民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

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「主語を抹殺した男」 評伝 三上 章

2015年04月26日 01時18分40秒 | 日本語について
 「主語を抹殺した男」 評伝 三上 章  金谷 武洋  講談社 2006年

 学歴社会日本の差別構造 P-194

 私は、もし橋本文法でなく、山田文法が学校文法に採用されていたら、日本語と日本人にとってどんなに良かったかと思う。文法の質として雲泥の差があるのは、山田文法は橋本文法よりもはるかに日本語の発想に根ざしているからである。学校文法にならなかった理由を忖度(そんたく)すれば、それはきわめてあきらかだ。山田が富山中学を中退しているからである。山田は独力で、実力で小中学校教員検定試験に合格し、その後、一歩一歩、文法学者への道を進んで大成した第一級の学者である。

 しかし、いかに自分の頭で文法を編み出す実力をしめしても、「学歴は中学中退」と目にしたら、もうそれで文部科学省のお役人は思考停止してしまうのである。丸山真男(まさお)の言う「である社会」の悲しさだ。山田の「中学中退」に対して、橋本進吉はは東京帝国大学言語学科の卒業だから比較の対象にならない。学歴社会、日本が如何に非生産的な選択をしているか、その差別構造を眺めるのに、山田と橋本の二人はたいへん役立つ実例である。

 現在の国語学界の大御所、大野晋が三上文法をまったく相手にしない理由はいったい何かも考えてみよう。私には、大野が橋本進吉の東京大学での愛弟子であり、三上が恩師橋本進吉先生の学校文法を批判しているからとしか思えない。つまり学問ではなく政治闘争なのである。大野は三上に反論しない。いやできない。反論すれば学問になってしまうからだ。

 試みに、大野が編著・解説者である『日本の言語学』第三巻の中の「総主・提題・ハとガ」という章を見てみよう。三上の死後、1978年の刊行である。この章が扱う事項は三上文法がもっともよく説明できるものだ。然るに、あろうことか、その章に三上の名前はただの一度も、本文はおろか参考文献にさえ出てこないのである。自分の恩師の文法が批判されたのなら、なぜ恩師になり代わって反論しないのか。

 同年刊行された『日本語の文法を考える』の方では、巻末の補注に大野が三上の名前を挙げている。そして「氏は主語廃止論を述べ、また助詞の代行という理論を立てている。それらの点で私は三上氏の論に賛成しかねた」と書いているが、これで「日本の言語学」に三上文法を取り上げなかった説明のつもりなのだろう。

 しかしこれは反論になっていない。肝心なのは「なぜ」賛成しかねたのかを具体例を挙げて述べることで、そこからお互いを高め合う摺り合わせが始まるのである。それが学問と言うものだろうが、大野はそれを意図的に避け、三上文法に門前払いを食わせたのだ。

 三上は橋本学校文法を批判して、とくにその主語論に対し、開いた口がふさがらない」と書いた。そしてその理由を具体例で論証した。明治維新以来、無理が通って道理が引っ込む体制を露呈してきた国語学界は、今度の日本語学界への改称をいい機会に、こうした保守的で旧態依然とした体質を改める必要があるだろう。名前を変えることは体質を変えることの保証にはならないが―――。

「会話の日本語読本」 その3 鴨下 信一

2014年06月26日 00時39分17秒 | 日本語について
 「会話の日本語読本」  鴨下 信一 著  文春新書 文藝春秋 2003年 

 「晩春」 小津 安二郎

 小津安二郎がこの同時代に撮った「晩春」(昭和24年)の映画シナリオを見てみよう。
ストーリーは父(笠智衆)の再婚話と娘(原節子)の遅い結婚とがない交ぜになって進行してゆく。
二人だけで長すぎるくらい長くいっしょに暮らしたこの親娘の間には、
深い絆(当人たちが気づいていない潜在的な性的なものも含めて)が存在していて、
思い出にと出かけた京都旅行で思いがけない爆発をする。

 そして、もう京都を立つ前の晩に、親娘の会話はこんなふうになる。

 「父と娘の名シーン」

 周吉「どうしたんだい?」
 紀子「あたし・・・・・」
 周吉「うむ?」
 紀子「このままお父さんといたいの・・・・・」
 周吉「・・・・・?」
 紀子「どこへも行きたくないの。こうしてお父さんと一緒にいるだけでいいの。
    それだけであたし愉しいの。お嫁に行ったって、これ以上の愉しさはないと思うの。
    ・・・・・このままでいいの・・・・・」
 周吉「だけど、お前、そんなこといったって・・・・・」
 紀子「いいえ、いいの、お父さん奥さんお貰いになったっていいのよ。
    やっぱりあたしお父さんのそばにいたいの。お父さんが好きなの。
    お父さんとこうしていることが、あたしには一番しあわせなの・・・・・。
    ねえ、お父さん、お願い、このままにさせといて・・・・・。
    お嫁に行ったって、これ以上のしあわせがあるとは、あたし思えないの・・・・・」

 名作といわれるこの映画の中でもことに名シーンの名が高いところで、
窓障子に竹のシルエットがうつる部屋で親娘が床を並べて寝ているスチール・カットは、
小津を語る本の中にしばしば出てくるから、見たことがおありだろう。

 いかにも<日本人の会話>らしいもので、一種の典型といっていい。
小津のシナリオは脚本家野田高悟との共作が多く、
二人っきりで旅館にこもって少しずつ書いてゆくのだ。
ワン・シーン書き上げるごとに、酒席になったらしい楽しい仕事ぶりだったという。


「会話の日本語読本」 その2 鴨下 信一

2014年06月24日 13時51分54秒 | 日本語について
 「会話の日本語読本」  鴨下 信一 著  文春新書 文藝春秋 2003年 

 「会話を途切らせないためのやりとり」

 ここで使われている(里見 淳の「縁談窶(やつ)れ」大正14年の作例)
「何がいやなもんか」
「嘘ばッかり」
「嘘なもんかね」のやりとり。

「馬鹿だね」
「なんだよ」
「いいわ、よすわ」
「じゃアいいじゃアないの」
「なんだい、これア」(他の作例、省略)
などは皆それぞれ、意味を持った文ではあるけれども、その表面の意味よりも、
あるリズムで会話を途切らせないことを主な目的として使用されているものだ。

 煩わしいのを承知で書き抜いたのは、
現在これらの<あいづち・合いの手>言葉がほとんど絶滅したからである。
(あの「もし、もし」ですらケイタイになって使わなくなった)

 正確にいえば現実の会話ではまだわずかに残っているけれども、こんなに豊富ではない。
特にこの本で扱っているような<はじめから書かれた会話文>ではまったく滅びた。

 よく日本語の死語、単語が滅んでゆく現象が話題になる。
しかし、いまの日本語に少し注意をはらえば、
単語ではなく日本語の一種属がまるごと死に瀕していることがわかる。
<あいづち・合いの手)言葉がそれである。

 何故そうなったのか。
 日本人が会話に臆病でなくなり、あいづちや合いの手を入れずに会話を続けることが
可能になったのか。
身振り・表情が豊かになってこの種の言葉の代わりを果たすようになったのか。
 
 それとも、もう日本字の会話にはその裏に流れる陰のコミュニケーション、
そのために<あいづち・合いの手>言葉が必要だった日本人らしいもう一つの
真実のコミュニケーションなどなくなって、直裁でその分のっぺりとしたものになってしまったのか。

「会話の日本語読本」 その1 鴨下 信一

2014年06月22日 18時19分17秒 | 日本語について
 「会話の日本語読本」  鴨下 信一 著  文春新書 文藝春秋 2003年 

 「話し下手の日本人が発明した会話の妙案」 P-26

 「あいづち」「合いの手」「オウム返し」・・・
三つとも、こうした<日本語に関する本>ではあまり聞いたことのない名だろう。
もちろん文法上・学問上認められている名でもない。
しかしこれらの名称は日本では旧く以前から、
文芸以外のところで非常に重く用いられていた言葉なのだ。
まず、言葉を調べよう。

 <あいづち>、相槌と書く。
鍛冶職がトンテンカン、トンテンカンと鉄などの金属を打ち鍛える。
その工程のうちでは、どうしても二人で打たなければならない時がある。
鍛冶仕事の画で座っている鍛冶職の向かいに立って大槌をふりかぶっているのが相槌で、
向かい槌ともいう。
 
 これが昔からとても大事に重んじられた。
刀鍛冶などではこの相槌が良くないととても名刀は打てぬという。

 中略

 <合いの手>はもともと邦楽のほうの言葉だ。
歌と歌の間に入る楽器だけの演奏の部分をいう。
合い方とも書く。
それから民謡の囃し言葉も合いの手という。
民謡の間にハイハイとかドッコイセ、ソリャソリャ、ハイヤーとか入るあれである。

 中略

 <オウム返し>・・・あの鸚鵡が人の真似をして、
そのまま言葉を返すのがもとになっていることはたしかだが、
これだけは文芸のほうで昔から秘事として伝わっている言葉なのだ。

 それは返歌、歌の贈答のとき送られた歌に対して歌を返す、
その技術の一つで相手の歌をほとんどそのままに、ほんの少しだけ変えて返歌とすることだ。

 中略

<あいづち>も<合いの手>も、コロケーション(将棋を指す・碁を打つとはいっても、
将棋を打つ・碁を指すとはいわないように、語と語には特別な結びつきがあること)に従って、
あいづちを打つ・合いの手を入れるといえばそれは元の意味から派生して言葉の用法となる。
そして、その原意の生まれたジャンルで重い意味を持っていたことが
「小鍛冶」や「追分」の例でわかる。
とすれば、日本人の意識の中で<あいづち><合いの手>は言葉の用法としても
重要なものだったといえるはずなのだ。

「まんが日本昔ばなし」 市原 悦子

2014年03月29日 00時22分08秒 | 日本語について
 「ひとりごと」 市原 悦子 著  春秋社 2001年 

 「まんが日本昔ばなし」 P-133

 前略

 それから、人間ってすごくちっぽけだっていうこおとぉ、やるたびに思い知らされました。
「ほんとにちっぽけだ、人生は点でしかない」ということを。
どんなに素直になっても、いいことは起こらない。努力しても実らない。
理不尽なことがどんどん起こる。
でも、それでもこつこつ生きていくのが人間なんだということを、また深く思い知らされるという。
そこが不思議な魅力でした。

 何をやっても大したことはない。
「どうせだめなんだから、飲んだくれて、どうこうしちゃえ」とか。
「いいや、もう人生なんて」といってしまえばそれまで。
やはり、大きなもののなかで生かされていく、それが人間なのだと。

 中略

 やまんば(山姥)は、どういうふうにって?
やまんばはすっごく大胆で、怖いものがなくて。そして小さい虫もかわいがってね。
そういうイメージが湧き出るんです。
髪の毛がザァーッと長くて、オッパイはダラーッとして、プワーッと大きなからだでね。

 自分に暗示をかけるのね。
そして声の出し方なんていうんじゃないんです。
それこそからだの中のほうから、何かが出てくる。
創造力が、絵によって誘因されて触発されて、もう声が出てるのね。

 中略

 それから、昔の言葉をわかりにくいから、いまふうに直そうとか、そういうこともしなかった。
「わからなかったら、おばあちゃんに聞けばいいや」って。
それはそれで、よかったと思います。