いつもとは違うジャンルのつぶやきになります。ご了承いただきます。
今日は雷雨。家に籠って図書館から借りている本を読んだ。「感受性」という言葉があった。私がこの言葉に最初に触れたのは大学時代だった。それ以来この言葉の意味合いについては、私にとって長年の課題となっている。
カウンセリングを学んでいた時に「感受性訓練(sensitivity training:ST)」を体験した。ごく簡潔にいえばより良い関係づくりのために自分と相手のことを理解するため集団で感受性を養う。10人前後のメンバーで、時間を決めたうえで輪を囲むように座る。トレーナーといい世話人はいるが、司会者でもないし積極的には話さない。話題もない。したがって始まりはしばらく沈黙が続く。やがてメンバーの誰かが、口火を切る。しだいに他のメンバーが参加するようになりグループが成長していく。
これらの訓練をするため3日間合宿訓練をしたときのエピソードに課題が潜んでいた。
その時のメンバーは10人ほどであった。合宿は毎日同じスケジュールだ。朝から夜まで食事やレクリエーションタイムの休憩を挟んで1時間半のSTを3~4回繰り返す。日ごろ講義を受けているスペイン人の講師がトレーナーだった。休憩時間に彼が畳に寝転がり、うたたねを始めた。メンバーのうち一人の女性が、そのトレーナーにそっと毛布を掛けた。居眠りでなく熟睡していたようでそのまま寝入っていた。
15分ほど経った時、トレーナーは起きだし怒り出した。「誰だよ。暑くて寝苦しかった。僕にはこの毛布はいらなかった」と。女性はもちろん、他(日本人)のメンバー全員は、彼の発言に驚いた。この女性は常に相手を思いやる気持ちのやさしい人だった。女性はトレーナーに講師として尊敬するのとは別に、好意を感じていた。私や他のメンバーの多くは、少々暑くてもこの女性の配慮に感謝こそすれ怒鳴ることはしないと思った。
日本と比較し欧米の文化の、特に心理面の違いを感じた。日本では、言葉を発したとしても、言外に配慮などの気持ちを込めて表現する。また、言葉の代わりに無言での行為で自らの気持ちを伝える。ある意味でこれらの言動を美徳として評価する傾向がある。しかし、欧米では自分の気持ちを言葉ではっきり伝えかつ行動にも表す。相手も言葉で表現する。言語によるやり取りが必須である。
このエピソード以来、果たして日本では感受性訓練は必要なのかと、考えるようになった。日本人は言葉でフィードバックしなくても行間でお互いの気持ちを読み取るという感受性は元々持っているのではないか。文化の中にすでに感受性を持っている。したがって、強いて感受性訓練を行わなくともよいのではないか。または、欧米の感受性訓練をとは違った角度でのトレーニングが必要ではないかと思うようになった。行間に秘めるのではなく、気持ちを言動でストレートに表現する訓練。あるいは相手を傷つけるのを恐れはっきり言わないのではなく、相手に反する意見や気持ちを表現するのに言葉で伝える訓練など。
政治の世界でもよく言われている。「相手に対してノーといえる外交」をと。
でも、実は私の中にもストレートに表現するのを躊躇する傾向がある。。上述した講師に言われた、「君は分からないところがある。しかし、とても日本を感じる」と。必要なのは欧米風の感受性訓練とは違った表現力を養うことではないか。私の疑問は未だに払しょくできていない。