民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

語り手のわたしと聞き手のあなたが
一緒の時間、空間を過ごす。まさに一期一会。

「昔話を幼い子に語る」 藤田 浩子 その1

2013年10月12日 00時10分08秒 | 民話(語り)について
 「子供と読書」 5/6月号 393号 2012年4月発行
 特集 日本の昔話 語ること、伝えること

 「昔話を幼い子に語る」藤田 浩子 その1

 <畑の小父さんに聞いた昔話>

 私は子どもの頃、隣の畑を耕しにくる小父さんに昔話を聞きました。
小父さんは小学生の私に語ってくれるときには、
「むかぁし まずあったと。爺様と婆様がいてなぁ・・・」
と、語り始めるのですが、八歳下の赤ん坊だった妹を連れているときには、
妹を喜ばせるような話し方をしてくれました。

 たとえば、一寸法師なら、いきなりお椀の舟に乗っての川下りです。
小父さんは妹を膝に乗せて
「ゆうらり ゆうらり ゆらりんこ」
と、優しく揺らしたかと思うと、
「ときどき大きな波がきて、ざんぶり ざんぶり ざぁんぶりこ」
と、膝の上の妹を右膝から左膝に大げさに移したりして遊ばせてくれました。
膝を行き来するたびに、妹はきゃっきゃと喜びます。

 桃太郎を語るときには、膝に乗せた妹を手を取ってお団子をまるめるしぐさをし、
「きびだんご、きびだんご にっぽんいちの きびだんご ころころまるめて きびだんご」
と、歌いながら、きびだんごを作ります。
妹が喜べば、十個でも二十個でも作るのです。

 その後、犬が来て
「桃太郎さん、こっしゃつけてるの、なぁんだン?」
と、聞き、桃太郎が、
「日本一のきびだんご」と、応えます。
「ひとつくんにゃ、供すっから」
と、犬が言えば、
「したれば、一緒に食うナイ」
と、言って、袋からきびだんごを出すまねをし、小父さんも妹も私もあむあむあむと、食べました。

 次に猿が来て、雉子が来て、そのたびに、
「桃太郎さん、こっしゃつけてるの、なぁんだン?」
と、聞き、今度は私と妹が、
「日本一のきびだんご」と、応えます。
「ひとつくんにゃ、供すっから」
「したれば、一緒に食うナイ」
と、言って、袋からきびだんごを出すと、みんなで一緒にあむあむあむと、食べるのです。

 「ほおでな、桃太郎は犬と猿と雉子と一緒に鬼退治に行ったと」
で、おしまいです。


「語りは支えあい空間」 末吉 正子

2013年03月04日 00時02分24秒 | 民話(語り)について
 「語りは支えあい空間」 末吉 正子 2005年 ネットより

「語り」の空間は、語り手がいて聞き手がいて、お話のスピリッツを媒介として、
見えない糸でつながれ、ひととき、同じ思いを共有する優しい世界です。

 語り手の「伝えたいおもい」に対して、聞き手の「うん」といううなずきがあり、
支えがあってこそ成立する空間なのです。

 ですから心のバリアーを破って、互いを受け入れあうという最初の段階をクリアーしなければ、
お話の真髄を共有する喜びも生まれません。

 語り手の側にも、聞き手の側にも、「つながりたい」という深い思いがあり、願いがあり、
語りに込められた内容に対する聞き手の共感があり、その共感を語り手が受けとめ、
また投げ返す、という目には見えない糸のつながりに支えられて、
それぞれの「語り」が「語り」として成就していくのです。

 語りの空間はまさに支えあい空間なのです。

 ときどき、すばらしい聞き手に出会います。
瞳があたたかくて、微笑みもあたたかくて、
お話をすっぽりまるごと全身で楽しんでくださっていることがわかる、
神さまみたいな聞き手に出会うことがあります。

 そういう聞き手のオーラを感じると、語り手のオーラも呼応して、
さらに多くの聞き手のオーラと呼応し始めます。
まさに相乗作用です。

 私たち語り手はいつだって、緊張とリラックスのはざまで揺れています。
語る前、聞き手が受け入れてくれるかどうか、心配で息もできないくらいのときもあります。
でもこんな嬉しい出会いの機会に感謝して、語りの一瞬一瞬をおもいきり愉しみましょう。
語り終えたとき、聞き手とつながりあえたかどうかを自分にたずねてみましょう。

 そして、「よい語り手」をめざす皆さん、「よい聞き手」であることも同時にめざしていきませんか?
聞き終えたとき、語り手の命の吹き込まれた「ことば」をしっかり受け止めることができたか、
自分にたずねてみましょう。

 地球上で、いろいろと大変な事ばかり続きます。
こんな時代だからこそ、「ことば」で伝える「語り」ワールドは、
ますますその重要性を増していくことでしょう。
足を引っ張りあったり、傷口を舐めあったりすることよりも大切なことがあるのです。
互いに心をひらき、認めあい、「つながりたい」と切に願いつつ、
一人一人が豊かな語り手であり、聞き手であることをめざしましょう。

「民話の心」 群馬県での講演  持谷 靖子

2013年01月12日 00時57分29秒 | 民話(語り)について
 「民話の心」 群馬県での講演  持谷 靖子 ネットより 

 それから、民話。「昔々」で、始まりました。
で、最後に変なことを言ったでしょう。
いちが酒買って、まんがひん飲んだとかって。
こういうふうに民話は形式があるんですね。

 ばあさんがよく言っていました。
「みんなは俳句だ、短歌なんだとやっているけど、民話だってちやんと規則があるんだぞ。
いいか。初めの言葉、終わりの言葉」なんて、言ってね。
全国、全部違いますけどね。

 儀式もあるんですよ、
最初の「ほんとのこったか、うそのこったか、しんねえけど、ほんとのこととして聞かあさい」
なんて言葉が、それぞれの言葉で、ちゃんとお国自慢で。
「あったごんだか、なかったごんだか、しんねえが、ほんとのごんだと思って聞くばならねえぞよ」
なんていうところを聞いたことがあります。
うちのばあさんは、今言った言葉ですね。それで終わりと初めの言葉があったと。

 それから大切なのは、「私は相づちを打たねば、話はしねえ」
「ばあちゃん、話しろ」
「おまえ、相づち打てるんか」
「相づち打つから、昔話してくれ」。
「昔々って、子どもはよく言ったもんだ」って、そのばあさんが言っていました。

「ばあさん、民話を語って」なんて、言ったら、「民話って何だい」なんて言われたんですけど、
最初のころね。「昔」って言って。
「昔語るけど、相づち打てるか」と、「打つ、打つ」って、子どもは言ってね。

 それで、群馬の北のほうじゃあ、私の住んでいるみなかみ町では、
「昔々あったんだと」「ふーん」「ふんとこしょ」「ふーん」「ふんとこしょ」。両方ですね。
それで「ふんとこしょ」が消えると、「なんだ、相づち打てねえから、眠っちまったか」って、
ばあさまが民話はもうそれでおしまい。

 片品という尾瀬のふもとの、あそこの村へ聞きにいきましたら、
「ふんとこしょ、ふんとこしょ」って、こう言っているんですね。
相づち、必ず打った。素晴らしいって、私、そのとき思いました

 相づちを打たない人が非常に多くなって、「どうしたの」って言ったら、
「関係ないから」なんて言う人もいますしね、いろいろなんですけれども。
相づちを打たなければ、人間関係のコミュニケーションが取れない。
コミュニケーションがすごく取りづらくなった。

 昔は家の中でも家族が、子どもが「話しろ」と、「おまえ、相づち打てるんか」って、
家庭内教育していたんですけどね。無意図的なね。それでコミュニケーションの‥…・。
それで、ばあさんが「聞いてくれる人がいるから、語れるんだよ」
「おめえがえれえんだよ、相づちはえれえんだよ」って、こう言って育ったから、
子どもは「うん、ふんとこしょ、ふんとこしょ」って、言って、
それで、家の中できちっとごあいさつできることが教育されていたということが、
私、素晴らしいなと思いました。

 それから、まず何よりも、聞くから話せるのであって、聞く人が第一番なんだよって、
最初に私も言ったけれども、聞く人が偉いんだよって。
聞くから、相づちを打って聞くからね、聞く人が偉いんだよって、最初の話に戻るわけです。
聞くということは、相手の話を拾ってやって、相手の生命を助けてやることになる。

「ストーリーテリング」 稲田 浩二・和子

2013年01月08日 01時20分26秒 | 民話(語り)について
 「ストーリーテリング」 日本昔話 ハンドブック 稲田 浩二・和子

 (1)ストーリーテリングの背景と広がり

 ストーリーテリングとは、文字通り、昔話をはじめ、さまざまな物語や詩などを語ること、つまり絵本や物語などの本を読み聞かせたり朗読したりするのではなく、生の言葉で語ることである。
語り手はお話のイメージを言葉で語り、聞き手はその言葉によって心の中に自分のイメージを創る。
そして、語り手と聞き手が互いに心を通わせ、表情を見るなど影響しあいながら、目には見えないが新しい世界を創造することである。

 伝統的な語り手が、子どものころ、親やまわりの大人から語り伝えられた口承の話を聞き覚えて、次の世代に語ったのとは異なり、本稿での「ストーリーテリング」による語り手は、自分で語りたい昔話や物語などを、印刷された書物の中から選び、覚えていのちを吹き込み、それを肉声で語る。

 お話、とくに昔話を語ることは、すでに述べられているように、世界中でおこなわれてきた。
日本でも戦前までは、各家庭の囲炉裏端やこたつの中などで、大人から子どもへと語られてきた。
ところが、戦後になって、核家族化が進み、家族の中に昔話を語る大人がいなくなった。
たとえ、いたとしても、大人は忙しく、子どもは昔話を聞くよりも、絵本やコミック、テレビやテレビゲームなどのほうへ興味が移り、絵本の昔話を読んでもらうことはあっても、語ってもらうことはほとんどなくなった。
さらに、時代の流れの中で、語りを聞くという文化そのものもだんだん衰退してきている。
今となっては、親から聞いた昔話を語ることはおろか、昔話を知っている大人も非常に少ない。

 このように、伝承が失われている現代、私たちは何をどのようにすればよいのだろうか。
ここに取り上げるストーリーテリングは、子どもの内面的な成長を助けるだけでなく、失われてゆく昔話を人々の心に取り戻し、大切な文化遺産として、後世に手渡す上でも、もっともよい方法と言える。

相槌(あいづち)について 藤田 浩子

2013年01月04日 00時13分12秒 | 民話(語り)について
 相槌(あいづち)  「かたれ やまんば」第一集 藤田 浩子の語り 1996年

 相槌というのは、もともとは鍛冶屋さんの言葉です。
鍛冶屋の親方が真っ赤に焼けた鉄を台にのせ、
槌で「トン」と打てば、向こう側にいる弟子が「チン」と相槌を打つ。
「カン」と打てばまた「チン」と打つ。
「トン」「チン」「カン」「チン」と調子よく叩く。
その、弟子の持つ槌が相槌、または向こう槌です。

 語るときも同じで、語り手が「じさまは山さ芝刈りに」と言えば、
聞き手が「ふーん」とか「それで」とかあいづちを打ちます。
「ばさまは川さ洗濯に」と言えば、またあいづちを打ちます。
調子よくあいづちを打ってくれれば、語り手も調子よく語れたでしょう。

 私に昔話を聞かせてくださった方によれば、
糸を撚りながら巻き取りながらばさまの語りを聞くときは、

「むかぁしなぁ まずあったぁと」で一回転、
「ほおで?」と聞き手はそこであいづちを打ち、
「じさまとばさまが あったぁと」で一回転、
「ほおで?」と聞き手はまたそこであいづち。

 ゆっくりゆっくり糸巻き車を回しながら、ゆっくりゆっくり語ってくれたそうで、
聞き手もまた一回転ごとにあいづちを打ちながら、ゆっくりゆっくり聞いたのでしょう。