民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

語り手のわたしと聞き手のあなたが
一緒の時間、空間を過ごす。まさに一期一会。

「徒然草 REMIX」 その6 酒井 順子

2016年03月09日 00時33分32秒 | 古典
 「徒然草 REMIX」 酒井 順子 新潮文庫 2014年(平成26年)

 「愚か」 その1 P-42

 徒然草において「あらまほし」という言葉の使用が目立つということを以前記しましたが、「こうあってほしいものよのう」という理想を強く持っている人はえてして、「こんなのはダメーッ」という、否定する心をも強く持っている人であったりもします。
 特に男性を見ていると、
「あいつはバカだからさー」
 などと、他人をバカ呼ばわりすることが口癖になっている人がいるものです。兼好もまた、他人のアラがどうしても目についてしまうため、色々な言葉を使用しては、バッサリと断罪する人。中でもよく使用している言葉が、「愚か」なのです。

 兼好は、どんな人を「愚か」と思っていたのでしょうか。第38段は、兼好が心に任せて「愚かって、こんな人」ということを書いた段なのですが、その冒頭は、
「名利につかはれて、閑(しず)かなる暇(いとま)なく、一生を苦しむるこそ、愚かなれ」
 というもの。つまり、名誉とか利益といったもののためにバタバタと忙しく過ごして、一生を過ごす人って愚かだよね、と言っております。

 この一文において兼好が問題にしているのは、「バタバタと忙しく過ごす」こと自体ではありません。それというもの兼好は、あまりボーッとするのが得意なタイプではないから。出家して「徒然草」などというタイトルの書を書いた人、というと、有り余る時間を無為に過ごしつつ何となく思考していた人、という感じに思えるものですが、兼好は実はそうではないのです。

 たとえば第108段に書いてあるのは、「時間を惜しめ」といったこと。
「人間、もし明日は必ず死んでしまうとなったら、何を期待して、何をすると思う? 我々が今日生きるこの一日だって、そういう日と変わらないのだ。一日のうちに、食べたり、排泄したり、寝たり、話したり、歩いたりと、我々は止むを得ず多くの時間を潰してしまっている。その、暇がいくばくもないという中で、無為な事をし、無為なことを言い、無為なことを思って過ごすのみならず、そうしながら日々を、そして月々をすごして一生を終えてしまうって、最も『愚か』でしょうよ」
 としているのです。

「徒然草 REMIX」 その5 酒井 順子

2016年03月07日 00時25分15秒 | 古典
 「徒然草 REMIX」 酒井 順子 新潮文庫 2014年(平成26年)

 「女」 P-30

 兼好法師は、モテたのか?
 ・・・と考えてみますと、結構モテたのではないか、と私は思う者です。30歳前後で出家をした身とはいうものの、出家前の若い頃は色々とあったようにうかがえるし、はたまた出家後も、女とのまじわりを禁じられた身だからこそにじみ出る色気というのもあったのではないか。

 中略

 女性は、大好き。しかし女性は我を忘れるほど自分を夢中にさせるからこそ、そんな女性が憎い。女性に対する兼好の視線は、このように愛憎半ばするものです。

 中略

「これほどまでに男に男に気を遣わせる女というものが、どれほど素晴らしいものかと思えば、女の本性というのはみーんな、歪んでいる。我執の念が深く、欲望は果がなく、物の理を知らず、心は迷走ばかりして、言葉は巧みに、言ってよいことでも聞かれればはぐらかす。かといって、口を慎んでいるのかと思うと、聞かれもしないのにとんでもないことまで話し出す。深く考えてつくろった事は、男の知恵にもまさるかと思えるけれど、結局はつくろったことが後からバレるのを知らないのだ。素直でなく愚かなのが、女というものなのだ」
 と、もう「これでもか」というくらいの罵詈雑言。結論としては、
「そんな女から気に入られるようにするなど、何と情けないことか。だから、どうして女に気を遣う必要があろうか。もし賢い女というのがいるのであれば、それもまた親しみにくく、興醒めであろうし。ただ迷いに身を任せて女の心に従う時だけ、優しくも面白くも思えるのではないの? 」
 ということなのでした。
 女に対する罵詈雑言の羅列部分を読んでいると、「別にここまで言わずとも」と、ムッとしてくるのです。しかし最後まで読むと、「兼好さんの気持ちもわかる気がする・・・」と、思えてくる。自分のことを考えても、異性との付き合いの中で男性の駄目さ加減が嫌というほど見えてきて、イライラが募って絶望に達することがあるわけですが、兼好はその逆の立場にいたのでしょう。

 兼好はその人生の中でずっと、「女というのは、なんて自分とは違う生きものなのであろう」という女性に対する違和感と、その「自分と違う生きもの」であるが故に女に強く惹かれてしまう気持ちと、二つの気持ちの間で揺れていたのだと思います。

 中略

 他人の悪いところが見えすぎるほどに見える人であるが故に、彼は女性と交際する度に、女の駄目さ加減が目について仕方がなかったのだと思います。彼は、あくまで自分を客観視する人ですから、冒頭に記した第105段の男女のように、女と付き合うのであれば、自分たちはあくまで美しい二人でありたかった。
 しかし現実は、「女の本性はみーんな、歪んでいる」し、そんな本性がわかってるのに夢中になってしまう自分も嫌。「迷いに身を任せて女の心に従う時」だけが面白い、とするのは、そんな彼が出した結論なのでしょう。

「徒然草 REMIX」 その4 酒井 順子

2016年03月05日 00時15分33秒 | 古典
 「徒然草 REMIX」 酒井 順子 新潮文庫 2014年(平成26年)

 「あらまほし」 その2 P-21

 そんな兼好がしばしば使用するのが、「あらまほし」という言葉です。「あらまほし」とは、「あってほしい、望ましい」「理想的だ、好ましい」といった意。○意識を強固に持っていたからこそ、×な事物に接すると、「あらまほし」き状態を考えずにはいられなかったものと思われます。

 兼好の思考を知るのに良い例となるのが、第140段における「あらまほし」の使用方法です。
「自分が死んだ後に財産を残すというのは、賢き者のすることではない。くだらない物をたくわえているのはみっともないし、良い物を残したら残したで、それに執着したと思うと、あさましい。残された財産が多いのは、ましてや感心しない。『我こそは』と思う者が死後に争う様は、見苦しいものだ。自分の死後に誰かにあげようと思う物があれば、生きているうちに譲っておくべきなのだ」
 とした後で、最後に、
「朝夕なくてかなはざらん物こそあらめ、その外は何も持たでぞあらまほしき」
 としてある。つまり、「朝夕になくてはならない物の他は、何も持たずにいたいでしょうね」という感じです。

 死後に財産を残してしまう「×」話を書き連ね、最後にあらまほしき「○」をご提案。面倒見が良いというか、許せる範囲が狭いというか、この手の書き方は徒然草においてしばしば見られるのです。

「徒然草 REMIX」 その3 酒井 順子

2016年03月03日 00時26分27秒 | 古典
 「徒然草 REMIX」 酒井 順子 新潮文庫 2014年(平成26年)

 「あらまほし」 その1 P-21

 徒然草を読んでいて、思うこと。それは、「作者の心の中には、常に『○』の札と『×』の札が用意されているのであるなぁ」ということです。
 人を話していても、月だの花だのを眺めても、兼好は常に、○か×かの札を心の中で瞬時に掲げています。「まぁ、どうでもいいわな」とか、「そういう人もいるでしょう」などといった曖昧な感想は抱かず、必ず自分の中で白黒をつけているのです。

 随筆の面白さとは、もちろんそういったところにあるのです。昨日あったことをだらだらと書いていても、読者は何ら興味を持たない。昨日こんなことがあって非常に○であったとか、あんな人と話したらこんな風に×であったというように、作者がどのように○もしくは×を感じるのかというところに、読者はひきつけられるのですから。

 枕草子においても、○と×との区別はくっきりとついています。類聚章段(るいじゅうしょうだん)と言われる「・・・もの」でくくられた段の数々があります。「心ときめきするもの」「めでたきもの」「あはれなるもの」といった言葉の後に綴られるのは、清少納言「○」と思った事物の数々。対して、「すさまじきもの」「にくきもの」「見苦しきもの」といった言葉の後には、「×」な事物が続く。読者は、端的な丸の事例、×の事例の数々を読んで、「そうそう、そうなのよね~」と、スッキリした気分になるのです。

 徒然草における○と×の処理方法は、枕草子とは違います。兼好は、○や×の事例をただ羅列するという手法はとらず、「これは○だが、こちらは×だ」などと○と×を並べてみせたり、兼好が○とか×と感じた理由を丁寧に説明してみせ、「だからやっぱり人間、こうあるべきなんですよ」といった意見を提示するのです。

 この手の男性は、今もしばしば見るものです。「これ、好き」「あれ、嫌い」と好き嫌いを言いっぱなしにするのではなく、「こうするべき」「こうするべきではない」という「べき」論をも、つい語ってしまうのが、その手の人の常。世を捨てて仏道に入ったというのに、それでもなお、世にそして人に、文句をつけたくなってしまう兼好は、そんな持論を心の中だけに溜めておくことができないからこそ、つれづれなるままに随筆を書いたのでしょう。

「徒然草 REMIX」 その2 酒井 順子

2016年03月01日 00時43分41秒 | 古典
 「徒然草 REMIX」 酒井 順子 新潮文庫 2014年(平成26年)

「はじめに」 その2 P-14

 (前略)

 兼好に与えられた表現手段としてはもう一つ、和歌がありました。和歌に長(た)けた人であったからこそ、彼は40代以降は歌人として都で活躍したわけですが、しかし兼好の胸には、和歌を詠むことでは排泄しきることができないものが、あったのです。おそらくその時代、いくら随筆を書いても生活の足しにもならなければ、歌人としての評価にもつながらなかったと思うのですが、それでも書かずにいられない澱(おり)が兼好の中には溜まっていたのでしょう。

 同様の孤独を、私は清少納言の上にも見るのです。枕草子には、
「すこし日たけぬれば、萩などのいと重げなるに、露の落つるに枝うち動きて、人も手触れぬに、ふと上ざまへあがりたるも、『いみじうをかし』といひたる言どもの、『ひとの心には、露をかしからじ』と思ふこそ、またをかしけれ」
 という文章があります。雨上がりに、雨露がついて重そうな萩を眺めている清少納言。誰も触れていないのに、露が落ちた瞬間にひょいと枝がはね上がる様子に「いみじうをかし」と思いつつ、「他人にはこんなことツユほども『をかし』くないのだろうなぁ、と思うのがまた『をかし』!とも、彼女は思っている。

 そこには、「こんなことで面白がっているのは私だけ」という孤独の自覚があります。が、彼女はその孤独をも『をかし』とする、あっけらかんとした感覚を持っているのです。それは、「あやしうこそものぐるほしけれ」という、兼好のひねりの入った孤独の客観と、似てはいるけれど少し異なるもの。
 私はそんなところに、男女の違いを見るのでした。随筆という手段をとらざるを得なかった二人の資質には、共通した部分がある。しかしそこには、決定的な違いもある。

 今の世で随筆を書く女として生きる私は、徒然草を読んでいると、つくづく「男だなぁ! 」と思うのでした。男好みの、男ならではの感覚が、そこには満ちている。

 (後略)