民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

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「徒然草 REMIX」 その11 酒井 順子

2016年03月19日 00時12分40秒 | 古典
 「徒然草 REMIX」 酒井 順子 新潮文庫 2014年(平成26年)

 その8 「あはれ」 P-81

 古典を読んでいると、たくさん出てくるのは「あはれ」という言葉。が、私はいつも、わかったようなわからないような気分で、この「あはれ」を眺めているのです。
 現代において「あわれ」は、「哀れ」とも書くわけで、「可哀相」とか「みじめ」と思われる人や状況に対して使用されています。が、昔の「あはれ」は、どちらかといえば褒め言葉。すなわち、しみじみ、じんわりした心の動きを「いいなぁ」と思う時に、人は「あはれ・・・」と言ったのです。

 そのしみじみ感の中には、悲しさや寂しさや憐憫の情も、含まれていました。後年、その悲しさや寂しさや憐憫の部分のみがクローズアップされて使用されるようになったのが、今の「あわれ」。対して、感動や賞讃の部分がクローズアップされてできたのが、「あっぱれ」。
「哀れ」と「天晴(あっぱ)れ」が同じ語源ということに驚かされるのですが、そうこうしているうちに、「あはれ」が元々持っていた意味を表す言葉を、私たちは失っていたのです。

 (中略)

 人はいつまでも生きていくことはできず、いつか必ず死んでしまうという事実は、我々に最も深く無常を訴えるものです。兼好の「あはれ」センサーが激しく動くのは、無常に感じた時。「人は死ななかったら『あはれ』じゃない」と、死を避けようとする人々を尻目に余裕を見せるのでした。

 (中略)

 その心境は、男女の仲にも及びます。「男と女にしても、ただ会って契ることだけが良いわけじゃあない。会えないつらさを思い、果たされなかった約束を嘆き、長い夜を一人で明かし、遠くにいる恋人と過去の逢瀬をしのぶ・・・っていうのが、恋の真髄なんじゃないの? 」と。
 多少の精神的マゾっ気は感じますが、昔の歌謡曲で「会えない時間が愛育てるのさ」と歌われていたのと似たような感慨を、兼好は抱いていたのですねぇ。

 (中略)

 移ろいゆく時に対して、真剣に「あはれ」を感じていた、兼好。彼はそのあはれ感にうっとりしつつ、一方では最も無常を恐れていた人なのかもしれない、とも思うのです。「時が流れていくことは、しょうがないのだ」と現実的な割り切りをすることができず、刻々と終わりに近付いていくことが本当に恐かったからこそ、彼は無常や否定に敏感にならざるを得なかったのではないか。

「徒然草 REMIX」 その10 酒井 順子

2016年03月17日 00時06分26秒 | 古典
 「徒然草 REMIX」 酒井 順子 新潮文庫 2014年(平成26年)

 その7 「老い」 P-68

 最近の日本においては、長生きを良いこととしない風潮が強まっているように思います。「いつまでも生きてしまって、お金がなくなってみじめな思いをするのが恐怖¥い」「長生きして、子供に迷惑をかけたくない」「ほどほどのところで、ぽっくり死にたい」と、初老の人は口々に言うもの。

 昔は、長生きは目出度いことだったのです。しかし90代まで生きる人も全く珍しくない今、「生きたくないのに生きてしまっている人」や、「周囲から長生きを寿(ことほ)がれない人」の姿を目にしてしまうと、私たちは長寿に対する恐怖を感じるのでした。

 兼好が生きた時代は、長生きが目出度いとされていた時代だと思います。医療は発達しておらず、子供の死亡率は今よりもうんと高かった。長生きできるというのは、とてもラッキーなことだったのですから。

 (中略)

 年をとってしまった兼好は、自らが老いているということに対して、忸怩たる気分を抱いているようです。第113段には、「40歳を過ぎて色事があったとしても、一目を忍んでいる場合はまぁしょうがないにしても、それを口に出して言ったりするのは、大人気なくて、みっともない」としてあります。「いくつになっても恋をしていたい」「一生、セックス」みたいな現代の風潮とはまるで違う感覚なのであり、「40過ぎたら、もしやるとしてもコッソリしてろ」ということなのです。

 それに続き、「老人が、若者に交じって、ウケを狙って話していたりするのは、「すごく見苦しい」とも兼好は書いています。これも、「若い人と積極的に話して、エネルギーをもらいましょう」みたいな今の風潮とは真逆のこと。
 兼好は、自らの老いを自覚しようとしない人を、嫌うのです。

 (後略)


「徒然草 REMIX」 その9 酒井 順子

2016年03月15日 00時09分25秒 | 古典
 「徒然草 REMIX」 酒井 順子 新潮文庫 2014年(平成26年)

 その6 「わびし」その2 P-65

 前略

 ピカピカに新らしい、立派な家。自分のことを引き合いに出して、他人を評価する人。そして、しったかぶりをして、ペラペラ話す人。・・・兼好が「わびし」と思ったのはこんな対象です。これ見よがしな自己アピールが強い人を、彼はとにかく嫌ったのです。

 そして私は、兼好が今の世にいたら、さぞかし生きにくいであろうなぁと思うのでした。今の時代、ちょっと古風な渋い家など建てようとしたら、いかにも新築というピカピカの家を建てるよりも、ずっとお金がかかる。誰かを評価する時でも、
「あの人にはできないことも、私にはできます」
 くらいの自己アピールをしなくては、仕事の場では評価されない。ましてや、
「ええと、はっきりとは知らないんですけどね」
 などと仕事の場で言っていたら、自分に自信が無い人と見なされて、重要な仕事はまかされないことでしょう。

 ピカピカの家とか、強い自己主張とか、自信あり気な態度がよしとされる気風は、アメリカから輸入されたものです。含羞とか謙遜みたいな姿勢を堅持していたのでは、国際化の時代に生き残っていけないからこそ、日本人もアメリカ風の姿勢を身につけていった。

 アメリカっぽい人というのは、おそらく兼好の時代にもいたはずです。受け入れられずに寂しい、という感覚が「わびし」という言葉の元にはあると最初に記しましたが、兼好がアメリカっぽい人と会った時に感じたのは、相手のセンスと自分のセンスが決して交わることはない、という感覚なのではないか。それはつまり、相手を受け入れることができず、だからこそ相手からも受け入れられないという一種の寂しさなのであり、だからこそ兼好はその手の事や人に遭遇した時、「わびし」と記したのでしょう。「ダッセー!」という意味での「わびし」の裏にも、寂しさは隠し味として存在するのです。

 今の世では、アメリカっぽい人の方が立派と言われ、出世するようになってきました。しかし私は、その手の人を見て「わびし」と思ってしまうタイプなのであって、そこで感じるのはやはり、一抹の寂しさ。もう少し昔に生まれていた方がよかったのかもなぁと、たまに思います。

「徒然草 REMIX」 その8 酒井 順子

2016年03月13日 22時04分14秒 | 古典
 「徒然草 REMIX」 酒井 順子 新潮文庫 2014年(平成26年)

 その5 「わびし」その1 P-63

 前略

 ここで兼好が「わびし」としているのは、「俺はこんな風にスゴイけど、あの人はあんな風にダメだよね」という風に自分を引き合いに出す言い方なのでしょう。相手を貶(おとし)めることによって自分の優位性を確認するような行為を兼好は「ダッセー」と思ったのではないか。

 しかし同時に、「俺はこんな風にダメだけれど、その点あの人はスゴイよね」という風に自分を引き合いに出すやり方も、兼好はあまり好まなかったのかもしれません。あえて自己評価を低くして誰かを持ち上げることの臭みをも、兼好は感じ取ったに違いないのですから。

 会話というのは、センスです。話し方にその人の「品」というものが表れてしまうのは、なにも言葉使いにおいてだけではない。「ちょっと出掛けただけでも、今日あったことを息つく暇なく話したりする」人の品の無さ、という記述を見ると、今の世のブログやツイッターにおける「こんなに素敵な、私の毎日の暮らし」アピールを見たら、兼好さんは何と言うか・・・と、思うものです。

 兼好にとって、「俺が」「私が」という自己アピールは、「わびし」いもの、つまりダサいのです。誰かから美点を発見されるのはやぶさかでないけれど、「俺を発見しろ!」と主張する人を見ると、「わびし」となる。

「徒然草 REMIX」 その7 酒井 順子

2016年03月11日 00時23分03秒 | 古典
 「徒然草 REMIX」 酒井 順子 新潮文庫 2014年(平成26年)

 「愚か」 その2 P-49

「誉める人も誹る人も、いずれは死んでしまうのだから、誉められたいなんて思うのは愚か!」
 と書く兼好ではありますが、しかしそんな彼にも、「誉められたい」という気持ちは、どこかにあったはず。
 彼は、そんな自らの愚かさをも、自覚していたのだと思います。財産も、地位も、名誉も名声も、兼好は心の奥底では決してきらいではなかったような気がしてならない私。邪推をするならば、その手のものを本当は欲していたのに思うようには得ることができなかったからこそ、その手のものを求める人たちを「愚か」と言い捨てたようにも思うのです。まるで、好きな女の子だからこそスカートめくりをしてしまう男子のように。

 財産も地位も名誉も名声も皆「非」、とする兼好の筆致は格好いいのだけれど、どこかリアリティに欠けるような気が私はするのです。それよりも、女に迷った時のことを書く時の方が、兼好の筆は生き生きしている。
 財産も地位も名誉も無駄、というのは正論です。が、そんな正論を吐きつつも徒然草が宗教書とならないのは、彼の中にある俗世に対する色気が、かいま見えるから。
 彼が最も「愚か」だとしているのは、実は自分自身のことのような気がするのでした。