援軍を待っていたはずですので。