自由民権家 松沢求策 記念碑
松沢求策は、現在の穂高町(安曇野市)に生まれ、明治初年、国会開設運動に携わり、長野県の代表として、また全国の運動の先頭に立ち請願権の確立、政党の結成などに大きく貢献しました。この記念碑は大正三年(1914)、ともに運動した奨匡社員が中心となり、神道会館で開いた救策の追悼会で建設を決定し、大正十三に完成をみました。「松澤君碑」の篆額(てんが)は、西園寺公望の筆によるものです。碑文の大意は次の通りです。
幼いころから学問が好きで、高島章貞に指導を受けた。松本新聞の編集長となり、自由民権運動を進めた。郷里に奨匡社を結成し、大阪の国会期成同盟大会に参加し、上條螘司(ありじ)とともに積極的に請願運動を行った。政党結成を提案し、後の自由党の起源となった。
明治十四年に国会を開設する詔勅が発せられたが、これより先、西園寺公望、中江兆民、松田正久らと東洋自由新聞を設立し、西園寺が脱社するとそのいきさつを暴露したとして投獄された。
明治二十年六月二十五日享年三十三歳で病気のため亡くなり穂高町の東光寺に葬られた。色白で目つきが鋭く、笑うと女性や子どもにも親しまれ、一度怒れば活動家も席を避け議論に優れ文章も達者な快男児である。
平成十三年十一月 松本市教育委員会 松沢求策顕彰会