日常にバカンスを!

お台場に住むakkiitaner(アッキーターナー)のまったりな日常とぼやきっぷり、っぷり。

映画「ローマ法王の休日」は深いぞえ

2013年08月19日 | 健康 美容 旅行 エンターティメント 語学勉強



ちょっと前、
2013年3月13日に世界中が
新ローマ法王の誕生に沸き立って
いるような映像が
日本でも報道された。

大半の人が聖書すら
手にすることのない日本で、
ローマ法王のことなど、
誰がなっても同じやん、とことさら
話題になることもないわけで、
でも、なぜニュースとして
常に取り上げられるのかといえば、
信仰を云々するというより、
その組織として
カソリックの持つ力が
依然大きいからに他ならない。

うっそお、「神は死んだ」(ニーチェ)、んでしよ。
と思わない方が多分、
身のためだ。
私は密かに、
上智大学の躍進は、
(今でこそ早慶上とかいわれてるけど、
昔はMARCH以下だった)
カソリックの組織力あってのこと
だと密かに思ってる。

信仰には関係なくても、
組織としての宗教の力を
侮ってはいけないと思う。

信仰のシンボルというより、
世界一影響力を持つ
単なる宗教組織に
成り下がってしまったかのような
バチカンを
淡々と皮肉っている感
たっぷりなのが
この「ローマ法王の休日」
という映画だ。

映画館で見たかったのに
のがしてしまって残念に
思っていたところ、
昨日WOWOWでオンエア
されたのだ。

勿論、じっくりと見ようと身構えた。

が、見始めるや否や、
娘が帰ってきて、
玄関を開けるために
映画から離れなければならなくなり、
あと少しで終わるという
クライマックスで
旦那が乱入してきた。

かように主婦なんて、
見たい映画すら
ちゃんと見られないわけよね。

映画はかなりあり得ない展開を
見せる。まっ、映画だもん、
作り話なわけよな~

新しい法王を選ぶコンクラーヴェ
のシーンから始まり、
ほぼドキュメンタリーのような
タッチ。が、
ようやく決まった法王が、
逃げてしまうのだ。

さて、法王は最後まで
逃げ切れるのか、
一体どのようなオトシマイが
つくのか、て思って見ていたら、
本当にあり得ないシーンで
終わる。

余りに意表をつかれたので、
ホント、忘れ難い映画となった。
まっ、興味の、ある方は
ビデオで、確認してね。

法王が逃走中に、
街の人々と接する姿は
単なるくたびれた
おじいちゃんにしか見えず、
ホント皮肉がきいていた。
街の人々も、
法王とも知らず、
案外と冷たい。
逃走中の法王も、
我こそは選ばれし法王だぞ、無礼な、
なんて態度を取らず、
ただただおどおどしてる。

カウンセラーの元を
突然再訪したりね。

私たちが魂の救いを求めて
訪れるべく教会の、
その長たる人が
実は自らの救済を求めて
街を彷徨う姿は感動的だ。

だって、聖書にこうある。
あの聖パウロでさえ、
「『キリスト•イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった』という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。わたしは、その罪人のかしらなのである。」(テモテへの手紙第1章15節)
と書いている。

つまり、法王だから最も清いわけではなく、ましては偉いわけではない。
むしろ、罪人として
最も頭をたれるべき存在なのだ。

もし、真に信仰があれば、
聖パウロのように
'罪人のかしら'だと
告白せざるを
得なくなるはずなのだから。

かように人間とは
神の全き清さとはほど遠く、
神からの憐みを受けて、
ようやく生かされる存在
なのである。

そのことをこの映画は
バチカンを揶揄しつつ、
じっくり描いてくれている。

だから、世の誤解を正したい。
クリスチャンというと「清い人」
とか思うきらいがあるようですが、
違います。違います。

教会にいくと、
清い人そうな態度や顔をした人が
いっぱいなのが嫌でたまらない。
立派なクリスチャンなんて、
糞食らえ!
(あら、はしたない、おほほ)

私のように、
罪人だと認めたから
クリスチャンになった人も
いるのです。
罪人のかしらなのよ~
罪人のかしらなの~

コメント
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