大善人へ身魂磨き

善でありたいと思う。日々精進。感情の渦に呑み込まれそうな時もあるけれど最後には明るく静かな大海原に和合したい。

夜の京都、祇園と八坂神社

2023-03-12 07:04:00 | 神社仏閣
日中は沢山歩きましたから、夕ご飯までホテルでゆっくりしました。京都駅近くに娘のおすすめのレストランがあるので行って食べてきました。


とても美味しかったです。


その後、駅近くで噴水のショーに出くわしました。この噴水ショー、貴船神社参拝の際

出会った台湾の彼女から夜、京都駅で噴水ショーがあるから是非見てね!とススメられていました。

みようと思って時間を合わせたわけではなく、たまたまショーが始まり美しい噴水ショーを見る事ができました。









そのあと、夜の古都京都を散歩しようと思い立ち、祇園にバスで行きました。


八坂神社はライトアップされていて本当に美しかったです。時間が遅いので夜は散歩気分に切り替えて八坂神社を散策しました。














八坂神社は、素戔嗚尊が御祭神です。素戔嗚尊=牛頭天王を祀るとも。また、京都三大祭りのひとつ祇園祭りは有名です。

疫病や富士山噴火が9世紀に立て続けにおこります。現世に怨念を残したまま亡くなった人々の怨霊の祟りであると考えられていました。


そんな中、牛頭天王(素戔嗚尊)を祀り、祟りを鎮める御霊会をおこなったのが祇園祭の起源とされています。9世紀から今に続く長い歴史を持っているお祭りが八坂神社で行われる祇園祭です。


コロナ禍(疫病)で近年一旦、「山鉾巡行」が中断されましたが、起源が疫病封じの神事であることは皮肉だなぁとその時も感じました。

祭りについて。


神輿の起源は大分県にあります宇佐神宮です。

おそらく渡来人のユダヤ系のレビ族が先頭に御神体を運んできたのが由来だと私は思っています。


その流れが京都へもつたわり、八坂神社の祇園祭になったと仮定すると、祇園という言葉が古代ユダヤの「シオン祭」から来ているという説や、祭り内でみられるユダヤの祭りに共通する様々な名残も説明ができます。


その後、夜の祇園をぶらぶらぶら散歩しました。



法観寺の八坂塔は、祇園を彩るシンボルなので、歩いて見に行きました。




臨済宗建仁寺派の寺院で、平安京以前に住んでいた八坂氏の菩提寺であったという説もあるようですね。


歴史の古さは京都でも屈指で、聖徳太子によって建立されたとも伝えられています。


八坂塔は、永享12年(1440)に足利義教によって再建されたのですが、応仁の乱で全ての伽藍が焼失するも、この五重塔だけが残ったようです。


1467(人の世空しい)応仁の乱。と覚えましたね。


争いは空しいです。


聖徳太子の説かれた、和を以て貴しとする世は素晴らしいですね。



もはやコロナはどこ吹く風なのか、昼間は人人人で外国からの方々も多い京都の街でした。しかし、人がいない祇園の夜は、また違う雰囲気で楽しかったですね。


食後の夜のウォーキング、少し寒かったですが、楽しめました。


祇園からは帰りのバスの時間を調べてなかったのですが、京都駅行きラストのバスに乗ることができました。


苦笑い。

危なかった、、です。








大酒神社と蛇塚古墳

2023-03-11 05:55:00 | 神社仏閣

広隆寺の近くに大酒神社がありました。はじめは行く予定がなかったのですが、バス停を探そうとしていたらみつけました。




太秦明神とあります。


扁額がわかりにくいですが、大酒とありました。

後から知ったのですが、明治時代の神仏分離政策に伴って、こちらの神社は広隆寺境内から遷座したもののようです。


この神社の名は、現在では大酒となっていますが、かつては「大避」あるいは「大闢」とされていたようです。


大酒だからお酒の神様、つまり松尾大社と同じく秦氏に関係がある神社だなとだけ思って参拝しました。

あとで御祭神を由緒書でみると、秦の始皇帝とあります。




また、大闢はダビデを意味するようで、この神社の名前はユダヤの王を表していると言われています。秦の始皇帝=ユダヤ人ということでしょうか。


広隆寺で木彫りの像がありました、兄姫(えひめ)、弟姫(おとひめ)=呉服姫、綾織姫も祀られています。

古事記にも、エヒメ、オトヒメはでてきます。ヤマトタケルの兄オオウスは、実の父、景行天皇と結婚するはずのこの2人の美女を奪います。タケルはこの兄を後にうつ話がありました。エヒメ、オトヒメはただ姉妹を指すのかもしれませんが、、。


また、大酒神社の祭りとして有名なのが牛祭りがあるようです。


摩多羅神が牛に乗って練り歩き、広隆寺敷地内で珍妙な祭文を読み上げて走り去ってしまうという京都三大奇祭のひとつのようです。


秦氏のルーツ、弓月国のあった中央アジア周辺にはミトラ教という教えが太古にはあり、その最高神は牛の頭を持つ神として伝えられているみたいです。


摩多羅はミトラなのか、中央アジアにゾロアスター教が出来る前の教えがミトラ教のようです。ということは、ユダヤ教とミトラ教にはなんらかの繋がりがあるのかな?


ミトラ教は弥勒教となりチベット仏教を経由して日本に空海が伝え、真言密教の蜜は弥勒を意味し、大日如来は弥勒菩薩であり太陽神とも紹介されていました。


広隆寺といえば、太秦殿の弥勒菩薩。ミトラと弥勒の繋がりもありそうです。空海さんが彫った地蔵菩薩が広隆寺には安置されています。


一から色んな教えが混じり合い派生し、日本という最果ての東の国に辿りついて、形を残したということでしょうか。


とにかく、牛祭りは、ミトラ教信仰の名残ともいわれているみたいですね。日本という国は色んな太古から持ち込まれたものを溶け込まして、それらを今に残す奥深い国だなぁと感心します。


色んなものが太古から混じり合いながらも、おまつりの中などに残し継続するところに日本の良さを感じます。



ところで、牛頭天王は素戔嗚様とも言われています。オオサケは悪いものを避ける意味合いもあり、また、牛頭天王は疫病を司る神のようであり、祇園にあります八坂神社の御祭神です。八坂神社は夜に参拝しました。


バスの時間がまだあったので、近くに他にも何かないかな?と検索すると蛇塚古墳がでてきました。


歩いて行けそうなので、大酒神社から広隆寺方面に引き返しGoogleマップを頼りに行ってきました。20分くらい歩きました。




嵯峨野台地の南縁に築造された古墳であり、名称の「蛇塚」は、石室内に蛇が棲息していたことに由来するとありました。





宅地化によって墳丘封土のほぼ全てが失われ、現在は石室が露出したようですし、発掘調査も実施されていないようです。


ところで、巨石を使用した大型石室をぐるっと一周しました。石室全長は17.8メートルにおよび、奈良明日香村の石舞台古墳にも匹敵するようです。昔石舞台古墳は行きました。


蛇塚古墳はこの辺りの古墳の中では最大規模であり、現存する京都府の前方後円墳としては最後期のものだろうとされます。


古墳時代は空白の時代とされ、書物が残っていないことから謎めいています。おそらく、古墳時代あたりの史実は後に残すと都合が悪く、焚書されたのではないか?と思っています。



嵯峨野地域では、蛇塚古墳以外にも様々な前方後円墳を中心とする6世紀以降の後期古墳が分布するようです。聖徳太子の全盛期あたりでしょうか。


主な古墳は秦氏の首長墓と推測されています。最大規模の蛇塚古墳は、今では住宅に囲まれていました。


また古墳自体も現在は囲いがあり石室内への立ち入りはできませんでした。




たぶん、立ち入りができても入らないかなとは思います。


朝からバス→歩き→バス→歩き、です。曇りの寒い日でしたがかなり歩きました。バスの時間が迫っていましたので、広隆寺前バス停まで早歩きでもどりギリギリでバスに乗る事ができました。







広隆寺 in 京都 太秦

2023-03-10 05:07:00 | 神社仏閣

弥勒菩薩は、須弥山の浄土といわれている天にて、菩薩の行につとめられ、天に説法し、お釈迦さまにかわってすべての悩み、苦しみをお願いくださり、 正しい道へとお導き下さる慈悲の仏さまといわれています。




私はこの物憂げな弥勒菩薩半跏思惟像を、ずっと以前に旅の本で見て以来、見てみたいなと思っていました。


一切衆生をいかにして救おうかと考えているお姿を表している、とありました。




また、広隆寺は、聖徳太子信仰を中心とする寺院で現在の広隆寺の本堂の御本尊は聖徳太子像です。



真ん中、聖徳太子


木造聖徳太子立像は、像高148センチメートルであり、聖徳太子が33歳時の像で、下着姿の像の上に実物の着物を着せて安置されている時いわれています。

ご開帳は1年に1回、1122日です。


その着衣は、天皇が即位などの重要儀式の際に着用する黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)で広隆寺では天皇より贈られたその袍を本像に着せるならわしが平安時代より現代まで続いているようです。

(黄色い麻。麻黄。マオウ、、

マオウ湯、麻黄湯はコロナ(567)の高熱に効く漢方らしいです。567と書いてミロクと読む。不思議です。)



ところで、聖徳太子は、その偉業で称えられるも、どこか悲しみを感じます。

月読神社で祀られていた聖徳太子。

月読尊を崇敬したとありました。


聖徳太子ほどの御方が、実際に天皇陛下になられなかったこと、そして、徐々に聖徳太子のサポートをした秦氏も力を失っていくこと、

歴史には隠しておく方が都合の良いこともあり、また歪んだ歴史を信じてしまっている部分も私達にはあるのではないかと思います。


広隆寺庭園は苔が美しかったです。






苔の庭の向かいにあります「太秦殿」の中に安置されています弥勒菩薩半跏思惟像の前で、私は暫く畳に正座して、物憂げな菩薩様をみていました。


自分ひとりすくうのも難しい。

自分をすくったあと、周りをすくう。


救うは、度う(スクウ)。

此岸から彼岸へ。


ミロク菩薩様の悲願は一切衆生を度う。


何億年もかかってもなお救えない、

ミロクの世への道のりはまだまだだと今も物思いに耽っているのでしょうか。

まずは自分をスクウ人が増えれば、みんながミロク菩薩になれば、憂いは解消します。

全世界を平等に巻き込んだコロナ(567=ミロク)禍には、大洗濯の意味があるのかもと思います。


話を戻します。

太秦殿の弥勒菩薩半跏思惟像の側に、太秦明神(秦河勝)、漢織女(穴織媛)、呉秦女(呉服媛)の像がありました。


養蚕をもたらした一族にふさわしい姫様のお名前。織姫、呉服姫。


京都の呉服といえば西陣織。応仁の乱で西軍、山名側が本陣を置いたことにちなみ、西陣とされました。京都の地名です。



画像はウィキペディアより


呉服=着物👘、日本の伝統を大切にしたいですね。今日でも女性を華やかに彩っています。

また綾織は、タテ糸が2本もしく3本のヨコ糸の上を通過した後、1本のヨコ糸の下を通過することを繰り返して織られたもの。



画像はお借りしました


縦糸が神、横糸が人なら、糸の交差する点ををククル、中間点があります。

その点により模様ができます。

糸を織る組織図は陰陽のオセロのようでもあり、白黒あるからこそ味わいがある。そしてそれを括る点が模様をつくります。


和(十)して、十、二十、三十、、、、、に括る綾織。

白が黒を、黒が白をお互いに括ります。

陰陽の真ん中に和する中間の点があることを忘れない。


糸は自分色。

括り結びながら繋がりツナグ。糸も昔は大地からの自然からの恵みに由来していました。

弥勒菩薩とは

お釈迦様の入滅後56億7千万年後に現れ悟りを開き多くの人々をスクウ菩薩様。


その菩薩様の到来を待つのではなく、

この世に生きる人が菩薩になる、

和して調和する世界を織りなす、

それがミロクの世なのかもなと思いました。






木嶋坐天照御魂神社(蚕の社)

2023-03-09 06:49:00 | 神社仏閣

月読神社から松尾大社にもどり、松尾大社前から木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ、木島坐天照御魂神社)にバスで向かいます。


三柱鳥居について書いた時から、是非訪れてみたい神社のひとつでした。


通称は「木嶋神社(このしまじんじゃ、木島神社)」や「蚕の社(かいこのやしろ、蚕ノ社)」とも呼ばれています。


古くから祈雨の神として信仰された神社であり、境内には珍しい三柱鳥居があることで知らています。


こちらの神社も、日曜日の午前中人が殆どいない中参拝できました。





この地、太秦(うずまさ)は渡来系氏族の秦氏が開拓した地のようですが、弥生時代頃からの遺跡もあるようで、秦氏に縁はあるものの、創建は不明のようです。


日本書紀では、

壱岐・対馬の日神・月神と木嶋社は密接な関係にあるとされています。


長崎の壱岐島に昨年参拝したのも意味があったように感じます。


日神を奉祀する木嶋社が、月読神社と地理的に近いことから、日月の両信仰が、九州から畿内地方へ移植され、両社が創建されたものではないかともされているようです。


誰も居ない境内。曇りで冷たい日でした。




しかし、途中からお日様と蒼空が顔をだします。




3柱鳥居は竹の柵で囲われていました。




柵の中は陽光で鳥居も緑もキラキラしました。当日は寒い日で天気は最初は曇りでした。



人が全く居なくなりましたので、

静まった地で雲間から陽光のさす中、しばらく経を唱えてきました。


陽光で背中が暖かくなりました。


神社で1人でいられるのは有り難いことです。


境内の北西隅には「元糺の池(もとただすのいけ)」と称する神泉があり、現在は涸れていましたが、かつては湧水が豊富であったようです。






伝承では

木嶋社の社叢を「元糺の森」、

神泉を「元糺の池」と称し、

下鴨神社の森が「糺の森」と呼ばれるようになる以前、

元々は木嶋社の社叢が「糺の森」と呼ばれていたようです。




この元糺の池の中には三柱鳥居が建てられて、3方から中心の神座を拝することを可能とする珍しい形式の鳥居です。




中央の神座は、円錐形に小石を積み、中心に御幣を立てて依代としたもので、


⭐️秦氏の聖地である双ケ丘

(秦河勝のお墓があるといわれているそうです)

⭐️松尾山(松尾大社神体山)

⭐️稲荷山(伏見稲荷大社神体山)

の遥拝方位を表したとする説などもあるようです。




松尾山、稲荷山には巨大な磐座があります。

双ケ丘にも磐座があるかな、、?と調べるとやはりあるようですね。


3山もしくは、その山にあります磐座を御神体として、太古から人々は、太秦のこの平地で、三柱を神に見立て、聖なる自然のエネルギーを感じ、感謝と祈りを捧げていたのかもしれませんね。


昔は飢饉、疫病、噴火、様々なことを神のたたりと恐れました。


今は、化学調味料、飽食、延命治療、自然と切り離された中に生き、森羅万象に神々を観ることなどいない人が多いのかもしれません。


しかし、大地のエネルギーが枯渇したら、私たちは誰1人生きることが出来ません。大地が怒れば、人はあっという間に生きられなくなります。


大地に線引きして取り合うのも馬鹿らしいことです。


三本柱。


三位一体とは








真ん中にいるのは内なる神、元神かも。


蚕の社。

蚕は一本の糸をうみ繭を作る天の虫。

人は糸を紡ぎ織ります。

人が一糸から織りなすものは、

心の錦かもしれませんし

自神をお運びする身体の器を守る繭のようなものかもしれません。


大地を、地球を大切にする気持ちを強く持つ。


それは、拠り所である大地を、そこにすまう全員が、美しく織りなした繭のようなもので守るようなイメージすらします。


神社参拝は、天地参拝でもある気がします。


自然回帰のようでもあり、


太古から脈々と繋がる森羅万象にただ感謝を捧げるだけです。








月読神社 in 京都

2023-03-08 06:05:00 | 神社仏閣

松尾大社から南に約400メートル先に月読尊をお祀りする月読神社がありました。

月読神社は、

伊勢外宮近くの月夜見神社

内宮近くの月読神社

川崎市麻生区にあります月讀神社

長崎県壱岐島にあります月讀神社

を参拝しています。


月読神社は全国に80余しかない数少ない神社で、今回は、京都の月読神社を午前中のためか、誰も居ない空間で参拝することができました。








静かな空間でした。

そして、10分くらい目を閉じていたでしょうか、、暫くしていると人がやってきました。

三貴神の一柱、月読尊。

古代から、天文、暦数、卜占、航海の神として信仰されます。


壱岐島にありますのが、元祖月読神社で、壹岐(伊岐)イキを氏とし、壱岐国の島を造った一族のようです。


亀卜の術をわが国に伝え、神祇官にあっては卜部(ウラベ)氏を名乗ったとあります。



京都の月読神社は、月読の地名の残っている桂川近くが元は鎮座地だったようですが、度重なる桂川氾濫を避けて松尾山麓へとうつされました。その後この地も祠官の家名も松室氏となったようです。


月読神社は秦氏創建の松尾大社の摂社とされています。帰化族の秦氏の勢力圏がこの辺りで、松室氏は秦氏の庇護をうけていたようです。


聖徳太子も、秦氏が絶大なサポートをされたようです。


和を以て貴しとする。


この思想の根幹に影響を与えていたのかもですね。


境内には聖徳太子をお祀りする社がありました。月読尊を崇敬された太子の徳を称え祀ったとされます。







また、神功皇后が筑紫に滞在された際、腹を撫でて安産されたとされる月延石には、安産祈願が沢山されていました。


いつの世も子供の健やかな誕生を祈ったのですね。