民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

語り手のわたしと聞き手のあなたが
一緒の時間、空間を過ごす。まさに一期一会。

「キャラクターと間取りまで考える」 立川 談四楼 

2013年11月13日 00時14分51秒 | 伝統文化
 「記憶する力 忘れない力」 立川 談四楼 著  講談社新書 2010年

 「キャラクターと間取りまで考える」 P-109

 ケイコの折の質問はもちろん許されます。
分からないところを解決するのはいいことだからです。
質問しないと分かっているものだと判断され、後で往生します。
後輩の質問に答えられないからです。
噺の出どこ(出典)、それぞれの流派の演出法、決まった型や形などはやはり確認しておく必要があるのです。

 二つ目になるかならないかの頃、ケイコをつけてもらいながら、質問を受けたことがあります。
逆質問ですね。
いや、あれは詰問でした。
そう、詰問の嵐、談志が速射砲のように言ったのです。

「おまえが演る八五郎の年はいくつだ?」
「二十四、五かと」
「仕事は?」
「大工です」

 この辺まではよかったのですが、

「身の丈、身長は?」
「太ってんのか、痩せてんのか?」
「カミさんはいるのか、一人者か?」
「酒はどれくらい飲む?」
「バクチは好きか?」
「ケンカはどうだ?」
「生まれはどこで親はどうしてる?」

 私があまりに受身で手応えがなかったための質問かと思われますが、まったく答えられませんでした。
でも、詰問は更に続いたのです。

「隠居の年はいつくだ?」
「連れ合いの婆さんの年は?」
「いくつで隠居したんだ?」
「それまでの仕事は何だったんだ?」
「倅に家督を譲ったとして、その倅はどこで何してるんだ?」
「倅はときどき来るのか?」
「こっちから行くのか?」
「孫はいるのか?」
「で、八公はどのくらいの頻度で隠居を訪ねてくるんだ?」

 グゥの音もでませんでしたね。
そこまで踏み込んで考えたことはなかったのですから。
ダメ押しがありました。
「そんなことでよく落語をやってるな」です。

 「間取りが分かって演っているのか」との詰問も堪(こた)え、頭に思い描くことにしました。
隠居の家は八っつぁんの住む九尺(くしゃく)二間の棟割長屋と違い、小さいながらも一軒家で、戸は引き戸です。これを開け、

「こんちは」
「おや八っつぁんじゃないか、まあ、お上がり」

 入ったところが土間、三和土(たたき)で、上がり框があって、すぐの部屋にご隠居。
ご隠居の前には長火鉢があり、五徳の上の鉄瓶からは湯気が上がっている。
で、その辺に猫がいたりいなかったり。
次の間は六畳で、床の間にはご隠居自慢の掛け軸がかかっていて、これまた自慢の屏風がある。

「婆さん、八っつぁんが来たよ。お茶入れて」

 ご隠居の左後ろにお勝手があり、婆さんはそこにいる・・・・・。
 これから二人のやりとりが始まり、間取りは直接お客に伝えるわけではありませんが、頭に思い描きながら演じると、まず演者自身が安心するのです。

 後略

「八人芸」 立川 談四楼

2013年11月11日 00時05分01秒 | 伝統文化
 「記憶する力 忘れない力」 立川 談四楼 著  講談社新書 2010年

 「仕事に幅を持たせる厚み」 P-106

 前略

 立川流でいうと、落語だけでなく唄も踊りもということで、それが芸の厚みにつながるのです。
 
 この反面教師が、他の一門のある前座クンです。
ケイコをつけ、「覚えた」というので”上げ”に来たのですが、その落語を聞いて驚きました。
いわゆる”八人芸”と言われる演じ方なのです。

 八人芸とは登場人物を描き分ける時、必要以上に声音(こわね)を変えることです。
女や子どもの声を高く張り、大家や隠居の声を喉を絞って低くするというようなことで、
女を演じる際、何度も襟元に手をやったり、鬢(びん)を掻(か)き上げる仕草もそれに当たります。

 当人は人物になりきっているつもりなのですが、それは表面的ななりきり方で、
八人芸は客からすれば目ざわり耳ざわりでうるさく、落語家としてやってはならないことの一つなのです。

 お客との信頼関係が大切です。
女であること、隠居であることが伝わればいいのです。
お客が了解したらそれでよしで、あとはもう普通に演じればいいのです。
お客の信頼が得られるか否かが、そこにかかってきます。
前座や二つ目がお客に身を入れて聞いてもらえないのはそこに問題があるからで、
また、一瞬のうちにお客との信頼関係を結ぶのは至難の業で、何度も何度も高座に上がり、
ひどい目にあいながら体で覚えていくものなのです。

 中略

 前座クンは、アマチュア落語の経験がありました。
八人芸でウケてきたのです。
それでついということなのですが、プロはそんなあざとい演出はしません。
淡々と語りつつ、お客の頭の中にシーンを現出させるのです。

 後略

「風が吹けば桶屋が儲かる」 立川 談四楼

2013年11月09日 00時16分22秒 | 伝統文化
 「声に出して笑える日本語」 立川 談四楼 著   光文社 知恵の森 文庫  2009年

 なぜ風が吹くと桶屋が儲かるか?

 「風が吹くと、昔の道路は舗装されてませんから、埃(ほこ)りが立ちますね。
この埃りが目に入り、目を患う人が増えます。
人は目を患うと外出がままならなくなります。
しかし、人はどんな状況下にあっても娯楽を求めるものです。
で、屋内の娯楽に関心を向け、唄などを中心とした邦楽に親しむわけです。
邦楽には三味線が欠かせませんね。
その三味線の需要がグングン伸びます。
三味線の皮は何でできているかご存知ですよね。
そう、猫です。
三味線の需要が増えるということは、猫の需要が増えるということです。
世の中から猫が姿を消します。
猫がいなくなるとどうなりますか。
そう、鼠(ねずみ)が増えるんです。
その増えた鼠が桶を齧(かじ)るんです。
で、新しい桶を売ったり、齧られた桶を修理したりで桶屋が儲かる、というわけなんです。」

「風呂敷」 古今亭志ん生

2013年11月07日 00時48分28秒 | 伝統文化
 「声に出して笑える日本語」 立川 談四楼 著   光文社 知恵の森 文庫  2009年

 (古今亭志ん生の)「風呂敷」という落語では、
女房を相手に怪し気な中国(もろこし)の諺(ことわざ)を振り回す。

 「『女三階に家なし』っておめえは知らねえだろう」
 「何だい、そりゃ」
 「いや、だから、女は三階にいちゃいけねえってンだ。
一階に用があったらいちいち降りてこなくちゃいけねえだろう。
だから女は一階にいろと、こういうこった。

 『じかに冠(かんむり)をかぶらず』ということを言う。
じかに冠をかぶったら痛いだろう。
だから冠をかぶる時にゃガーゼかなんかをまず敷いて、それからかぶれという戒めなンだ。

 それから『貞女、屏風(びょうぶ)にまみえず』と言う。
貞女がいるのはいいンだ。
貞女がいるのはいいンだけども、その前に屏風があったらせっかくの貞女が見(め)えなくなっちゃう。
だから貞女の前に屏風を立てちゃいけねえという教えなんだ、わかったか。

 それからこういうことを言うよ。
『おでんに靴をはかず』だ、どうだ」
 「なんでおでん食うとき靴をはいちゃいけないンだよ」
 「バカだなァおめえ、考えてもみろよ。
おでん食うとき靴をはいててごらん。
屋台を引いてるおでん屋のオヤジはどう思う?
あ、この人は靴をはいてるけども、カネを払わずに駆け出したら早えだろうなって心配するじゃねえか。
だからおでんを食うときにゃ下駄とか雪駄にしろということなンだよ・・・・・」

 ものすごい解釈だ。
初めて聞いた時から笑いっぱなし、
こういうのって元の諺を知らなくても演者のキャラクターで笑えるんですね。
因(ちな)みに元の諺は、順に「女三界(さんがい)に家なし」「李下(りか)に冠を正さず」
「貞女両夫(りょうふ)に見(まみ)えず」「瓜田(かでん)に靴を納(い)れず」であります。
三界が三階、李下がじか、両夫が屏風、瓜田がおでん、
すべてそこからの展開で、いや志ん生、飛びっぷりが素晴らしい。

 この「風呂敷」youtubeで、唯一(私の確認している限り)、動いている志ん生が見れます。

 https://www.youtube.com/watch?v=LryfU7Ej9Ls

「立川談志遺言大全集」 前書き

2013年04月26日 00時30分52秒 | 伝統文化
 「立川談志遺言大全集」 書いた落語傑作選 一  第一巻(全十四巻) 講談社 2002年

 前書き

 前略 

 また自慢を始めるが、談志(わたし)の落語集は面白い。
ということは、読んでいて面白いのだ。
ほかの噺家の本は、噺家が喋ったのを速記で起こしてまとめているが、
私は全編書いた。
文才があるんですよ。
噺家の分際(文才)で。ウヒィ・・・・・・

 落語には、その頃の人生のすべてがあった。
男と女、親と倅、母と子、遊び人、遊里(ゆうり)、博打場、旅、大名、喧嘩、四季の行事、
金、夢、名誉、実際にあったこと、武士、町人、田舎の人、恋、
つまりその頃の全てがその舞台となり、対象となった。
そしてその背景は一口に言えば、そこに生きた人間である。

 その人間の苦しさ、楽しさ、嫌らしさ、執念、無念、・・・・・等々、
これらを交差させ、人間を描いた。
それに己を重(だぶ)らせた。

 それらが「一つの作品」として完成?」したと思った時、落語は庶民から離れていった。
あとは演者のパーソナリティのみである。

 この全集、立川談志という落語家を通しての発表であり、
加えて、人間の奥底にあるデイモンというか、幻想(イリュージョン)というか、
それらをひっくるめての挑戦である。
現状はその途中なのだ。
それを「読み手」という読書に判りやすく一冊々々の本にした、ということ。
でも、もう後がない。
これを遺(のこ)して、後に続く者(無きゃいい)に・・・・・、
いいや、面倒臭えや、人生成り行きだ。

 2002年1月                   立川 談志