民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

語り手のわたしと聞き手のあなたが
一緒の時間、空間を過ごす。まさに一期一会。

「歴史的かなづかいか、現代かなづかいか」 その1 斎藤 美奈子

2015年06月14日 00時05分48秒 | 日本語について
 「文章読本さん江」 斎藤 美奈子  筑摩書房 2002年

 「歴史的かなづかいか、現代かなづかいか」その1 P-183

 戦後の文章界は、久方ぶりの(といっても水面下ではずっとくすぶりつづけていた)国語国字問題からはじまった。敗戦の翌年の1946年、内閣の訓示・告示の形で「現代かなづかい」「当用漢字表」が公布される。また、その直前には最後まで文語文にしがみついていた公用文の世界にも、とうとう言文一致体=口語文が登場した。いわずと知れた日本国憲法である。あの憲法は、内容もさることながら、口語文で書かれているという点で、日本語文章史の転換点に立つ文章でもあったのだ。

 漢字制限の問題も合意するものとして、かなづかい問題を中心に考えてみよう。生まれたときから現代かなづかいで育った私たちにとって、歴史的かなづかいに固執する心情は理解しにくいものがある。けれども、制度の改変期には必ず強硬な反対意見が出てくるもの。言論界にも、学者や評論家のあいだで、かなづかいをめぐる論争がまきおこった。反対論者の代表選手は小泉信三、福田恒存、高橋義孝ら。対する支持者は桑原武夫、金田一京助らである。「中央公論」「知性」誌上でくりひろげられた福田と金田一のやりとりは秀逸なものだった。内容もさることながら、ただの応酬として見物するだけでも、歴史に残る言語プロレスといっていい。

 その2に続く

「旧かなづかひで書く日本語」 萩野 貞樹

2015年06月12日 00時38分36秒 | 日本語について
 「旧かなづかひで書く日本語」 萩野 貞樹(はぎのさだき)昭和14年生まれ 幻冬舎新書 2007年

 「山月記」の醜い模造品

 原作を改変して出版されては参つてしまふといふことを、私は本書のあちこちで言つてゐますが、ここでは主に、新かなへの改変は非文化的であり、まことに失礼であるといふ点と、文章が現実に意味不明となつて、せつかくの書物が屑物化するといふ点について少々レポートいたします。
 明治書院版高校国語教科書に、中島敦「山月記」が出てゐました。まことに文句の選択です。文字通り名作と称すべき作品で、独特の緊張感に溢れたあの文章は、多くの若者に是非玩味させたいものです。
 その中にかういふ一節がある。

 叢の中からは、暫く返辭が無かった。しのび泣きかと思はれる微かな聲が時々洩れるばかりである。

 これが教科書では次のやうになつてゐます。

 草むらの中からは、しばらくかった。忍び泣きかと思れるかすかなが時々れるばかりである。

 改変部分を太字(赤字)にしてみました。改変・改竄(かいざん)はこの例では漢字の字種、漢字の字体、仮名遣、小書き、の四項目にわたつてゐる。改変教科書版の49文字うち16字は原文には存在しないものです。
 皆さん、少し驚きませんか。こんな短い文章の中で、ほぼ三割の文字が入れ換へられてゐるのです。似たやうなもんぢゃないか、といふのとは少しレベルの違ふ話ですからそのつもりで。
 ほぼ三割といつたら短歌なら10字、俳句なら5字6字ですよ。そんなに入れ換へたらそれはもう原作とは全く別物です。しかも注意してもらひたいのは、中島敦「山月記」は純然たる文藝作品だといふことです。和歌俳句と同様のものです。もちろん作者は一字一句に神経を集中して書いてゐます。
 その文章を三割も変へてしまふ。原作者に対するこの上ない無礼といふものでせう。教科書の文字列は、当然「山月記」なんかではない。ただただ醜い模造品であり偽装文にすぎません。
 少なくとも場所が教育の場であるならば、これほど露骨な偽造文書を、ホンモノであるかに偽つて若者に売りつけ、しかも授業料を徴収したりするのは、非教育であるのみならず、刑法にも該当しようかといふ犯罪です。
 ところが文部科学省および教育界は、「それがよいことだ」とするわけです。かうして60年以上にわたり、若者に贋物を与へて贋物に慣れ親しませてきました。
「それは悪いことである」といふのが本書著者の考へ方です。読者の皆さんはいかがですか?

「文章は接続詞で決まる」 石黒 圭

2015年05月07日 00時04分34秒 | 日本語について
 「文章は接続詞で決まる」 石黒 圭  光文社新書 2008年

 「プロでも気遣う接続詞」 P-14

 読者にわかりやすく、印象に残るような文章を書きたい。その気持ちは、プロの作家であろうと、アマチュアの物書きであろうと変わりません。
 でも、そのためには、どこから手をつけたらよいのでしょうか。
 プロの作家は、接続詞から考えます。接続詞が、読者の理解や印象にとくに強い影響を及ぼすことを経験的に知っているからです。

 以下は井伏鱒二のエッセイ。

 二、三年前のこと、私は自分の参考にするために、手づるを求めて尊敬する某作家の組版ずみの原稿を雑誌社から貰って来た。十枚あまりの随筆である。消したり書きなおしてある箇所を見ると、その原稿は一たん清書して三べんか四へんぐらい読みなおしてあると推定できた。その加筆訂正でいじくってある箇所は、「・・・何々何々であるが」というようなところの「が」の字と、語尾の次に来る「しかし」または「そして」という接続詞に殆ど限られていた。訂正して再び訂正してある箇所もあった。その作家の得心の行くまで厳しく削ってあるものと思われた。あれほどの作家の作品にして、「が」の字や「そして」「しかし」に対し、実に気をつかってある点に感無量であった。

 太宰治の師でもある文豪・井伏鱒二が尊敬した作家が誰なのか、気になるところですが、一流のプロに尊敬されるような作家でさえ、推敲の過程で修正するのは接続詞なのだということは、注目に値します。

「世にも美しい日本語入門」 安野 光雅 藤原 正彦

2015年05月05日 00時09分35秒 | 日本語について
 「世にも美しい日本語入門」 安野 光雅 藤原 正彦 ちくまフリマー新書 2006年

 第一章 読書ゼミのこと P-12

 前略

 藤原 大学一年生を相手に読書ゼミをやっています。学生たちがとにかく、あまりにも本を読んでいないのです。いくら偏差値が高くても、それでは獣ならともかく、人間にはなれませんから、本を読ませようと思って始めたんです。もう十年ぐらいになります。主に岩波文庫を毎週一冊ずつ読ませるゼミで、クラスは二十名までと限っています。
 最初からこれを受講するための条件を公表します。まず、一週間に岩波文庫を一冊読むだけの根性。それから、一週間に岩波文庫を一冊買うだけの財力。その二つだけを条件としてあげるんです。これに怖けない子だけがくる。読む本は私が一方的に決めます。教室では民主主義は存在しません。私が「これを読んでこい」と命令する。

 安野 根性という条件は中でもいいですね。それに若い人たちと、同じ本について話せるというのはうらやましい。しかも、藤原さんの独断的なやりかたがいいです。いわゆる古典作品なら、すでに淘汰され、評価されてきたのですから、その読書が無駄にならないという保証が付いている、と信じられます。文学を読むことを強制しても、まずうらやまれることはないでしょう。私は、古典はいつまでも古びない、常に新しいと思っています。

 藤原 授業では、批評なり感想なり書いてきたものをもとに、皆でディスカッションする。感想でも批判でも批評でもなんでもい。書くものの長さは、特に制限なく自由に書け、と言います。私がそれを添削して翌週の授業で返す。文章力の向上にもなるし、もちろん知らない本を読んで教養も身につく。授業中のディスカッションで論理的な言葉の応酬をしますから、論理的思考の訓練にもなっています。
 その本を中心にディスカッションをするわけで、私と一対一のことも、皆で交じることもあります。
 これをやると、そこがまた大学生のいいところで、ほんとに変わります。
 たとえば、「戦前はまっくらくら。大正明治も自由はなく、女性は解放されておらず、ほんとに皆気の毒だった。江戸時代までの庶民は封建制度のもと、皆虐げられていた」という歴史を習ってきていて、現在の自分たちがいちばん賢く、偏見がなく、判断力もあると思っています。ところが、明治の人々の、あるいは大正の、戦前の、また江戸時代末期の本を次々に読むと、たった三ヵ月半ぐらいの読書ゼミの後で、逆にコンプレックスを持ってしまう。
「私たちほど最低な人間はいない。戦前の人も、大正の人も、明治の人も、私たちよりずっと素晴らしい人格や教養を備えていた。そもそも自分たちは、まともなものを何も読んでない」
「特攻隊で出撃する学徒兵は、前の晩に万葉集やニーチェを読んだりしている。田舎に残してきた恋人、父母、弟妹たちに手紙を書いているが素晴らしい文章だ。私たちはこんなものはとても書けない」
「いままでいったいわれわれは、何を習ってきたんだろう」
と、考えこんでしまう。もっと本を読まないと、この無知蒙昧のまま人生が終わってしまう、と目覚めてくれます。岩波文庫を十数冊読んでディスカッションするだけです。これが大学生の素晴らしさで、私にとっての醍醐味です。
 具体的には、新渡戸稲造『武士道』、内村鑑三『余は如何にして基督信徒となりし乎』、岡倉天心『茶の本』とか、鈴木大拙『日本的霊性』、山川菊栄『武家の女性』。わりと新しい方では『きけわだつみのこえ』とか、宮本常一『忘れられた日本人』、無着成恭『山びこ学校』などです。
 たとえば、『忘れられた日本人』を読むだけで、農村も戦前、皆、逞しく生きていた。おばさんたちは田植えをしながらエロ話をしあい、貧困を笑い飛ばしながら快活に生きていた。そういうようなことがわかって、皆びっくりします。

 後略

「日本語が世界を平和にするこれだけの理由」 金谷 武洋

2015年04月30日 00時03分22秒 | 日本語について
 「日本語が世界を平和にするこれだけの理由」 金谷 武洋 飛鳥新社 2014年

 はじめに P-2

 日本の学校の国語の授業では、日本語の本当の姿が教えられず、可哀想なことに生徒たちが根本的に間違った文法を習わされている―――そう言われれば皆さんはさぞ驚かれることでしょう。
 しかし、まぎれもない事実なのです。

 中略

 諸悪の根源は、実は英文法です。いや、英文法自体に罪があるわけではもちろんありませんが、国語の授業で教えている日本語の文法は、明治維新、つまりおよそ150年も前から英文法が土台になっていて、そのことが大問題なのです。
 悪いのは学生でも一般の方でもありません。うすうす気づいていながら日本語文法を明治以来の「学校文法」で教え続けている国語の先生たち、そしてその後ろにある文部科学省のお役人、そしてそうした不備を正しく指摘した学者がすでにいたのにそれを無視して、客観的、科学的な学問的研究を怠ってきた言語学者、とりわけ東京大学を始めとする「有名大学教授」や「名誉教授」たちに責任があります。

 後略