源頼政鵺退治・鵺の正体 猪早太勇姿
平家物語において頼政の鵺退治は2回
最初は1151年~1154年のころ
上地車彫刻題材大半は郎党(猪早太)を伴うのでこの1回目の鵺退治と思われる。
平家物語現代語訳つづき
頼政が、きいと見上げると、雲の中に怪しい物の姿がありました。頼政は、射損じたら生きてはおられないと思いました。しかしながら、矢を取って弓につがい、南無八幡大菩薩と心の中で祈願し、よつと引いて、ひようと放ちました。
手ごたえがあり、はたと矢が当たりました。頼政は、「得たりや、おう」と矢を射たときに叫ぶ詞「矢叫び」をあげました。
猪早太が、さっと近寄り、落ちてきたところを取り押さえました。柄も拳も貫通せよとばかりに、続けざまに9回、刀で刺しました。
手に手にたいまつを持ち、上から下から照らすと、
頭は猿
体はたぬき
尾は蛇
手足は虎のようで、鳴く声は、鵺(ぬえ:とらつぐみという鳥)に似ている、恐ろしい怪物でした。
鵺の姿
頼政の郎党 猪早太(い の はやた) ほぼウィキペディアより
江戸時代後期の儒者・志賀理斎は、鵺退治伝説は頼政がまじないのため四方に鏑矢を放ったのが実態であるとした上で、猪早太の名と鵺のいわゆる“頭は猿、胴は狸、尾は蛇、手足は虎”という奇怪な姿とを関連付け、それぞれ「頭が猿=未申(南西)」「尾が蛇=辰巳(南東)」「手足が虎=丑寅(北東)」「猪早太=戌亥(北西)」を意味するとし、方角を埋め合わせるため彼の名を入れた、という推察を行っている。
事跡については鵺退治伝説のほかは特に記載されたものはなく、実在を疑う見方もある。
大阪市東住吉区 育和地車 後部 車板彫刻 昭和6年制作?
懸魚裏にて全体像は撮影しにくい
覗き込んでの画像
欠損部分の後付け彫物・頼政の手持ちは扇子でなく弓・矢か松明。
川面東車板・猪早太の手持ちは槍でなく剣ですね。
つづく
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