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本能寺の変 「明智憲三郎的世界 天下布文!」

『本能寺の変 431年目の真実』著者の公式ブログです。
通説・俗説・虚説に惑わされない「真実」の世界を探究します。

家康による穴山梅雪謀殺の新証拠

2014年01月09日 | 歴史捜査レポート
【2014年1月9日追記】
 駒澤大学のWebに『家忠日記』の原文が公開されていることをコメント欄の高村様投稿で教えていただきました。下記のページの中段にちょうど問題部分が抜粋されて「②本能寺の変」としてPDFで閲覧できるようになっています。
 ★ 駒澤大学「戦国武将の日記を読む」ページ
 これを見ると本文上部に「此方御(改行)人数雑(改行)兵共(改行)二百余(改行)うたせ候」と追記されています。
 高村様、ご教示ありがとうございました。
 なお、この文も含めた『家忠日記』の記述の解釈は拙著『本能寺の変 431年目の真実』(文芸社文庫、2013年12月発売)に記載しています。
 
【文庫】 本能寺の変 431年目の真実
明智 憲三郎
文芸社

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【2013年5月25日初稿 2013年5月27日画像追加】
 徳川家康の神君伊賀越えに同行し、途中で一揆に殺されたことになっている穴山梅雪。実は家康に切腹させられたことは拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』第10章「家康の謎の策動」に書きました。
 その証拠となった松平家忠(家康家臣)の書いた『家忠日記』から新たな証拠が見つかりました。
 天正十年六月四日の「穴山者腹切候」(穴山は切腹した)の記事の上に小さな字で下記の追記があることに気付いたのです。日記を活字に編集した編者が原文に小さな文字で追記されていた文章(おそらく行間に)を記事上部に書いたようです。通常、編者自身の注釈をこのような形で記すので、まさか家忠の原文とは思わずに見逃していました。
 「此方御人数、雑兵共二百餘うたせ候」(家康方の雑兵共二百人ばかりに討たせた)
 家康の伊賀越えには伊賀者190人が同行していましたので、「雑兵共二百餘」と人数が合致します。
 「梅雪は一揆に殺された」と書いた人物が何人かいますが、いずれも入手経路の判然としない間接情報です。松平家忠のように天正十年六月四日に岡崎に帰着したばかりの家康一行に、その当日、直接会って話を聞いた人物の証言に勝るものはありません。
 これで「家康による梅雪殺害」の蓋然性は限りなく高まりました。これでも梅雪は一揆に殺されたと定説にしがみつく研究者の方には是非その根拠史料の信憑性の再評価をお願いしたいと思います。「定説だから正しい」というのは原子力発電所の安全神話とまったく同じ構図です。本能寺の変研究の実態は驚くほど原子力ムラの構造に似ています

 『家忠日記』の六月四日記事のこの追記を見逃していたのは私の大失策ですが、これまでにこの記事に気付いた研究者がおそらく一人しかいないというのも本能寺の変研究の実態を現しています。一人気付いたと思われる研究者も「家康の軍勢も二百人討たれたということなので、神君伊賀越えはそれほど危険に満ちたものであった」と書いているので、この文章を定説にとらわれて逆の意味に解釈しています。この文は「雑兵共二百餘うたせ候」であり、「雑兵共二百餘うたれ候」ではないのです。
 どうやら、私が史上初めて、この記事を発見したと言ってよいようです。あれから431年もたってしまっていることが残念です。
 ★ 本能寺の変の定説は打破された

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 『本能寺の変 四二七年目の真実』のあらすじはこちらをご覧ください。
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明智 憲三郎
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12 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
穴山媒説謀殺のこと (渡辺勘治)
2013-05-26 02:24:15
私も氏のご意見に同感です。
家康は帰国後の行動を見ても、本能寺発生直後から甲斐信濃の旧武田領の強奪を考えていたことは明らかでありますし、梅雪の謀殺は甲斐への侵入を容易にするためにも必要不可欠の戦略だったと思量します。
とすれば、織田と徳川の定説に謳われているような盟友関係は疑わしくなり、秀吉の毛利氏攻略が風雲急を告げる中での家康の招待も、信長の真意が奈辺にあったのか
と思えてきますね。
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虚心坦懐に読む必要性 (明智憲三郎)
2013-05-27 10:41:05
 ありがとうございます。虚心坦懐に読めばそうわかるのですが、現代人はあまりに多くの「定説」を頭に埋め込まれていますので、なかなかそう素直になれないのが実情です。
 是非、拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』を虚心坦懐に読んで、歴史の真実に触れていただきたいものと思います。
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Unknown (浜路)
2013-06-03 03:07:45
これは家康が自分の人数(兵)に「伊賀の」雑兵200人あまりを討たせた、とも読めるのではないでしょうか。
ともあれ、原本を確認してみる事が必要だと思います。
似たようなケースとして、長篠の戦いで「信長が自軍の兵士をくぼ地に隠した」という事が、信長公記に堂々と書かれているにも関わらず、最近までほとんど触れられる事がなかったという事例もありますので。
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Unknown (明智憲三郎)
2013-06-04 10:35:16
 「此方御人数」と「雑兵共二百餘」が別物とみると「此方御人数」が主語となって動詞は「うたせ候」ではなく「うち候」と書くのがより自然な気がします。別物ではなく同一物なので文中には明示された主語がなく、家康が主語になって「うたせ候」と書いたのではないでしょうか。
 なお、もし、雑兵共二百を討ち取ったのであれば、それは家康方としては隠す必要のないお手柄話であり、由緒記や家譜にそのことが堂々と書かれて当然ですが、私の読む限りではその自慢話が書かれたものは見かけません。このことを裏付けとしてよいかと考えます。
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原文確認しました (高村)
2014-01-08 23:50:17
初めまして。この件気になったので駒澤大学がWebで公開している原文を確認しました。懸案の「此方御人数雑兵共二百余うたせ候」は、本文の上に配置されています。明智さんご記述の「記を活字に編集した編者が原文に小さな文字で追記されていた文章(おそらく行間に)を記事上部に書いたようです」は、ご確認の上訂正された方が宜しいかと思います。また、「余」は旧字体ではありませんでした。

私見ですが、この文を自然に解釈すると、「此方御人数」が能動物、「雑兵共二百余」が対象物で、動詞が「うたせ」で「討つ」の尊敬化を表わすかと思います(使役の意味もありますが、「人数」に「御」がついているので尊敬でよいかと)。「雑兵」「余」という曖昧な表記から考えると、帰着した者が「自分たちは道中で雑多な敵対者をかれこれ200名以上は討った」と伝えており、それを家忠が補記したのではないでしょうか。

それから、この時家康に随行した重臣たちを「雑兵共二百余」に含めるのかは疑問です。
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ご指摘ありがとうございます (明智憲三郎)
2014-01-09 05:59:38
 駒澤大学のWeb情報を確認いたしました。
 ご指摘の通り、文章上部にかかれており、「余」は旧字体ではありませんので、増刷の機会に修正いたします。
 文章の意味については、本に書いた通り、雑兵共二百余を討ったのであれば、その手柄話を自家の由緒書きに誰も書いていないことと矛盾すると考えます。
 
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失礼しました (明智憲三郎)
2014-01-09 08:53:11
 上記の回答文中で「本」と書いたのは、12月に新刊として出版した『本能寺の変 431年目の真実』(文芸社文庫)のことです。失礼いたしました。
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雑兵と伊賀者について (高村)
2014-01-10 00:33:05
雑兵を討ち取った逸話の存否は不勉強ながら把握していないのですが、この手柄話は飛び交う雑説の一つだった可能性が高いと考えました。家忠が誰かから聞いて書き留めたのは事実だったとして、日記ですから確証集めまではしていないのでしょう。感状の類も遺されていませんから、あくまで噂で事実ではなかったものと思います(雑兵共・二百余という曖昧さは雑説であれば納得できますし)。

また、伊賀者が200名ほど随行したという記録は1726(享保11)年成立の『伊賀者由緒書』以降に出てきたものである点、同時代史料としては甲賀に向けたものしか伝わっていない点などが『証言 本能寺の変』(藤田達生)で指摘されています。この考察に対してのご見解を、何れお手すきの折にでもお教えいただけますでしょうか。素人ゆえの愚問かも知れませんが、後学のためにも宜しくお願いいたします。
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藤田達生氏指摘への見解 (明智憲三郎)
2014-01-13 11:07:27
 藤田氏の指摘は①伊賀越えは危険な決死行ではなかった、②伊賀者二百人が随行したという話は創作である、です。
 ①については私も同じ見解です。
 ②については、次の二つの史料の記述からみて、藤田氏の指摘は決め付け過ぎと考えます。
1.三河物語(大久保彦左衛門著)
 伊賀の人々が家康への恩返しのために家康をお送りしたことが書かれている。
2、石川忠総留書
 家康に随行した重臣の一人として服部半蔵が書かれている。

 なお、藤田氏は随行者の家譜には伊賀越えの記述が少ないこと、伊賀に一次史料が伝来していないことを根拠にしていますが、この根拠は私の主張の根拠ともなります。つまり、伊賀越えにおいて随行者も伊賀者も記録に残したくないことがあったということです。
 本件についての全体像を拙著『本能寺の変 431年目の真実』に書いていますのでご覧ください。
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ご教示ありがとうございます (高村)
2014-01-14 02:31:08
お忙しいところ、ご丁寧なご回答ありがとうございます。『証言 本能寺の変』は関係がありそうな一次史料を全文掲出しており、本能寺研究の基礎になると思っておりました。この書籍を避けられたのは何か理由がおありだと思いつつ、ご意見を伺った次第です。

ご著は既に拝読しておりますが、信君に関する記述はBlogの方が多かったためこのエントリにコメントいたしました。

ちなみに、『三河物語』は『家忠日記』と比較して記述がずれている部分もあり、信憑性は低い部分が少なからず存在していると私自身は考えています。また推測ですが、西郷局の出身地から、服部正成の出自は遠江から東三河近辺ではないかと思っております。
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