標高330mのモノローグ

富士山の10分の1、東京23区最高峰の10倍の山間に暮らして20年。地域の自然や思いを綴ります。

「不作為の政治責任」。政治は不作為であってはならないが、私的には、時には「無目的」も必要。

2018-05-09 20:05:52 | 日記
昨日の報道番組でコメンテーターが、「(首相は)不作為の政治責任」を問われるとコメントしていた。これは現政権は女性活躍をうたい文句に発足したのに、首相はセクハラ問題についても何も語らないし、何も行っていない。黙秘しているだけだ。公約を推進するためにも、女性活躍以外にも加計・森友問題についても、積極的に取り組み、膿を出し切ってほしいというニュアンスであった。

「不作為」のという言葉を聞いて、私は次のような文言を綴った。「不作為の作為」だ。「何もしないことを遂行すること...」、つまり、何もしないことだ。黙して語らずという言葉があるが、個人の行為としては時には、動かないことは、評価できることもある。しかし、政治・行政は「何もしない」ということを、正当化してはならないのではないか。今日・明日の国民のために何かを為すのが行政だと思う。


話題は転ずるが、「不作為の作為」という言葉を浮かべると、これと意味は関係ないが、用法が似たフレーズを思いだす。
「無目的の目的」だ。私は、中学時代から、折に触れて思い浮かべるフレーズだ。記憶が定かでないが、何かの映画か、小説の中で語られたセリフという覚えがある。また、このフレーズを思い浮かべると「路傍の石」という小説が連想される。これは私の個人的な連想なのか、その作品の中に描かれていたのかは、まだ確かめたことはない。

いずれにせよ、「無目的の目的」は、私にとってはネガティブな響きでない。どちらかというとポジティブだ。平静な気持ちでとらえられる。

ある目的をもって行った行動が、思い通りにならなかった時に、「無目的の目的という言葉もあるではないか」と、後付けで「もともと無目的だったのだ」と言い訳がましく納得する。

ある時には、最初から無目的に街を歩く。歩いているうちに、新たな風景、店、建物、看板や花などを発見する。このようにいつも歩いているところを目的を持って歩く時より、発見できることが多いように思う。

小説や映画の「路傍の石」の内容はあまり覚えていないが、このタイトルを思うと、思い出す一場面がある。モノトーンのシーンだが、学生帽をかぶった少年が砂利道を行く後ろ姿で、カメラを路面に置いたアングルで撮ったものだ。左側には道端の小石が大きく映っている。これが私の連想する路傍の石だ。実際の映画の場面かどうかは定かでない。私の勝手な定義付けでは、少年は「無目的の目的」に向かってひたすら進んでいる。その傍らに少年を象徴する「路傍の石」が転がっている。

少年と石に、やや感傷的になった時の私を反映しているのかもしれない。
久しぶりの雨の一日。無為に過ごしたと思えば、そうかもしれないが、無為も時には必要なのだと思った一日だった。

(追記)明日は、会議があるのでブログは休みます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする