陽だまりのねごと

♪~思いつきひらめき直感~ただのねこのねごとでございますにゃごにゃご~♪

うっかり日帰り旅

2008-09-28 17:55:24 | Weblog
旧知の友が近くに宿泊と知って、朝一番に挨拶だけと思って出かけたところ、ふらふらと本日の観光ルートに同行する羽目に。JRなら久々のつもる話をしながら移動が出来る。元来のおっちょこちょいには何の計画性もない。背中に羽が生えてしまった。無職も幸いする。何年経っても人は変わらないものらしい。次はいつ会えるか分からないけれど、よく話した。近くに住んでいなくても気心の知れた人々はいい。

帰りは別れてひとり。ケチって今、在来線の椅子。朝、出発の時いた駅猫は待っているだろうか?息子と猫と待つ人がなければ糸の切れた凧になる素質が私にはあるわ。

自宅で死ぬためには そして 自閉症者と葬式と

2008-09-28 06:39:21 | 終末医療
病院の処遇が納得いかないから連れ帰った友人の父親が亡くなった。
1ヶ月前、もうケアマネを辞めることが決まった頃
在宅でなんとかなる方法はないかと電話があった。
がんとは言え年齢が90歳を超えている。
とりあえず介護ベッドが早急に要るということで
私ではケアマネがもうできないからと知り合いを紹介した。

みるみる病状悪化。こんなに早いお見送りとは想像していなかった。
せめてと葬儀に列席させてもらった。

最後は結局、病院で亡くなった。
治療途中で連れ帰った病院へは二度と行かないと言っていたから
別の個人病院だった。

在宅で看て下さる医師を近くがいないか
私からもテリトリーの訪問看護師さん等にリサーチした皆無だった。
近場にようやく20床あまりの緩和ケア病棟が出来ることになったけれど
この田舎では、在宅ホスピスの道のりは遠い。

葬儀はごくごく少人数。お身内とわずかに近所の人らしかった。
当の友人である彼女が居ない。
自閉症で施設入所している息子と幼稚園が一緒だった彼女息子さんも居ない。
亡くなった方の妻のも居ない。
介護施設に入所中と聞いた。
列席できないほど重篤な介護状態なのだろう。
知らせられないのかもしれない。

一番近しい人たちが不在で始まる読経。
葬儀の読経が半分くらい終わった頃
閉まっていた葬儀会場のドアが開いた。
彼女が息子さんの手をしっかり握って入ってきた。
最後尾に座っていた私の横にふたりして座ってきた。
土曜日で施設の外出日だから連れに行っていたと小声で言う。
おじいちゃんの最後のお顔をみせたくてとも言う。
彼女は亡くなった未明、病院のベッドサイドで泊まり込んでいたと聞く。
息子さんを預かってもらえていたから出来たこと。
彼女より私よりふた回りは大きな青年の手がしっかとお母さんと繋がれ、
彼にとっては彼女がこの世で唯一無比の人であると示していた。

片言とオーム返しの彼女の息子さんは
祭壇の写真を指さしてさかんに「おじいちゃん」と言う。
彼女が「おじいちゃんは天国へ行ったの」と小声で言い聞かせてても
「天国」「おじいちゃん」と読経しかしない部屋に彼の声が何度も響く。
しかも指を気ぜわしく動かして落ち着かない様子。
やがて彼女が一旦連れて出る。

最後のお別れの献花の時が来た。
私に回ってきたお花を急いで退出したふたりを探して渡してお棺へと導いた。

いつもと違うおじいちゃんに顔つきが変わった息子を連れて
結局、最後の出棺を待たずに彼女は一旦、家へ帰ると先に出てしまった。
直系の子供孫である人たちがお別れが充分できなくて、何の葬儀だろう?

「お宅はまだ良い」彼女の口から何度も聞いた。
私の息子は知能に遅れがないアスペルガーだから確かに話せる。
社会生活が営まれるかと問われれば
話せない彼女の息子と根っこは同じむつかしいものを持つ。

息子は父親の葬儀の最後に親族を代表して会葬のお礼を読み上げた。
母のレクチャー付き文章であるけれど、
通夜で泣いて挨拶した母がみっともなかったからと自らかって出た挨拶だった。
喪主の私の横で震えながらも立派な挨拶をした。

だからと言ってあれから平たんな道ではなかった。
自死ばかり考え彼の部屋は穴ぼこだらけ。
ひとりでケアに回った私は全身の毛を失い…

葬儀の前後も父の死がどう認識されていたのか?
息子の感情面は未だ謎である。
長男である息子を誰もが無視して
同じ子である気働きのある娘ばかりに人が物を問うのを
不服だ、何故だと
なんども心身疲労困ぱいの私に何度も聞いて来た。
もしかすると最後の親族挨拶は彼の汚名挽回策だったのかもしれない。

どちらが良いと言う障害はないけれど
病気の根っこは同じでも「お宅はまだ良い」と言われれば
基準をどこに置くかではあるけれど葬儀の状況だけ比べればそうかもしれない。


葬儀の後で着替えて
予定していいた在宅ホスピスを実践している隣県の医師の講演を聞きに出かけた。
しっかりサポートされて亡くなる方やご家族がうらやましい限りだった。
患者から声をあげて欲しい。医師に要望して欲しい。
点から線。線から面と在宅ホスピスを広げて欲しいと結ばれた。

講演後に在宅ホスピスに取り組んでいる医師を囲んで話の席が設けられた。
私は遠慮して帰ろうとしたら、会場で出会ったケアマネ仲間に呼び止められた。
つきあいとして末席に座った。
自己紹介を兼ねて講演の医師への質問をひとりひとりに問うことから始まった。
みんな重たい経験して来た人ばかり。ひとりひとりの話が長い。
一周したら医師から応答の時間はわずかだった。
聞いていて医師との出会いが状況をかなり左右する気がした。

  過去告知を家族に任せた医師と出会った人・
  最後は自宅で自死のかたちで末期がんの夫を見送って4年の寡婦…

自分の事を聞きながら省みていた。
夫のガン告知は先に私にされた。
「本人にはいつ知らせようか?大安吉日にしようか?」
笑い話のような医師の問いかけがあって
私はすぐに連れて来て話してもらえる時間が取れるかと医師に問い返した。

告知を受けている夫の背にずっと置いていた手に
その瞬間、体がピクン動いたのが伝わってきた。

6人部屋のカーテンの陰で
「いつ聞いたのか?」と私に聞いた。
「1分いや30秒前、1秒前かな?」と言ったら
「良かった。一人で抱え込んで黙って辛い思いをさせたかと心配した。」
私の心配をしてくれていたのだ。

消灯後私は自宅へ帰ったけれど眠れないのではと気になって
ワインを水筒に隠し持って、ふたたび病室にもぐりこんだ。
同室の人に気兼ねして小声で少しの時間しか居ることが出来なかったけれど。

やがて私の意志で死ぬんならと自宅へ連れ帰ったけれど
夫が急変の不安を訴えて病院へUターン。

病院へとふたたび行く時、
夫は玄関を出て
『二度と帰ることはないね』と自分が建てたローン中の家を振り返った。

そのとおりとなり、
痛み緩和が下手な最後はここは救急病院だという言う医師から
もぎ取るように6人部屋から緩和ケアへ搬送。
おそらくそこよりは同室の人たちへの気兼ねもなく
痛みもなくやすらかな最後であったと思う。

それでも亡くなった後のショック状態は長く続いた気がする。
告知もせず自宅で介護中に
自ら命を絶たれて後に残こされたその方の辛さは私の比ではないだろうと察する。

今、緩和ケアはガンとエイズ患者しか扱わない。
他の病気の死は一般病棟でしかない。
自宅での最後を望む人は多い。
誰も医療過誤のスパゲッティ状態でも延命は望まないのではないだろうか?

自分らしくより良い時間をいつもの場所で過ごして
迎える最後は
支える医療体制のバックアップひとつにかかっている。

総理がころころ変わって政権がどうなるのか不透明で
年金、医療、介護の先が見えない今も
闘病中だったり亡くなっていく人がある。

最後に良い医師に出会えるかどうかそれは運、不運。
こんなのありで良いの?


夫の死を克明に思い出す長い1日だった。