民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

語り手のわたしと聞き手のあなたが
一緒の時間、空間を過ごす。まさに一期一会。

花ふきんの歴史(その2) 近藤 陽絽子

2016年11月03日 00時25分23秒 | 伝統文化
 秋田に伝わる祝いの針仕事 「嫁入り道具の花ふきん」 近藤 陽絽子 暮しの手帳社 2013年

 花ふきんの歴史(その2) P-9

 さまざまな模様が施されたのは、針仕事の見本帳としての役割も果たしていたからではないかと思われます。使い古した花ふきんに鋏を入れて糸をほどき、刺し方を覚えることもあったでしょう。用を満たすことはもちろんのこと、ハレとケのしきたりがわきまえられております。先人の知恵と祈りが、美しい模様を生み出したのでした。
 昔の絹糸は染料が落ちやすく、花ふきんを水に通すと淡く色づきました。その姿に人々は「婚家の色に早く染まるように」という思いを重ねたものでした。けれども、実際に水にくぐらせてみるとわかることがあります。たしかに花ふきんは色づいていきますが、どんなに使い込んでも、四方の縁だけは決して染まらないのです。婚家で幸せになっても、実家の色をそっと忘れずにいてほしい、そんな母心の表れなのでしょうか。
 この手仕事の風習がいつ消えたのか、定かではありませんが、大正時代の終わりまでは続いていたようです。昭和になるとちゃぶ台を囲んで食事をするようになりました。タオル地のふきんが広まったこともあり、花ふきんは用の場をなくしていったようです。

花ふきんの歴史(その1) 近藤 陽絽子

2016年11月01日 00時04分14秒 | 伝統文化
 秋田に伝わる祝いの針仕事 「嫁入り道具の花ふきん」 近藤 陽絽子 暮しの手帳社 2013年

 花ふきんの歴史(その1) P-8

 花ふきんは全国各地にそれぞれの特長をもって作られていると思います。茶道具などのいろいろなものに掛けふきんとして、また飾りぶきん、お櫃の炊き立てのごはんの湯気とりにと、用がしっかりとしているように思います。使い道にも各地の特長があるかと思います。
 江戸時代には、武家の子女たちの行儀見習いや針仕事の手習い、精神修養としても奨励されたことがあったようです。たしかに昔から伝わる模様のなかには、貞淑さを感じさせる武家風の模様とあでやかな町家風の模様があるように感じられます。
 時を経て、花ふきんは嫁入り道具のひとつとなりました。何枚もの花ふきんに、それぞれ異なる模様を施し、嫁ぐ娘に手渡します。婚家の門をくぐったら二度と戻れないと言われた時代、それは母が娘に伝える祝いの針仕事でした。
 その頃の家庭では、ひとりひとりがめいめいのお膳で食事をしていました。大家族の時代なので、お膳の数もたくさんあります。そおため台所を預かる女のj人たちは、お膳をとりちがえないよう、模様を縫い込んだふきんをかけておくようになりました。


秋田に伝わる祝いの針仕事 近藤 陽絽子 はじめに

2016年10月30日 00時17分27秒 | 伝統文化
 秋田に伝わる祝いの針仕事 「嫁入り道具の花ふきん」 近藤 陽絽子 暮しの手帳社 2013年

 はじめに P-4

 かつて、嫁ぐ娘の幸せを願い、さまざまな祈りを込めた模様を、さらし木綿に刺し子で施したふきんを持たせる風習がありました。「花ふきん」です。産声を上げたときから、幸せを願って少しずつ刺しためた花ふきんは、母の想いのたけです。
 数年前に花ふきんの展示をした際、年配のご婦人が膝まずいて涙を流されたそうです。身体のどこかで「母のぬくもり」を感じたのでしょうか。また、『暮しの手帳』で掲載されたときは、全国の方々から反響が多いとのことでした。それはそれぞれの地で刺し子のふきんがあり、身近で使用されてあったからだと思います。
 わたし自身は、大好きだった祖母から刺し子を教わりました。73歳になった今でも、祖母の膝のぬくもり、手の皺が思い出されるのです。私に針を持たせるのは、そんな祖母と想い出からです。
 花ふきんは、今ではもう昔のような、嫁入り道具としての華やかな「用」はありませんが、毎日使う器のように、生活の中でそれなりに「用」をなして、潤いとなればいいのです。電気釜の上、茶道具のほこりよけ、そのほかの物の上に、威張らずこっそりと、微笑んでいる。有るのが当たり前、無くなれば気になる。そんな存在。「母は――、家内は――、たかがふきんに、よくもこれほど一針一針根気をつめるもんだ」なんてしみじみと家族に眺めてもらえたら、それはうれしい。
 花ふきんの記事をみて、刺してみたいという方に「上手く刺そうとするのではなく、ただただ無心に真っ直ぐに針を進めることです」と、運針の心得だけをお伝えしたことがあります。(中略)
 本格的に刺し子をはじめてから、30数年が過ぎました。他人様に教え、教わる日々でした。先人の暮らしの知恵に感謝しながら、昔ながらのしきたりを守り、かぎり無い模様(刺し)が出来ました。その中の、ほんの数十種をご紹介します。みなさまの刺し見本となり、少しでも刺す喜びをお伝えできたら幸せです。


「瞽女唄の特色」 斎藤 真一

2015年01月19日 00時35分35秒 | 伝統文化
 「瞽女(ごぜ) 盲目の旅芸人」 斎藤 真一  日本放送出版協会 1972年(昭和47年)

 「瞽女唄の特色」 P-187

 瞽女唄には一見くどくどと口説き込んだ大変意味のむずかしい唄がある。
たとえば祭文松坂や口説きのように非常に長い一段三十分もの語り物もあるが、
これらは昔言葉、侍言葉で彼女たちが伝統をある種の盲目的と思えるほど素直に維持したためだと思う。しかし、けっして当時としてはそんなにむずかしい言葉ではなかった。
なぜなら今六十歳以上の老人は、その意味をよく解し、涙をながしていつまでも聞き入り、
今日は何段目、明日は何段目とその先を、幼児のごとく待ち焦がれていたからだ。
そしてろれらの語り物はくどくどと面白おかしく、そして悲しく、
すばらしい人間絵図の展開でもあった。

「瞽女さんよ、明日の晩も泊まって次を聞かしてくんないかね。最後はどうなるかね」
と村びとはしきりとせがみ、話のなりゆきを案ずるばかりの熱の入れ方であった。
だから今の人にはこれらの段物を一聞して、
なんとくどいむずかしい意味の文体だと思うかも知れないが、
けっして形だけの理性にふりまわされた唄ではなく、当時の人びとの本能に食い入るものであった。

 私は唄というものは、理屈ではなく本能的なものでなくてはならぬと思っている。
感動でなくてはならぬと思っている。
しかしいたずらに精神的でありすぎたり、また逆に本能的に個性的になりすぎてもだめだと思っている。唄はたえず民衆と直結していなくてはならぬし、
何といっても、真実の人間の歓びや悲しみでなくてはならぬはずでもある。
人間の命のない唄ほどつまらないものはない。
人びとは理性を尊びすぎてメカニックになったり、
本能を重要視しすぎて動物的になり下がったりするものだ。
体内にこんこんと流れる血のような唄、それに理性の喜びをあたえたのが真の人間の唄であると思う。(略)
知性と教養と情感の三位一体は遠い昔から人間のもとめた一つの美の鉄則でもあった。

 私は最近よく僻地の農村を巡って時にふれ、折にふれて、
文明からかくぜつされた村の人びとが親切で素朴で実直で人柄のいいのに驚くことがある。
教養は大学教授や賢夫人だけにあるものではなくて、僻地の農家の婦人にもあったりするのである。
そこの魚屋さんのおかみさんにあり、茶屋女にあり、遊女にだって存在している。
むしろ全く正反対であった。
その情感や、やさしく親切で心ある教養に心うたれる。
知性だけの冷たい才女はほとほとごめんである。
瞽女唄は、情感の唄であり、すばらしい教養の唄であるといつも思っている。

 

「 瞽女の荷物」 斎藤 真一

2015年01月17日 00時12分17秒 | 伝統文化
 「瞽女(ごぜ) 盲目の旅芸人」    日本放送出版協会 1972年(昭和47年)


 「 瞽女の荷物」 P-143

  瞽女さんの荷物であるが、それは遠出の旅ほど多かった。
信州など一ヶ月以上の長旅には、まるで引越し荷物のそれを連想させるほどの膨大なものであった。
布団包みぐらいの無地の丈夫な大風呂敷の中に、日常雑貨のいっさいが上手に包みこまれ、
縦縞の柄の木綿でできた二尺ぐらいの幅広い連尺(れんじゃく)という紐で肩に背負っていた。
四貫目もの荷を背負うと、紐が肩に食い込み、初旅の若い娘だと重さのため腰がふらつき、
休憩の後など、なかなか立ち上がれなかったという。
荷物はそれぞれの娘によって多少異なるが、大体はつぎのようなものであった。

 ・夜座敷でうたう時の晴れ着一揃い(この中には帯の締め替えが一本入っている)
 ・湯上り二枚
 ・腰巻三枚・長襦袢一枚
 ・寝巻き・単衣(ひとえ)一枚
 ・袢(はん)ちゃ 着替え一枚(袢ちゃは、旅の道中に着ている袂の短い羽織である)
 ・髪箱(この中には、水油・鬢付け油、堅口とやわらか口の二種、黄楊(つげ)の梳(すす)き櫛、ふけ取り櫛、などが入れてあり相当重い箱になっている。またこの髪箱は黒い油紙にくるまってあり、形もおもしろい)
 ・塵紙一しめ、石鹸、手拭、歯磨き(新聞紙は髪付け油を使うときに多量に必要である)
 ・薬箱の中には、毒消し、須川の百草園(胃腸の薬)傷(きず)薬として(ムヒ、ヨードチンキ、
キンカン、包帯、その他頭痛トンプク類)
 ・桐油(とうゆ)合羽(トイと言う。これは 桐油の種子を圧搾して得た油を日本紙に塗った合羽である。少し重いが完全防水になる)
 ・弁当箱(昔は楕円形の、外は朱漆で塗り上げた木製のメンツというものだったが、やがて行李弁当に変わった)
 
 瞽女さんとすれば、これらの荷物は、やはり軽くて少ない方がいいに違いないが、
途中で不自由するより、重くてもさしていとわなかった。
旅に出ると、何としても先立つものはお金であり、できるかぎり、
旅先で塵紙や石鹸など小さな物でも買わない習慣がついていたし、
いつも人里離れた裏街道の山野を歩くので、いつ、どこで、何が必要かを、
はっきり意識して生活していた。(略)

 そしてこれらの大荷物のうえに、今ひとつ合切(がっさい)というものがのっけられた。
合切は、一切合切という語源でもある。
縞柄の筒のような袋であって、中に弁当やお菓子箱類、旅の途中でたえず出し入れする日用品、
紙とか石鹸、薬などが入っており、両端を細ひもでしめるように作られている。
さしずめ今のリュックサックの外ポケットの役目を果たしている。
その外に三味線を持っていた。
(略)三味線は瞽女の命であり大切にされていたので、
桐油袋といって合羽と同じ防水になったものに入れられ、
途中でにわか雨にあっても心配のないようにされていた。