民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

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「桜もさよならも日本語」 その5 丸谷 才一

2015年12月26日 00時15分08秒 | 日本語について
 「桜もさよならも日本語」 その5 丸谷 才一  新潮文庫 1989年(平成元年) 1986年刊行

 Ⅰ 国語教科書を読む  

 5、ローマ字よりも漢字を

 文部省の『小学校指導要領』によれば、四年の国語では「日常使われる簡単な単語について、ローマ字で表記されたものを読み、また、ローマ字で書くこと」を教へる。戦後すぐ、ローマ字論者が威勢がよかつたころ、彼らの顔を立てるためかう決めたのだ。
 そこで四年の教科書はどの社のものも、ローマ字に何ページかを費やすのだが、これは意味がない。第一に、まったく系統の違ふ文字を今ここで教へるのはをかしいし、手間がかかりすぎる。第二に、どうせ中学一年で英語その他を教へるのだから、それまで待てばいい。第三に、さきで英語その他を教へるのにかへつて邪魔になる。第四に、ローマ字は日本語の表記としてまつたく特殊なもので、日本の地名、人名その他を外国人向けに書くときなどに使ふにすぎない。

 中略

 「窓」や「机」のやうな何の変哲もない字をはふつて置いて、そのローマ字書きを教へるのは、どう考へてもばかげてゐる。それは今の国語教育の戯画として絶好のものだらう。教科書会社だけを責めるのは筋ちがひかもしれないけれど、小学校ではローマ字はやめて、もつと漢字を教へなければならない。今さら言ふまでもないことだが、日本語は漢字と仮名をまぜて書くのが普通のかたちで、そして国語の時間数はどう見ても足りないのである。

「桜もさよならも日本語」 その4 丸谷 才一 

2015年12月24日 00時15分01秒 | 日本語について
 「桜もさよならも日本語」 その4 丸谷 才一  新潮文庫 1989年(平成元年) 1986年刊行

 Ⅰ 国語教科書を読む  

 4、読書感想文は書かせるな

 前略

 読んだ本について何かを書かせようとするのは間違つてゐる。読書感想文を書けと強制してはならない。本を読むことをすすめ、あとはただ学校図書館におもしろい本をたくさん用意して置けばそれでいい。わたしはさう思ふ。
 たとへ話でゆかう。男の子が十八人ゐるとき、これから二つのチームで野球をしようと提案すれば、みんな大喜びするはずだ。しかし、試合の経過をあとでめいめい作文に書くといふ義務を付け加へれば、一人残らずゲンナリするにちがひない。読後感を書かせるのはこれとまったく同じことで、読書から喜びを奪ふ。ところが彼らにまづ教へなければならないのは、快楽としての読書なのである。
 本はおもしろいものだといふことを体験させること、本を読む癖をつけること、それが大事だ。その味を覚えさへすればしめたもので、彼らは将来、西洋十九世紀の長編小説も、天文学も、ケインズ理論も、コンピューターの本も、読むやうになるかもしれない。読書感想文を無理やり書かせることでその可能性をつぶしてしまふのは、教育者として正しい態度ではない。
 読書感想文といふのは一種の書評である。そして書評がどんなにむづかしいかは、海千山千の文筆業者がさんざん苦労して、なかなかうまく書けないのを見てもわかる。一冊の本といふ厖大で複雑なものを短い文章で紹介し論評するのは、郵便切手の裏に町全体の地図を書くくらゐ大変なのである。そんな芸当を子供に強制することは、角兵衛獅子の親方だつてしなかった。

「桜もさよならも日本語」 その3 丸谷 才一 

2015年12月22日 00時57分09秒 | 日本語について
 「桜もさよならも日本語」 丸谷 才一  新潮文庫 1989年(平成元年) 1986年刊行

 Ⅰ 国語教科書を読む  

 3、完全な五十音図を教へよう

 (前略)教科書に完全な五十音図が載ってゐないのは不思議である。これこそは日本語の基礎なのに。
 もちろんどの教科書も、一、二年用の巻末には、『ひらがな五十音』とか『カタカナノヒョウ』とか載せてゐるが、ヤ行とワ行がをかしい。

 や (い) ゆ (え) よ
 わ (い)(う)(え) を
 ヤ (イ) ユ (ヱ) ヨ
 ワ (イ)(ウ)(エ) ヲ

となつてゐるのだ。

 や い ゆ え よ
 わ ゐ う ゑ を
 ヤ イ ユ エ ヨ
 ワ ヰ ウ ヱ ヲ

でなければならないのに、さういふ本式の五十音図は教へてゐない。(中略)

 日本語は五十音図に従って動いてゐるし、あるいは、その動き具合をきれいに秩序づけたのが五十音図であつた。
 さういふ大事なものなのに、最初に嘘を教へるのは間違ってゐる。まづ贋の五十音図をかかげ、いつかそのうち正しい五十音図を教へようといふのは、二度手間である。そんな面倒なことはよすほうがいい。さしあたり使はない仮名がはいつてゐるものを小学一年の本に出すのは不親切だ、なんて反対する人がゐるかもしれないが、わたしは今のやり方は親切ごかしにさへなつてゐないと思ふ。

 中略

 しかし一つだけ、正しい五十音図をかかげてゐる小学一年用の教科書がある。安野光雅、大岡信(まこと)、谷川俊太郎、松井直(ただし)の『にほんご』(福音館書店)である。これは文部省学習指導要領にとらわれない、小学校一年生のための国語教科書を想定したもので、つまり実物をつきつけての教科書批判である。上質の日本語と言ひ、きれいな絵と言ひ、美点はおびただしいが、大きく紙面を使つた平仮名五十音図はその一つ。もちろんカツコなんかついてゐない。「いろんな いいかたをして あそぼう。しぜんに うたみたいに なってくるよ」とはじめに誘ひかける。そしてワ行の上には、(ゐ)(ゑ)は いまでは ふつう つかわない もじ。でも おぼえておこう」。

「桜もさよならも日本語」 その2の2 丸谷 才一

2015年12月20日 00時38分33秒 | 日本語について
 「桜もさよならも日本語」 丸谷 才一  新潮文庫 1989年(平成元年) 1986年刊行

 Ⅰ 国語教科書を読む  

 2、漢字配当表は廃止しよう その2

 あれこれ思案したあげくの結論は、いっそ思ひ切りよく「配当表」を廃止するのがいいといふことである。教育漢字881字と備考漢字115字、合わせて996字を、小学校六学年のうちでどこででも使つていいことにするのだ。
 この手でゆけば、まぜ書きや平仮名書きは消滅する。それに、わたしの見るところ、「配当表」への遠慮で無理に漢字を使つたり使はなかつたりするため、どんよりしてゐる文章がずいぶん多いのだが、これもいくらかましになるだろう。それでは転校生が別の教科書を習ふときに困るなどと言ひ立てる人がゐるかもしれないけれど、そんなのは些細なことだし、正しい文字づかいを教へたり生きのいい文章を読ませたりすることのほうがずつと大切である。事の軽重を見あやまつてはならない。第一、長沢の調べによると、国語以外の教科書は「配当表」にこだはらずに漢字を使つてゐるのださうだから、あれは官僚的な自己満足にすぎないのである。さういふものを後生大事にする必要はない。
 が、廃止にならないうちはどうすればいいか。答は簡単だ。「配当表」でまだ教へてならないことになつている教育漢字でも(それ以外でも)どんどん使つて、しかし仮名を振ればいい。たとへば「写真」のやうに。そして振り仮名つきの字は、まだ書けなくてもいいことにすればいい。大人だつて子供だつて、振り仮名つきで読めるだけの漢字、読めるが書けない漢字、読めるし書ける漢字、の三段階があるのは当たり前なのである。

「桜もさよならも日本語」 その2の1 丸谷 才一

2015年12月18日 00時12分16秒 | 日本語について
 「桜もさよならも日本語」 丸谷 才一  新潮文庫 1989年(平成元年) 1986年刊行

 Ⅰ 国語教科書を読む  

 2、漢字配当表は廃止しよう その1

 どの小学教科書でも同じことなのだが、ここでは教育出版『改訂小学国語』3上、『ニまいの写しんを見て』を例に取らう。この教材ではまづ、同じ街を歩いてゐる違ふ人々の写真二葉を色刷りで示してから、

 右の二まいの写しんについて、次のことをくらべて、ノートに書き出してみましょう。(中略)
 ノートに書き出したことをもとにして、二まいの写しんについてせつめいする文章を書いてみましょう。

と記してゐる。
 なぜ「二枚」と書かないのだらう。なぜ「写真」としないのだらう。なぜ「説明」ではないのか。世の中では漢字を使って書くのに。
 これは、「学年別漢字配当表」といふものがあつて、何学年ではこれだけの漢字を教へると決まつてゐるせいである。この表に当たつてみると、なるほど、「枚」は第六学年、「真」と「説」は第四学年にある。そこで、規則は守らなければならないから、「二まいの写しん」、「せつめい」とするわけだ。(「明」は二年生の分にあるが、「せつ明」はどうもをかしいと判断したのだらう。
 だが、このまぜ書きや仮名書きはいかにも醜悪だし、何よりも日本語の慣行に反してゐる。今の日本では「フォトグラフ」の訳語は「写真」と書くのが普通であり、正式である。「写しん」や「しゃ真」は正しい文字づかひではない。教科書は「配当表」に縛られて、間違つた文字づかひを教へてゐるのである。

 中略

 「配当表」に問題があることは、これまでも指摘されてゐる。漢学者、長沢規矩也は、「学年配当は、当時の文部省のお役人O氏の根拠のない資料に基づいて、省外の迎合的委員がこれをうのみにしたことに始まる。O氏は漢字についての有識者ではない」と言ふ。