前回、不思議な形をした岩石がありましたので
再びジオパーク散策「白亜紀の海底地質を歩く、砂と泥の太古の謎」と
勝手に銘打って歩いたのであります。
またまた不思議なものが目の前に現れる~!
なんだ、これ?
誰か知っている方はご一報を。
前回、不思議な形をした岩石がありましたので
再びジオパーク散策「白亜紀の海底地質を歩く、砂と泥の太古の謎」と
勝手に銘打って歩いたのであります。
またまた不思議なものが目の前に現れる~!
なんだ、これ?
誰か知っている方はご一報を。
小さいころにはよく海岸歩きました。
色とりどりの石や磯の生物、暖かな海水の感触、巻貝、うちあげられた木やごみ、
クラゲ、・・・。探検心、遊び心、すべてが魅力いっぱいでした。今でも
歩くとそんなワクワク感が広がってきます。
そんなわけで、かなりご無沙汰していた(海辺に住む者の言い訳じゃないですが)
海岸に不思議な形跡発見!
この跡はなんなんでしょう?
今、化石の本なんかを読んでいますが、ノジュールの生痕跡ではないか?
などと素人考えで思っております。ただいま市のジオパーク学芸員さんに
調べてもらっております。
通称「島の元」の海岸付近にはこんな地質が露頭しています。
砂岩と泥岩が交互に積み重なってできたようです。
このあたりは四万十層と呼ばれていて、白亜紀に形成された地質です。
タービダイトと呼ばれ、大雨などで川の水の力で運ばれた砂や泥が海底に
堆積したもの。その際にしましまの模様ができます。
海岸を歩くといろいろなものに出くわします。おもしろいです。
以前の記事で、狩浜の地質についてちょっとお話したことがありますが、狩浜の裏山(権現山を中心とする北側の山々を指す)は、遠くジュラ紀と一部白亜紀の時代に形成されたものだそうです。そのあたりは中生代って呼ばれて、
ざっくり言って約2億年から1億年前での話。恐竜が闊歩するそんな時代です。
ではその時代、どんな姿だったかというと、下(↓)の写真の赤矢印の部分です。
(*この写真は、城川地質館に展示されている模型です。写真の掲載許可を頂いております)
今の中国大陸~ベトナムあたりでしょうか。これは城川の黒瀬川構造体の位置ですが、わが狩浜もこのあたりに
あったようです。この時代にはイザナギプレートというプレートがこのあたりを移動していました。
イザナギプレートは沈み込みによって現在は姿もありませんが、はるか昔に太平洋を南から移動し、その堆積物が
海溝付近で破壊、変形を繰り返し大陸に付加されたものが、狩浜のチャートや石灰岩なのです。すなわち
狩浜の地質の原点です。
やがてそれらは大陸から切り離され、移動して日本の原型を形作ってゆきます。
みなさん突然ですが、今回は狩浜の地質(大地のなりたち)についてちょっと薄学ながら話してみたいと思います。
*
写真(↓)のように私たちが暮らす狩浜は、集落の裏側(=北側ですが)に急峻な山々が、南側には青い宇和海が広がる典型的四国西南部の地形です。
そんな南予の典型的風景なんですが、この風景の中には長~い地球の営みが隠されています。知れば、おおおっ!ていうような大地の歴史が詰まっています。そんなわたしたちの狩浜と、地球の大地の歴史についての話。
*
さて、まず狩浜を知るキーワードが仏像構造線。
●参考 https://ja.wikipedia.org/wiki/仏像構造線
狩浜の大地は、集落の中央を東西に通る仏像構造線という断層を境に地質がほぼ2つに分かれます。ひとつは写真(↑)の左側の山や陸地で、約2億5千万年~2億年前に形成されました。もうひとつは写真右側の陸や海あたりで、それ以後の白亜紀って時代に形成された地質です。
それぞれ秩父帯南帯、四万十帯と言われます。
これらの地層帯は、プレート移動ではるか南の方から運ばれてきた岩石が大陸とぶつかってできたり、浸食された土砂など堆積したものが海底から押し上げられ、付け加えられてできたりしたものです。(付加体と言います)。
四国の大地はこの繰り返しで出来ました。
狩浜はこの時代の違う地質がぶつかり合うちょうど境目にあるんですね!
具体的に説明しますと・・・・・
みかんの段畑がある山のあたりはごつごつとした硬いチャートや、狩浜の段畑の代名詞となっている石灰岩が多く見受けられます。このあたりはジュラ紀前期から後期という時代に形成されました。そう、ジュラシックパークのジュラですね!
これが秩父帯南帯。(ジュラ紀前期~後期)
さらにお伊勢山とか祇園山やショウジョ山から久保浦海岸あたりは、砂、泥系の割ともろい地質で出来ています。また海岸線の磯なども同じ地質で出来ており、砂岩や泥岩といった岩石が中心です。通称「島の元」の島も砂岩の塊と思われます。
これが四万十帯。(白亜紀前期~後期)
わたしたち狩浜人はこの2つの地質帯の上で生活してるんですね。
なんだかワクワクしません?ジェラ紀とか白亜紀とか。恐竜が闊歩していた頃なんです!
●参考資料https://ja.wikipedia.org/wiki/白亜紀
このように狩浜は、2つの違った地質がぶつかった場所に位置し、かつそれらの特徴を確認できるたいへん興味深い場所であります。
このような地殻変動によって出来上がった狩浜なんですが、その頃はまだ現在の中国と陸続きでした。やがて今の中国大陸から分離し、徐々に現在の日本列島の形に近づいてゆくのですが、現在の狩浜の景観になってゆくには、さらに隆起や陥没、浸食を繰り返しながらの長い時間が必要でした。その隆起の痕跡が下の写真です。
山が段々になっているのがわかりますか?海岸段丘といいます。徐々に隆起していったなごりです。
●参考 https://kotobank.jp/word/海岸段丘-42209
さらに隆起と浸食がもたらしたものが今の急峻な山です。仏像構造線を境に、比較的柔らかい四万十帯の地層は浸食されてみごとな断層崖の絶景を生み出しました。
このような景観は、外部からのビジターに感動を与え続けています。こんな景観はあまり見たことないそうです。
現在でも四国山地は隆起し、反対に豊後水道の海溝に大地がひっぱられているのだそうです。
このような狩浜の大地の成り立ちを想いながらふるさとの風景を眺めると、なんかへぇ~っ!て気持ちになりませんか?(ならない!おまえの解説がまずい!って声が聞こえる・・・)
もし何かの縁でこの狩浜の土地に立ち、海や山を眺めたとき、ちょっとジュラ紀とか白亜紀とか仏像構造線なんかを思い出していただければうれしい~!なぁと思います。
以上、素人地学の時間でした。ではまた! to be continued
皆さん、共同井戸ってご存知?
昭和27年に狩浜に簡易水道が敷かれる前、水源というものは堀井戸あるいは湧き水でした。本浦には11か所、枝浦で1か所の共同井戸が使われていました。
共同井戸のまわりには石が敷かれ、井戸端の空間がありました。
近隣の家以外にも、鉄管を引いて遠くの家々に水を送っていたそうです。
景観調査により、井戸は海岸線から20~50m以上はなれたあたりから
平地に広くみられ、現在も散水などにりようされている所もあります。
この共同井戸は重要文化的景観における重要構成要素のひとつです。
ひっそりと佇む井戸にしばし思いをはせてください。
現在、狩江の町をガイドしている「段々畑ガイドの会」の
メンバーが今回、その活動をもっと幅広くPRおよび
広報に生かしたいということで、約20分間のプロモーションビデオを
制作しました。
YouTubeでも見ることができます。https://youtu.be/79U8vLXvcOo
運動会のあった日、海ではアウトドアイベントがあったのです。
「愛媛西予 SEA TO SUMMIT2016」
カヤック10km(大早津~渡江ダケノ鼻)、自転車44km(三瓶~宇和)、登山(高森山)の
コースを突破するもの。
朝6時スタート、狩江お伊勢山付近で撮影しました。(↓)
およそ50艇以上のカヤック。海はべた凪のベストコンディションでした。
帰りは虹が見えました。
かりとりもさくの会段々畑ガイドでは、狩江を海から見てみよう!というコンセプトで
クルージングガイドを実施しております。
今日はまたまた大変な猛暑日で、「今日が一番暑かったのぅ?」という噂。
こんな日は、段々畑を歩くとなるととても大変。
そこで、海に出て、潮風に当たりながらのんびりちょっと異国情緒的、非日常的な海上経験をしてもらおうと
海コースを設定しております。時間はキャプテンTさんが融通を効かしてくれますので、釣りをしたいとか
ちょっとあそこへ行きたいとかなどは、優しく受けてくれます。
南仏もいいけど、スペインもいいけど、南太平洋もいいけど、日本再発見の旅、四国西予ジオパークの
狩江湾クルージングもきないや~~~~!
もしかして、クジラに出会うかも。もしかして、タコ焼き島に冒険上陸できるかも。
もしかして、ハマチが釣れるかも。もしかして、熱帯魚が現れるかも。
もしかして、サンゴが見られるかも。もしかして、人魚と会話できるかも・・・・?