民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

語り手のわたしと聞き手のあなたが
一緒の時間、空間を過ごす。まさに一期一会。

「語りの力と教育」 その8 高橋郁子

2014年07月25日 00時13分50秒 | 民話(語り)について
「語りの力と教育」その8 高橋郁子

第4節 「語り手の心」

 それでは、良い語り手とはどのように育っていくのだろうか。

「ずばぬけて豊かな伝承者が育っていくためには、
まず、昔話が語られ、聞いたという伝統的な環境の感化があった。
(略)家庭の環境としては、その家に抜群の語り手がいて、
その人から聞き告いだのが昔話の主流をなしている。
祖母から孫への伝承がもっとも多く、その次は母から子へ、祖父から孫へ、
父から子への順となっている(水沢4 P4」

 元来、昔話とは何のために語られていたか。
水沢氏は、古くは村に昔話の夜語りの場があったことや、村の子どもがお宮に集まって、
昔話のカタリコトをしたというのは大人がお宮で昔話を語った名残をとどめているのではないか
と指摘している(水沢4。また、かつては小正月のトリオイコヤのなかで、
村のカタリジサが子どもに昔話を語ったという事例も報告し、

「神に昔語りを語り献じて、予祝し感謝するという昔話の信仰的機能を知ることができる。
(水沢4 P5」と述べている。

 昔話は文化、信仰といった、生活のすべてを若い人たちに伝承していく場だったのかもしれない。
語りの場が変遷していってもその語りを伝える人々の気持ちは同じだった。

「好きだということが、やがて数多くの昔話を覚え、
一流のカタリバサやカタリジサとなることにつながっていく(略)人間、好きなことを語るとき、
もっともいきいきとしている。
(略)昔話を語りつづけているうちに気がサッパリして、
だんだん病気がなおってきたくらい好きだった。

 このように、研究者などにより、語りの場を失っていた昔話は、
研究対象として語りの場の中に蘇った。

 しかし、高齢者の手から離れていった昔話もあった。

「語りの力と教育」 その7 高橋郁子

2014年07月23日 00時47分26秒 | 民話(語り)について
 「語りの力と教育」 その7 高橋郁子

「蘇った語り」

 また、話を昔話に戻し、形を変えて戻ってきた昔話を検証したい。
昔話の古い形での語りは姿を消したものの、その記録は研究者達により残されていた。

 しかし、問題点があった。
「なぜならば、そこにはせいぜい素材が提示されているだけであって、それがどのような意味をもち、
どういう教育的効果があるかなどは、いっさい述べられていないからである。
(略)地域社会において理想的な社会科教育を実施するためには、ほかの場合と同じように、
この場合もまた、まっさきに地域社会そのものの調査、
すなわち郷土研究から出発しなければならなかったのである(桜井P19」

 水沢謙一氏はその時代の小学校長であり、昔話研究者の旗手となった。
水沢氏は当時の様子を次のように記している。

「いまは、村の老女などは、自分の話を聴いてくれる人を待つさびしき人が多く、
たずねていけば喜んで語ってくれるだろう。
話は幼い日の青空にも似て、純な思い出と微笑みにあふれている。
昔話をきかせてほしいと頼まれて怒る人はいない。
(略)何のために昔話を集めるのか、その採集の意義なり、研究の意義なりを、
しかつめらしくなくやわらかに話して理解してもらうことも大切だ。
それがまた、語り手が人生意気に感じて、積極的な姿勢で語ってくれるようになることを、
私は経験している。(水沢3 P273」

 また、地方自治体の高齢者の文集の編集に携わった経験者も次のように述べている。

「原稿にはならないけれどもそれに付随したり、あるいは全く関係のない話の中でも
わたしどもが教えられることが沢山ある。
それに始めは遠慮されて中々話もとぎれがちだが、次第に話に力が入り熱がこもり、
顔に生気さえ帯びてくることが常である。Y生(P151こつ」

 高齢者はよく「知識の宝庫」「知恵袋」と称されるが、相手がいなければ効力が発揮されない。
それどころか力が失せていくようにも思われる。

 語りは聞く者にも、語る者にも力を与えるものなのではないだろうか。

「語りの力と教育」 その6 高橋郁子

2014年07月21日 00時41分36秒 | 民話(語り)について
 「語りの力と教育」 その6 高橋郁子

「口を閉ざす語り手」

 昔話の場の変化を考察する前に、この章では家庭内で語りを行っていた
人々の心の変遷を考えてみたい。

「私のうちも五人の子供が皆出てしまい、孫もいません。淋しいことです。
たまに孫を連れて息子や娘が遊びにきますが、
たまに会うだけだから『いい顔』をしなければなりませんし、
孫のしつけなどにいいたいことがあっても言えないのが正直のところです。/斉藤清吉(こつP63」

 これは地方自治体がまとめた、高齢者の文集の中の一説である。
高齢者は、それまで当たり前であった幼い者へのしつけですら、
「いいおじいちゃん」であるために躊躇しているのである。

 かつて、語りの場が提供されていた時代はどうであったか。

「幼いときの聞き好き、語り上手が、やがて長じて語り好き、
語り上手のムカシカタリのカタリジサやカタリバサになるのだった。
どの伝承者も子どものときには語り手からムカシを掘り起こす驚くべき聞き手であった。(水沢4p8」

 昔話を上手に聞く子どもは、素晴らしい伝承者に育つのである。
よい話も悪い話もたくさん聞き、取捨選択をして子どもの感性は育っていくのである。
高齢者は「いい高齢者」「悪い高齢者」などと考えて子供たちに気兼ねをする必要などなかった。

「積極的に自分の聞きたい話を、かんたんなヒントで語り手の記憶を掘り起こしていく。
記憶の底に埋没している光ったムカシを、忘却の深層部に眠っているムカシを引き出していく。
(中略)自分一人では、そのすべてを思い出すことはできなかったであろう。
引き出し役の聞き手が必要だった。
聞き手しだいによるのだ。(水沢4 p8」

 これは、昔話の研究家として膨大な資料を収集した水沢謙一氏の言葉である。
研究家と、幼い子どもの聞き取り方には大きな違いがあるだろう。

 しかし水沢氏は、昔話の伝承者が子ども時代には「驚くべき聞き手であった」と評している。
高齢者は幼い子どものあどけない表情や無邪気な質問を受けることによって、
「忘却の深層部に眠っている」記憶を引き出すこともあったのだ。

 高齢者と若年層の者が語りあう重要性はここにある。

「語りの力と教育」 その5 高橋郁子

2014年07月19日 00時23分38秒 | 民話(語り)について
 「語りの力と教育」 その5 高橋郁子

「消えた昔話」

 昭和44年に村田潤三郎氏が行ったインタビュー内で、テレビが普及した影響で、
瞽女宿に近所の人たちが誰も集まらなくなったと瞽女が嘆いている場面がある。

 住宅事情の変化や、テレビなどの娯楽が増すといった、生活環境の変化により、
昔話の古い形での語りは消えていった。

「現在は、もう昔話伝承の糸がきれかかっている。
村や家や小学校の生活のなかで、昔話の語りの場を失ってしまったかに見える。
昔話は口で語り、耳で聞くというところが昔話の生命で、そこに人間的なふれあいもある。
(略)そういう耳の昔話が、今は目の昔話に変わっていくときでもある。

 つまり、言葉の昔話が文字の昔話におきかえられていく。
しかし、その独自な語りの形式や語り口は消えていく。(新潟14P」

 昔話の衰退は、高齢者の役割が減ることにもなる。
語るべきものを語れなくなった高齢者は、家庭内での地位もそれによって
低下していたのではないだろうか。
そして、語りの場を失うことにより、地域社会の文化の伝承も途切れ始める。

「昔ばなしの母胎である地域社会の生活文化というものは、(略)きわめて日常的なものである。
それはまた、ひとつの世代からつぎの世代へと、
村人全体によって構成される共同体が集団的にゆずり渡してゆくものである(桜井P21」

 昔話を語る場、それは生活文化を伝承する場でもあった。
その場を失うことにより、地域社会という共同体にも陰りが見え始めた。

 しかし、「昔話」は新たな文化の「素材」となって、意外な場所に姿を現すことになる。

「語りの力と教育」 その4 高橋郁子

2014年07月17日 00時25分08秒 | 民話(語り)について
 「語りの力と教育」 その4 高橋郁子

「昔話を語った人々」

 水沢謙一氏によると昔話の語られる時期は、
秋の収穫の終わった祝いの秋餅の頃から冬の夜の夜なべ仕事の時に最も語られていたという。
ハルガタリといわれる正月の語りは1年で最も多く語られる機会であったという
(水沢1 家庭で語られる昔話には、子ども時代の家族の思い出とともに人の胸に刻まれる。)

「中静さ(瞽女の名)は、母親の昔話をきちんと覚えており、その昔話を口にすると涙していた。
金子さは、中静さよりたくさんの昔話を聞かされたらしい。
つぎからつぎに話しているうちに、やはり涙を流した。
四歳、三歳で光を失った二人にとって、あたたかい肉親の思いやり、
それにもまして母親から聞かされる昔話は最大のよろこびであったろう(村田P78」

「(笠原政雄さんは)お母さんから聞いた昔話を語っていると、
それがお母さんの思い出につながって、涙ぐまれたこともしばしばであった。
(略)お母さんが冬の夜なべ仕事のかたわら、子供たちはいろりの火にあたりながら聞いた。
大きな子供はお母さんの手伝いをしながら聞いていたし、小さな子供はやがて眠ってしまう。

 笠原さんは、子供の親となり子供の顔を見るに及んで、
しぜん、昔話を思い出して語るようになったという。

 このように、昔話には温かい思い出が寄り添い、
自分がその年齢に達すると自らも語らずにはおれなかった。

 また、昔話は家庭以外にも語られる場所があり、
ザトウ、ゴゼ、富山の薬屋、旅アキンド、旅職人、山伏、
旅の風来坊など家族以外のものからも聞くことがあった。
(水沢2 中でも瞽女の存在は重要であった。)

「五体満足な芸人に比べ、ごぜさに対する同情は、山深い村々の人たちにとって、
ごぜさを世話することが、
ご先祖様への供養になるとも考えられていた。(村田P43」

 瞽女が宿泊し、唄を披露する家を瞽女宿といい、そこでの語りもあった。
瞽女に対し、人々はどのような思いを抱いていたのであろうか。
村田潤三郎氏が収集した瞽女日記から考えてみる。

「ごぜさんの長い間の苦労に心うたれ、眼に熱いものがこみあげてくるのを禁じえない次第です。
細くなった手で三味線をひく姿、一生懸命に唄う姿に見とれてしまうのです。
ごぜさんを見るたびに、私たちは幸福すぎて自分のしなければならないことも、
しないでいることを恥じます。(刈羽村・藤田峯樹)(村田P79」

「ごぜさんを泊めるようになって、ごぜさんの立居振舞、人に対する接し方をみて、
長岡ごぜさんの本当のすばらしさがわかった。
ごぜさんの人柄のよさ、私に無言で何かを教えてくれるものがある。
ご飯のときでも、一つぶのごはんも落とさない。
おかずも残すようなことは決してせず、おいしい、おいしいと言って食べてくれる。
孫たちは小学校三年生と一年生だが、この二人に生きた教育になっている。(塩沢町・須藤寅一)

 瞽女唄は娯楽の少ない時代には貴重なものであったのだが、意外にも瞽女の存在は、
芸能を楽しむためだけではなく、子供たちへの教育効果や、

 世話をする人が人としての優しさを再認識するということにも貢献していたのである。