民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

語り手のわたしと聞き手のあなたが
一緒の時間、空間を過ごす。まさに一期一会。

「おっと合点 承知之助」 付け足し言葉

2014年02月06日 00時22分49秒 | 名文(規範)
 声に出す言葉絵本 「おっと合点 承知之助」 文:斎藤 孝 絵:つちだのぶこ ほるぷ出版 

 あとがき 「付け足し言葉は、言葉のロケット」

 前略

 付け足し言葉というのは、言葉の勢いが止まらずに、シャレで言葉を付け足したもののことです。
たとえば、「その手は桑名の焼き蛤」というのは、「その手は食わないよ」と言えば済むところを
勢い余って、「食わない」と地名の「桑名」をひっかけて、
桑名名物の焼き蛤を付け足したということです。

 中略

 付け足し言葉は、人に向かって調子よく言う言葉です。
相手との言葉のやりとりにつける、いわば潤滑油のような働きがあります。
たとえば、縁台で将棋を指しながら、相手と将棋だけでなく、
言葉のやりとりも付け足し言葉で楽しむわけです。
付け足し言葉の多くはまったく根拠がないというものではなく、何かのシャレになっていたり、
古典の引用になっていたりするものもあります。

 「驚き桃の木山椒の木」や「あたりき車力」などは、私の小学校時代は皆が使っていたものです。
しかし今は、急速に廃れてきてしまい、古い付け足し言葉はあまり流行らなくなって
消え去ろうとしています。
おじいさんやおばあさんとのコミュニケーションが少なくなったこともその原因の一つかと思います。
そこで今回は、おじいさんとのコミュニケーションの中で自然に付け足し言葉が出てくるような
ストーリーをつちださんに考えてもらいました。

 声に出してみることで、その言葉は自分に跳ね返ってきます。
そして、自分が出した声で自分が元気づけられるということもあります。
元気があるから、声に出すということもありますが、声に出すことで元気になって来るという側面が
言葉にはあります。

 私は、最近の子どもたちともつきあう機会があるのですが、そこで感じるのは、
からだの「張り」の足りなさです。
子どもは相変わらず子どもらしい元気さを持ってはいますが、それでも昭和の子どもと比べると
エネルギーが外に発散される機会が少ないように、私自身も子育てをしてきて思います。

 大きな声でエネルギーを外に出すことで、自分自身も元気になる。
そうした回路をつくってあげたいという気持ちが、この絵本には込められています。
そのときにできるだけ伝統のある日本語を声に出すことで、二重の効果があると考えているわけです。
 
 ロケットに三段ロケットというものがあります。
発射してから二度ほどまた噴射して加速していくロケットです。
付け足し言葉はちょうどこのロケットのようなものです。
「その手は食わない」ではなく、「桑名」ということでひねりをきかして言葉を加速させ、
最後にもう一度「焼き蛤」と言うことでさらに加速します。
この場合は、焼き蛤を食わないというシャレも入っています。
こうした大した意味もない軽口は、話している相手との距離感をなくし、親しい雰囲気を盛り上げます。

 つちださんの楽しい絵とストーリーが、付け足し言葉の言葉のロケットの効果を
よく表現してくれていると思います。
是非この絵本を通して、言葉を声に出してみることで元気になる感じを子どもたちに
味わってもらえればと願っています。

 おはよう ごん左衛門

 何か用か 九日十日

 お茶の子さいさい 河童の屁

 その手は桑名の 焼き蛤(はまぐり)

 平気の 平左衛門(へいざえもん)

 恐れ入谷の 鬼子母神(きしもじん)

 結構毛だらけ 猫灰だらけ

 しーらん ペッタンゴリラ

 すいませんねん(千年) 亀は万年

 嘘を築地の 御門跡(ごもんぜき)

 驚き 桃の木 山椒の木

 あたりき車力の コンコンチキ (あたりき車力よ 車曳き)

 さよなら三角 また来て四角

 ただいま帰って キタキツネ

「わたしが一番きれいだったとき」 茨木 のり子

2013年12月14日 00時21分45秒 | 名文(規範)
 「わたしが一番きれいだったとき」  茨木 のり子

 わたしが一番きれいだったとき
街々はがらがら崩れていって
とんでもないところから
青空なんかが見えたりした

 わたしが一番きれいだったとき
まわりの人達がたくさん死んだ
工場(こうば)で 海で 名もない島で
わたしはおしゃれのきっかけを落としてしまった

 わたしが一番きれいだったとき
だれもやさしい贈り物を捧げてはくれなかった
男たちは挙手の礼しか知らなくて
きれいな眼差しだけを残し皆発っていった

 わたしが一番きれいだったとき
わたしの頭はからっぽで
わたしの心はかたくなで
手足ばかりが栗色に光った

 わたしが一番きれいだったとき
わたしの国は戦争で負けた
そんな馬鹿なことってあるものか
ブラウスの腕をまくり卑屈な町をのし歩いた

 わたしが一番きれいだったとき
ラジオからはジャズが溢れた
禁煙を破ったときのようにくらくらしながら
わたしは異国の甘い音楽をむさぼった

 わたしが一番きれいだったとき
わたしはとてもふしあわせ
わたしはとてもとんちんかん
わたしはめっぽうさびしかった

 だから決めた できれば長生きすることに
年とってから凄く美しい絵を描いた
フランスのルオー爺さんのように 
              ね

「川中島」 お手玉歌

2013年12月04日 00時18分23秒 | 名文(規範)
 「川中島」 お手玉歌

 西条山(さいじょうざん)は 霧ふかし
千曲(ちくま)の河は 浪(なみ)あらし
遥(はるか)に聞こゆる 物音は
逆捲(さかま)く水か つわものか
昇る朝日に 旗(はた)の手の
きらめくひまに くる くる くる

 車がかりの 陣ぞなえ
めぐるあいずの 閧(とき)の声
あわせるかいも あらし吹く
敵を木の葉と かきみだす
川中島の 戦いは
かたるも聞くも 勇ましや


 ―『新編教育唱歌集(五)』明29,5

 このお手玉歌は、明治29年にできた唱歌「川中島」が元歌になっています。


「歌舞伎十八番」 外郎売

2013年07月17日 21時07分37秒 | 名文(規範)
 「歌舞伎十八番」 十二代目 市川団十郎 著  河出書房新社 2002年

 <言い立てのない「ういろう」>

 「外郎売」も独立した芝居ではなく、一つの演技形態といえます。
外郎という名の渡来人が、小田原で売り出した薬「透頂香(通称ういろう)」を売り歩く時の宣伝口上
つまり「言い立て」を弁舌爽やかにお聞かせする趣向です。

 父は、市川宗家と養子縁組をして九代目海老蔵を襲名した昭和十五年五月、
歌舞伎座で川尻清潭先生の脚本による「ういろう」で外郎売を演じています。
舞台は鬱蒼とした箱根権現の杉林、ちょうど辻行燈が並んでいる「妹背山婦女庭訓」の道行のような装置で、外郎売に身をやつした曽我五郎と虚無僧姿の十郎が、そこで仇の工藤祐経と出会うという筋です。
 この「ういろう」には眼目の言い立てがなく、その部分は長唄と常磐津による踊りでした。
私は、昔のように外郎の言い立てを復活できないものかと構想を練りましたが、
肝心の言い立てをどのようにしゃべったらいいのか見当がつきません。
 その後、思いがけなく外郎の言い立てをしている講釈師のテープが見つかり、それが突破口になりました。

 <復活>

 さっそく劇作家の野口達二先生に構想を伝えて台本を書いていただきました。
野口先生は、ひとりでしゃべるにはあまりにも膨大な量の「言い立て」を大薩摩を入れて
ちょうどいい寸法にしてくださいました。
 
 舞台装置も背景を富士山にして、松を配し、二代目が活躍した頃の芝居小屋を模して破風造りの
屋根をかけるなど私の希望をくんで、鳥居清先生に道具長を描いていただきました。
 こうして新しい「外郎売」を昭和五十五年五月、歌舞伎座の円菊祭で上演することができました。

 「外郎売」復活には、また現実的な理由もありました。
 歌舞伎の正月公演には曽我物を上演する習慣があり、長い間に上演された曽我物の芝居は
数知れずあるのです。
ところが、近年は「寿曽我対面」ばかりで、若手の頃の私も朝の序幕に「対面」ばかりやらされていました。
「対面」にかわる明るくめでたい曽我物はないかと考え、思いついたのが「外郎売」でした。
 こうして復活した「外郎売」は、その後幾度も再演する機会を得て、
今年襲名した松緑も演じてくれました。
倅の新之助は六歳の初舞台に私とふたりで外郎売を勤め、今年の一月には狂言なかばの口上に
市川家の「睨み」を加えた演出を、大阪松竹座でお目にかけました。
「外郎売」がこれからも演じ継がれていくように、立ち廻りや口上などさらに練り上げていきたいと
思っております。

「外郎売」 解説

2013年07月15日 00時26分07秒 | 名文(規範)
 「歌舞伎十八番」 十二代目 市川団十郎 著  河出書房新社 2002年

 「外郎売」 解説

 七代目団十郎が制定した歌舞伎十八番の名目では「外郎」である。
 「外郎売虎屋藤吉」などと役名をつける表現から、現代は一般に「外郎売」の名で知られている。
市川団十郎が小田原の外郎という薬を売り歩く行商人の扮装で現れ、この薬の由来や効能を、
すらすらとよどみなく述べ立てる。

 享保三年(1718)正月江戸森田座の「若緑 勢曽我(わかみどりいきおいそが)」の中で、
二代目団十郎の扮する畑六郎左衛門という人物が、外郎売の姿で登場し、
長い「言い立て」のせりふを滝の流れるように流暢に、勢いよく述べ立てて大好評を博したと言う。
弁舌に優れていた二代目の特徴を十分に発揮させようとの意図によって創作された役であろう。
頭巾をかぶり薬箱を背負ったユニークな扮装と、長せりふを心地よく聞かせるだけの役だから、
とくに荒事の様式的な演技があるわけではないのに、江戸の外郎家に伝わる伝承によると、
実際に外郎売の行商をしたことはないのだが、
二代目団十郎の懇望によってその扮装で売り歩いたとする創作を許したのだと伝える。
実情はわからない。

 二代目が大阪に上った時「外郎売」を演じたが、いざ眼目の長いせりふにかかろうとすると、
意地の悪い観客が早口で先回りして言ってしまった。
二代目は少しも慌てず、せりふを終わりの方から逆にすらすらと言ってみせ、
観客を一驚させたと伝えられる。
話の真偽は別として、二代目の偉大さ讃仰して語られた逸話であるのは間違いない。

 天保三年(1832)三月、七代目団十郎が「助六」を上演した時、十歳の海老蔵改め八代目団十郎に、
外郎売の藤吉が吉原の廓内に登場する趣向で勤めさせた。
しばらく中絶していたのを、大正十一年九月の帝国劇場で、
市川三升(十代目団十郎)が常磐津の所作事で独立させて上演した(平山晋吉脚本)。
その後、昭和十五年五月の歌舞伎座で、十一代目団十郎が市川宗家の養嗣子になって海老蔵を襲名した時、
「曽我対面」の趣向を借りて「歌舞伎十八番の内 ういろう」の外題で復活した(川尻清潭脚本)。
いずれも眼目の言い立てが所作事仕立てになっていた。

 昭和五十五年五月、海老蔵時代の十二代目団十郎が復活した作(野口達二脚本)が
「歌舞伎十八番」と銘打って現在も行われる。
曽我物の一場面とした設定で、富士山を背景にした初春の大磯の廓で、
外郎売 実は曽我五郎が敵の工藤祐経に対面する趣向の創作である。
この作では、外郎の言い立てを本来のせりふに戻した。
昭和六十年五月の歌舞伎座、十二代目団十郎襲名披露の興行で、七代目市川新之助の初舞台も披露された。
この時の狂言が「外郎売」だった。
野口達二が前作を改訂し、団十郎の外郎売が新之助の扮する貴甘坊と連れ立って登場し、
言い立ては貴甘坊がすべて演じるという趣向にしてあった。