民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

語り手のわたしと聞き手のあなたが
一緒の時間、空間を過ごす。まさに一期一会。

「声が生まれる」 音が聞こえる その2 竹内 敏晴

2016年12月08日 00時14分40秒 | 朗読・発声
 「声が生まれる」聞く力・話す力  竹内 敏晴  中公新書  2007年

 音が聞こえる その2 P-11

 極めて単純化して言い切ってしまうと、聞こえる音と対象が一つになって、ああ、これはこれの音か、とわかるためには、釘を打つ仕草が目に、音が耳に、同時にこちらに伝わる、靴を踏みつける身動きと音とが一緒に響いてくる、という直接さが要るのだ。だから姿の見えない鳥の啼き声などはなんのことかなかなかわからない。

 人の声の聞き分けについては殊更にそれが複雑だ。わたしの生きている環境では聞こえる音は圧倒的に人の声が多い――というよりは生活の必要上そちらに向けてわたしのからだが常に身構えているので、そのうちに、鳥や虫や風の音などは注意の圏外へ追い出されて、聞こえなくなってしまうのだ。聞こえ始めた頃の音の無差別な洪水は、音の分節化がいくらかでも進むにつれて、人の声を中心にした選択的な世界にぐんぐんと狭まってゆく。

 人の声はみな似ている。人の声だとわかるだけでは用をなさない。だれの声だと聞き分けることができなくては意味がない。面と向かってことばを聞けばすぐわかるように思われるが、実はそういう時は声を聞いていないのだ。唇の動きをと発語の聞き分けには注意を集中していて、それが単語の発音として、やがて文の発音として一致してくれば、ことばの意味がわかる。声は無自覚に記憶に蓄積されるだろうが、自覚的に聞き分けることには直接につながらない。
 たとえば、肩を叩いて「オハヨウ!」と呼びかけられる。ビックリして振り向くとそこに顔がある。あ、これがこいつの声か、と気づく。この体験があれば、声が聞き分けられた時かれの顔が浮かぶ。声は声だけで聞き分けることはできない。人と人とのふれあいにおいて、特に呼びかけられたことに気づくことで、はじめて音源のひとりひとりに気づいてゆくのだ。

 竹内敏晴 1925年(大正14年)、東京に生まれる。東京大学文学部卒業。演出家。劇団ぶどうの会、代々木小劇場を経て、1972年竹内演劇研究所を開設。教育に携わる一方、「からだとことばのレッスン」(竹内レッスン)にもとづく演劇創造、人間関係の気づきと変容、障害者教育に打ち込む。


「声が生まれる」 音が聞こえる その1 竹内 敏晴

2016年12月06日 00時07分02秒 | 朗読・発声
 「声が生まれる」聞く力・話す力  竹内 敏晴  中公新書  2007年

 音が聞こえる その1 P-8

 中学四年生になった。
 この年(1940年)は大日本帝国にとって特別な年であった。
 
 (中略)

 幼い頃からかかりつけの、医師が当時開発されたばかりの新薬をわたしに投与したのだった。(中略)
 薬剤名はテラポール。後に副作用のゆえに製造中止になったと聞いたが、わたしのからだには劇的と言っていいほど顕著に効き目を現した。たぶん一、二ヶ月で、まず右耳の、ついで左耳の耳だれが止まった。左はその後も塞がったままの感じはたしか十年くらいも変わらなかったが、右耳には、少しずつ、しかし鮮やかに風が拭き入ってくるような感じが起こっていた。

 「ざわわ ざわわ ざわわ」で始まる歌(『さとうきびばたけ』があるが、わたしはあれを聞くと、耳が聞こえ始める時のようだ、と思う。音はあのように入ってくる――というより、起こってくる。あらゆる音が――くっきりしたのも、ただからだに響いてくる感じといった、音にもならぬ振動のようなものも――鋭いのもやわらかなのも、まだそれぞれを聞き分けるということの始まる以前に、ぜんぶ一緒になった「ざわわ」なのだ。

 一般的に、音が聞こえればことばがわかるものと思い込んでる人が多いが、そうはいかない。以前いくらか聞こえていた記憶があるので、気づき方の進度は明確でないが、たとえば試みに補聴器を着けてみるとわかるけれども、ありとあらゆる音がいっぺんに一緒くたに、いわば平等に飛び込んでくる。それを聞き分けることはむつかしい。鋭い音とやわらかい音が別のことだということはわかる。だがソレハナニカがハッキリするということは、それらに一つ一つ別の名前をつける――あるいは既知のことばをあてはめる――ことによってしか成り立たないのだ。これは風、これは鳥の啼き声、これは靴音、怒鳴り声、くすくす笑い、などと文節してゆくのは、すでに存在あるいは潜在している内的言語によるのであって、それが未発達なわたしのような場合には、その対象そのものがなかなか独立の音としての姿を現さない。

 竹内敏晴 1925年(大正14年)、東京に生まれる。東京大学文学部卒業。演出家。劇団ぶどうの会、代々木小劇場を経て、1972年竹内演劇研究所を開設。教育に携わる一方、「からだとことばのレッスン」(竹内レッスン)にもとづく演劇創造、人間関係の気づきと変容、障害者教育に打ち込む。

「声が生まれる」 音がない その3 竹内 敏晴 

2016年12月04日 00時07分23秒 | 朗読・発声
 「声が生まれる」聞く力・話す力  竹内 敏晴  中公新書  2007年

 音がない その3 P-6

 もっとも困ったのは軍事教練だった。なにしろ号令がわからないのだから、あわてて周囲に動作を合わせても必ず遅れる。わたしが怒られるのは仕方がないが、分隊なり小隊全体がなんどもやり直させられる。その罪を一人で背負う。面と向かって怒鳴り上げられても脅えはするがなにも聞こえぬ。遂には隊列から外されて、直立不動のまま捨て置かれた。

 ただ一つわたしが心おきなく打ち込めた授業、それは数学、なかでも幾何だった。これは先生に教えてもらう必要がない。後に湯川秀樹氏が同じ理由で好きだったと書いているのを読んでひどく嬉しかったのを覚えている。公理から第一の定理が導き出され、公理と第一の定理から第二の定理が生み出される。この人工言語は生活体験が要らない。「それゆえに」と「なぜならば」による抽象的な論理の構造は話しことばと全く無縁の世界である。わたしは熱中した。図形的な幾何は解答に決まりがない。補助線の発見一つで、三角形の問題として枠組みされている問いを、円の問題として解いたりすることができる発想の飛躍のおもしろさ。ただ一人ノートに文――つまり、ことばを書き綴ってゆく。この時だけはだれにもかかわることのない、耳の聞こえないものに与えられた孤独の充実の世界だった。受験に関係ないのでだれも熱を入れない立体幾何がおもしろくてたまらなくなって、遂に教科書にのっている定理の証明法に異を唱えて教師を壇上で立ち往生させたこともあった。はじめて知った、音声を全く必要としない、人工言語の思考法の存在は、言語障害者に不思議な安堵感をもたらしてくれた。

 竹内敏晴 1925年(大正14年)、東京に生まれる。東京大学文学部卒業。演出家。劇団ぶどうの会、代々木小劇場を経て、1972年竹内演劇研究所を開設。教育に携わる一方、「からだとことばのレッスン」(竹内レッスン)にもとづく演劇創造、人間関係の気づきと変容、障害者教育に打ち込む。



「声が生まれる」 音がない その2 竹内 敏晴

2016年12月02日 00時06分13秒 | 朗読・発声
 「声が生まれる」聞く力・話す力  竹内 敏晴  中公新書  2007年

 音がない その2 P-5

 ある日、教科書をひろげ、聴音器を耳に当て、カタカナのルビを書き込んだ紙片を睨みながら必死に授業を聞いて――いや見つめて――いた。ページをめくる時に紙片がヒラと下へ落ちた。取ろうと動いたとたんに教師が気づいた。つかつかと教壇を下りてくる勢いにわたしは凍りついた。紙片を拾い上げた中年の教師はじっと眺めていた――わたしは、この切ない努力をいくらかでも察してくれたら、と甘い望みを持ったのを覚えている――。かれは眼を上げると軽蔑しきった眼でわたしを睨み、口元をきゅっと歪めてなにか言った。手の中の紙をビリビリと破るとねじって床に捨て、踏みにじったままさっと教壇へ上っていった。発語の切れ端をわたしは口の形で読み取ることができた――ように思った。「コンナコト(シテルカラ)」「ダメナ(ンダ)」。聞こえの悪いものは相手の唇の形を読むことを否応なしにいくらかは身につける。この教師はアメリカ留学帰りで後年聞いたところではリベラルで温かいいい先生だったとの評判で、わたしは驚いた。わたしには鬼としか見えなかった。

 もともと耳は悪かった。幼い頃からツンボ、ツンちゃんと呼ばれ、耳だれが絶えず、学校に上がっても体操の時間に校庭で並んで左側からお日さまが当たると、その晩必ず左耳が熱を持ち、のどが痛み、飲むも食うもならず額と耳とに氷嚢をあて絶対安静で五日は寝てはいなくてはならぬという有様だったのが、それでも六年生にもなる頃に体力がついてきたのだろう、少しは安定して聞こえるようになっていたのだが、今度は決定的にひどくなった。丸く厚い頭蓋の内に、カーンというかドドドというか、聞こえない耳鳴りのうねる中にいる。

 竹内敏晴 1925年(大正14年)、東京に生まれる。東京大学文学部卒業。演出家。劇団ぶどうの会、代々木小劇場を経て、1972年竹内演劇研究所を開設。教育に携わる一方、「からだとことばのレッスン」(竹内レッスン)にもとづく演劇創造、人間関係の気づきと変容、障害者教育に打ち込む。