広隆寺の近くに大酒神社がありました。はじめは行く予定がなかったのですが、バス停を探そうとしていたらみつけました。

太秦明神とあります。

扁額がわかりにくいですが、大酒とありました。
後から知ったのですが、明治時代の神仏分離政策に伴って、こちらの神社は広隆寺境内から遷座したもののようです。
この神社の名は、現在では大酒となっていますが、かつては「大避」あるいは「大闢」とされていたようです。
大酒だからお酒の神様、つまり松尾大社と同じく秦氏に関係がある神社だなとだけ思って参拝しました。
あとで御祭神を由緒書でみると、秦の始皇帝とあります。

また、大闢はダビデを意味するようで、この神社の名前はユダヤの王を表していると言われています。秦の始皇帝=ユダヤ人ということでしょうか。
広隆寺で木彫りの像がありました、兄姫(えひめ)、弟姫(おとひめ)=呉服姫、綾織姫も祀られています。
古事記にも、エヒメ、オトヒメはでてきます。ヤマトタケルの兄オオウスは、実の父、景行天皇と結婚するはずのこの2人の美女を奪います。タケルはこの兄を後にうつ話がありました。エヒメ、オトヒメはただ姉妹を指すのかもしれませんが、、。
また、大酒神社の祭りとして有名なのが牛祭りがあるようです。
摩多羅神が牛に乗って練り歩き、広隆寺敷地内で珍妙な祭文を読み上げて走り去ってしまうという京都三大奇祭のひとつのようです。
秦氏のルーツ、弓月国のあった中央アジア周辺にはミトラ教という教えが太古にはあり、その最高神は牛の頭を持つ神として伝えられているみたいです。
摩多羅はミトラなのか、中央アジアにゾロアスター教が出来る前の教えがミトラ教のようです。ということは、ユダヤ教とミトラ教にはなんらかの繋がりがあるのかな?
ミトラ教は弥勒教となりチベット仏教を経由して日本に空海が伝え、真言密教の蜜は弥勒を意味し、大日如来は弥勒菩薩であり太陽神とも紹介されていました。
広隆寺といえば、太秦殿の弥勒菩薩。ミトラと弥勒の繋がりもありそうです。空海さんが彫った地蔵菩薩が広隆寺には安置されています。
一から色んな教えが混じり合い派生し、日本という最果ての東の国に辿りついて、形を残したということでしょうか。
とにかく、牛祭りは、ミトラ教信仰の名残ともいわれているみたいですね。日本という国は色んな太古から持ち込まれたものを溶け込まして、それらを今に残す奥深い国だなぁと感心します。
色んなものが太古から混じり合いながらも、おまつりの中などに残し継続するところに日本の良さを感じます。
ところで、牛頭天王は素戔嗚様とも言われています。オオサケは悪いものを避ける意味合いもあり、また、牛頭天王は疫病を司る神のようであり、祇園にあります八坂神社の御祭神です。八坂神社は夜に参拝しました。
バスの時間がまだあったので、近くに他にも何かないかな?と検索すると蛇塚古墳がでてきました。
歩いて行けそうなので、大酒神社から広隆寺方面に引き返しGoogleマップを頼りに行ってきました。20分くらい歩きました。

嵯峨野台地の南縁に築造された古墳であり、名称の「蛇塚」は、石室内に蛇が棲息していたことに由来するとありました。

宅地化によって墳丘封土のほぼ全てが失われ、現在は石室が露出したようですし、発掘調査も実施されていないようです。
ところで、巨石を使用した大型石室をぐるっと一周しました。石室全長は17.8メートルにおよび、奈良明日香村の石舞台古墳にも匹敵するようです。昔石舞台古墳は行きました。
蛇塚古墳はこの辺りの古墳の中では最大規模であり、現存する京都府の前方後円墳としては最後期のものだろうとされます。
古墳時代は空白の時代とされ、書物が残っていないことから謎めいています。おそらく、古墳時代あたりの史実は後に残すと都合が悪く、焚書されたのではないか?と思っています。
嵯峨野地域では、蛇塚古墳以外にも様々な前方後円墳を中心とする6世紀以降の後期古墳が分布するようです。聖徳太子の全盛期あたりでしょうか。
主な古墳は秦氏の首長墓と推測されています。最大規模の蛇塚古墳は、今では住宅に囲まれていました。
また古墳自体も現在は囲いがあり石室内への立ち入りはできませんでした。
たぶん、立ち入りができても入らないかなとは思います。
朝からバス→歩き→バス→歩き、です。曇りの寒い日でしたがかなり歩きました。バスの時間が迫っていましたので、広隆寺前バス停まで早歩きでもどりギリギリでバスに乗る事ができました。