狩江のお祭りと文化論

~愛媛県西予市明浜町狩江地区のお祭りや、四季折々の風景、暮らしを独自の観点からお伝えいたします~

仏像構造線とお祭りについて

2017-10-20 18:38:18 | 狩江の歴史をたずねて

       

今回は、狩浜のお祭りを学術的見地からアプローチしてまいります。

そもそも狩浜の秋祭りってなんでこうおもしろいのでしょう?と、地元の人は

そう思います。外部から結婚などで狩浜に移り住んだ人からは、また別の

感じ方があると思います。十人十色でいいと思います。だって、やっぱり

自分の生まれ育った土地のお祭りが一番ですから。

 

さて、いろいろな調査の結果から、私たちが住むこの狩浜は、地質学的な独自性を持ち、

文化・暮らし・歴史と非常に密接に関係していることがわかってきました。

現在、文化的景観調査も大詰めとなり、今まで知らなかったこともいっぱい出てきました。

それらを参考に、持論を交えてお祭りを考察したいと思います。

    題して、「それは偶然性と必然性の物語」。

その物語のキーワードとなるのが「仏像構造線」であります。

みなさん、この狩浜の土地に、仏像構造線という有名な断層が通っているって

知ってましたか?狩浜をほぼ東西に横断していますが、断層といっても、

熊本や神戸などのような直下型地震の元になるような活断層ではありません。

この仏像構造線が、今の狩浜の景観と、さらにお祭りに深く結びついているということです。

もしこの仏像構造線が狩浜を通っていなかったなら、現在の景観はもちろん、独特のこの

お祭りもありえなかったかもしれません(と思います)。

ええええ・・・、そうなの?まあ、私の持論ではありますが・・・。

では仏像構造線とは何?

この仏像構造線は、西は九州から東は関東まで日本を横断していて、異なる地質層の

境目だと思って下さい。

狩浜地区では上写真の、ほぼ中央あたりを東西に通っています。

この仏像構造線を境に、当地では北側では石灰石・チャート、溶岩、玄武岩が確認でき

南側では砂地のもろい四万十帯の地質に分かれています。

狩浜の石灰岩ははるか昔(2,3億年前)にハワイ近辺で生成され、プレートに乗って

大陸プレートとぶつかり、四国形成の際、付加帯として狩浜の大地の一部となりました。隆起した石灰岩は、

西の高山地区では石灰業として一時期を築き、石灰業を成すほどの産出がなかった狩浜地区では、

それを段々畑の石積みとして利用しました。たまたま地域の真ん中を通る仏像構造線北側に沿って

石灰岩層が形成され、その後の狩浜の、石灰石を利用した独自の段々畑景観を形作る重要な

要素となったのです。

そうです、もし仏像構造線がこの地を通っていなかったなら、石灰岩は産出していません。

このような狩浜の大地形成の「偶然性」は、石灰石の段々畑景観を生み出し、またそこに暮らす人々の生活や

文化にも大きな影響を与えてきたことは言うに及びません。

さて次に、この地は平地が狭いため、耕せる農地は限られてきました。その為、江戸時代に

吉田藩に年貢を納めるためには、裏山を開墾せざるを得なかったのです(藩が奨励しました)。

開墾された畑は、多くの労力時間を費やし、上へ上へと延び、やがて石垣作りの段々畑が出来てきました。

生きてゆくための、歴史の中での「必然性」です。

ところで、狩浜地区の段々畑の面積ってどのくらいあるか、想像できますか?

その規模なんと東京ドーム14個分に相当します。ええええ・・・、そんなに!

現在いまなお、往時の開墾面積(明治時代)と同じほどの耕地が存在しています。

すばらしい!先人の苦労が偲ばれます。

その堅固な石積みの段々畑は、ずっと地域の生業を支え続けました。

過酷であったろう農作業と同時に、耕地の保全開拓に先人たちは投資してきました。

このような自然環境のもと、暮らす人たちは互いに協力しあい、結びつきを深め

コツコツと地道に生きてゆくことは必然的な流れであったと思います。

そして年に一度のハレのお祭り。

過酷な労働から少しの間解放され、地域はおおいに祭りを楽しみました。

いろいろな練りに嗜好をこらし、自分たちが一番楽しいことを積み重ねてきました。

今以て伝統をきっちり守り続け、お祭りの火を絶やさないよう住民みんなが

協力しあえるのは、きっとこの狩浜気質があるからでしょう。

大地形成の偶然性から、歴史的必然性。そしてその上に成されてきた人間の営み。

大地は人を創り、育み、狩浜という独自の文化を持った完成品をつくりあげたのです。

わがふるさとは、世界にただ一つの大切な場所なのです・・・。

 

以上、ちょっと違う観点からお祭りを考えてみました。

ご意見をお聞かせ下さい。

 


春日神社の石積み

2017-10-18 17:45:14 | 狩江の歴史をたずねて

今度お祭りに春日神社へ参拝する折に、一度神社の石垣をご覧になって下さい。

写真のように、石灰岩の石積みです。そして左右の角は丸くなっています。

ちょっと写真では見えにくいですが、普通、神社仏閣の石垣の角は角度をつけています。

でもここは丸い!これが特徴!

この春日神社の裏手に仏像構造線が通っており、そこらから石灰石が採れます。

この石灰岩は2,3億年前にハワイ近辺で生成されたものです。

主にプランクトンやサンゴの死骸から成り立っています。

プレート移動により、年月かけてやってきて、狩浜のこの土地に隆起しました。

長い年月の物語があります。


プラタナスの木、90歳

2017-09-17 07:44:30 | 狩江の歴史をたずねて

今日9月17日、日曜日、台風13号が九州西南沖を東北に進行中。

四国には夕方にかけて暴風雨となり、狩江もその進路の真っ只中にあります。

今の時間は午前8時ですが、雲が西の方向へ早いスピードで通り過ぎています。

雨も窓を叩きつけるような強い雨脚となってきました。怖い・・・。

春日神社秋季大祭が、来月10月28日土曜日に行われる予定ですので

どうぞ、神様、地区を守って予定通りお祭りが開催されるようお祈りします。

 

さて、8月にはかりえ笑学校1周年記念行事がありました。

音楽祭、カフェ、食べ物コーナー、文化歴史関係の展示、写真展など

多種多彩の事業もいっしょに開催。

その中でひとつ、みなさんにお伝えしたいこと。

それは校庭のプラタナスの木が、90歳の誕生日を迎えたこと。

90年の歳月を経て、いまなお堂々と校庭の片隅に私たちを見守っています。

木のお医者さんも「まだまだ大丈夫」とのことです。

旧小学校を有効利用している所は、県内でも多くありません。

かりえ笑学校におけるいろいろな人々との交流は、これからの地区のあり様を

模索しているように感じられました。

 


四国せいよジオパーク 石灰窯編

2013-12-25 15:18:54 | 狩江の歴史をたずねて

しこくせいよジオパークに狩浜の段々畑が、ポイントとして認定されたことは

ご存知と思いますが、高山地区では、石灰業で栄えた産業文化遺産としての

石灰窯群が、そのポイントとして同じく認定されております。

写真は宮之浦 岩井地区の窯で、一番古いとされているものです。

日本でも非常に珍しいもので、文化的価値の高い遺構です。これらは

先人たちが汗を流して、郷土の産業を支え続けてきた証であるとともに

我々はこれら文化財を再度見直し、次世代につなげることが大切だと思います。


大塚高太郎氏について

2013-11-01 20:14:48 | 狩江の歴史をたずねて

狩浜浦庄屋大塚彦惣の長男で、安政6年(1859)に生まれた高太郎は

明治12年、各浦ごとに戸長役場が置かれた時、22歳の若さで戸長となる。

のち明治22年には、渡江・狩浜合併事務担当となる。「狩江村」という村名は

この高太郎が提案したものだそうである。

        

          

 

あれ・・・・・・っ、角が・・・・・・・

でも、治って出てきました。この間かなりインターバルあり・・・・・。


地名起源

2013-10-31 20:52:40 | 狩江の歴史をたずねて

さて、私たちの住んでいる渡江、狩浜という地名は一体どこからきたのでしょう?

「明浜こぼれ話」(久保高一著)によりますと、

①渡江   今から約400年以前の古文書に渡江と記録があるそうです。

狩江郷土読本では、昔は渡江から乗船し三津尾筋に上陸し、吉田へ渡ったが、渡し場

として知られた港だからこの名がついたのか・・・・。

あるいは、長老によると、渡というのは、古い意味では狭いことで、したがって

狭い入江だから渡江になったもので、大昔の名は内海と呼んでいたらしい・・・・。

(諸説あるようです・・・・・)

②狩浜   国学者原田時只の文書では、古くは雁浜(がんはま)と言い、やがて

カリバマと読み、次に狩浜と書くようになった・・・・、とのこと。

吉田のお殿様が狩りに来るので狩浜となったという説は、あまりぴったりしないようで

それは吉田藩領となる以前から、狩浜の文字が当てられていたからだそうです。


大元山春日神社

2013-10-27 20:44:06 | 狩江の歴史をたずねて

言い伝えによると、狩浜の春日神社は、7~800年以前の創建で

奈良の春日大明神を勧請(かんじょう=神仏の分霊を願い求め、迎えること)したと

伝えられています。

社殿は永禄年間に再興との記録があり、

本殿は寛保3年(1743)立間八幡社の新築の折、吉田藩主4代村重のお声がかりで

譲り受けたものだそうです。中殿、拝殿は慶応元年(1865)新築。後に昭和5年の

大修理という歴史があります。

近年、シロアリの被害が著しく、さすがに中殿あたりの床はひどいらしいです。

                            (資料:「明浜こぼれ話」 著者 久保高一)


渡江地区の宝モノ

2013-10-24 23:13:48 | 狩江の歴史をたずねて

今日10月25日は、渡江賀茂神社の秋祭り。

あいにく朝から台風の影響で雨模様。今朝午前2時ころには

防災無線から、大雨警戒警報放送があってびっくりしました!

只今午前10時すぎですが、外は雨が強く降ってガラス戸に雨が叩きつけられています。

午後からは渡江の神輿が繰り出し、賑やかとなる予定なのですが・・・・。

さて、

写真は渡江地区の公民館に保管されている、明治初期の渡江の地図です。

当時の渡江の庄屋さんが作ったもので、その後代々、区長さんが保管してきました。

約100年間の地区関連の書物とともに受け継がれてきました。

宅地、農地、道、などが色分けされ大変見易くなっています。

当時の暮らしが想像できる貴重な文化財です。


オハケオロシまで、あと27日

2012-09-28 21:49:34 | 狩江の歴史をたずねて

「ノルディックウオーク in 狩江」 の開催について

明日、午後1時より上記のように、ノルディックウオークの狩江段々畑の散策が開催

されます。趣旨「西予市明浜町狩浜地区は、白い石積みの段々畑と宇和海の名称で

文化庁の農林水産業に関する文化的景観二次調査畑地景観の部において、

重要地域とされています(!)。石灰石はまさに地域にとっては白い宝の石。

およそ350年にわたって先人がコツコツと積み上げてできた段々畑は、里海の青と

調和して、四季を通じて美しい風景を作り上げ、集落の自慢の一つです。

この段々畑や宇和海、眼下の家並みを楽しみながら、ノルディックウオークで

気持ちのいい秋の日を満喫しましょう。熟れはじめたミカンや、底抜けに明るい

浜民の笑顔が心も体もリフレッシュしてくれます・・・・」

いかがです?歩いてみませんか?

 

 

 


ある謎の冠

2010-02-08 21:50:24 | 狩江の歴史をたずねて
前回は蛸が御神体を引き上げた話しでしたが、今度はある謎の冠のはなし。

これは地元のある網元に残るちょっとミステリーで興味をそそる実話。
 
戦後の昭和、まだ日本が混乱状態の時代、そこの網は普段どおり
今で言う”恋の浦”あたりで、いわし漁をしていて、網を曳いていました。
その頃はまさしく豊饒の宇和海と言われるように、群れになって沖から岸へと
魚の大群がやってきたそうです。それを追うようにまぐろなどの大型のウヲも
やってきていました。
その日、網の中になぜか見かけないものが混じっていて、引き上げると
なんと手のひらに収まるくらいの冠ではありませんか!
金属製であったために、それは緑青が付き、輝きは薄れていましたが
形は頭に載せるほどの、王族の女性が被るようなりっぱな冠でした。
日本史において、女性がそんな冠をつけたような姿はあまりありません。
一見して、これは大陸あたりの品物では?とみんな思ったようです。
精巧なかざりや細工も見受けられ、それは持ち帰られて、しばらくその
網元の家に保管されておりました。
その後、これはきっと何か大変貴重な史物ではないかということで
ある学校の先生に鑑定を兼ねてあずけられたそうです。
でも・・・・その後、その冠の所在がわからなくなってしまったそうです。

現在関係者の話によると、当時そのようなものにどれだけの価値があるかが
全く認知不足だったそうで、その後の所在を含めた追跡もしなかったそうです。
大変悔やんでおられました。今ではすぐ写真などに記録できますが、
話しをきいて残念でなりません・・・・・。
むかしむかし、この宇和海にそんな冠を積んだ舟が往来し、きっと嵐にあって
海の底深く沈んでいたのでしょう、いったいどんな人物がその冠を被っていたので
しょうか・・・・・、ロマンをそそります。