gooブログのテーマ探し!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

5 なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか 「 目次漏れ項目 日独伊三国に向けられた「防疫演説」 」

2021-10-31 09:10:03 | 1-2なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか
5 なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか 「 目次漏れ項目 日独伊三国に向けられた「防疫演説」 」

 第1章
 ルーズベルト(FDR)が敷いた開戦へのレール 一部引用編集簡略版
本章は以下の内容を投稿予定です。
1イ まえがき
1ロ アメリカの決意、日本の一人芝居
1ハ ルーズベルト(FDR)による敵対政策の始まり
1ニ なぜルーズベルト(FDR)は、中国に肩入れしたか
目次漏れ項目 日独伊三国に向けられた「防疫演説」
1ホ 中国空軍機による九州来襲
1ヘ 日本の外交暗号をすべて解読していたアメリカ
1 ト 中国軍に偽装した日本本土空襲計画
1チ 日本を戦争におびき寄せた本当の理由
1リ ルーズベルト(FDR)を喜ばせた三国同盟の締結
1ヌ 着々と進む二本追い詰め政策
1ル 開戦五か月前に日本攻撃を承認した文書
1ヲ 「日本という赤子をあやす」
1ヨ 直前まで対米戦争を想定していなかった日本
1タ 日米首脳会談に臨みをかけた近衛首相

************************

目次漏れ項目 日独伊三国に向けられた「防疫演説」

  1931(昭和6)年に、満州事変が勃発した。満州は万里の長城の外にあって、歴史的に満族の地であり、中国の一部ではない。漢人の立ち入りを、禁じていた。
  ルーズベルト(FDR)はそれにもかかわらず、日本が中国を侵略したとみなした。

  つづく日華事変にしても、日本から仕掛けられたものでは、けっしてなかった。
  戦後になって、日華事変は日中戦争と呼ばれるようになったが、日本も中国も、日米戦争が始まった1941(昭和16)年12月まで、互いに宣戦布告をしなかったから、日華事変と呼ぶ方が正しい。

  1937(昭和12)年7月7日に、北京から南12キロの盧溝橋付近で、日中両軍が偶発的に衝突した事件から日華事変は始まったとされているが、今日では中国共産党の挑発によって起こされたことが、明らかとなっている。
  つづく8月に起こった第二次上海事変によって、日中の衝突が拡大して戦闘が本格化した。これも、中国共産党によって仕掛けられた策略だった。(盧溝橋事件から始まって、日華事変が拡大していった経緯については、第3章で述べる)

  ところが、ルーズベルト(FDR)は他の多くのアメリカ国民とともに、盧溝橋事件も、第二次上海事変も、日本が中国を計画的に侵略したものだと、曲解した。

  ルーズベルト(FDR)大統領は、中立法から中国を除外すると宣言した二か月後に、シカゴにおいて、国名を明らかにしなかったが、ある国々を「国際的な無政府状態」を引き起こしている国家として、非難した。
  シカゴは中立主義の牙城として、知られていた。

  誰の目にも、ルーズベルト(FDR)大統領が言及した諸国が、日本、ドイツ、イタリアの三国を指していたことが、明らかだった。
  ルーズベルト(FDR)大統領は、アメリカが中立主義から離れて、平和愛好諸国と協力して、これらの国の侵略行為を阻止しなければならないと、訴えた。
  日本、ドイツ、イタリアを危険な疫病患者になぞらえた「防疫諸国」として、後に有名になった演説である。
  この演説は、ルーズベルト(FDR)大統領が中立法から一歩踏みだした。最初のものとなった。

  多くの上下院議員から、この演説に対して非難の声があがった。六つの主要な平和団体が、「アメリカを世界戦争に導こうとしている」という宣言を採択するかたわら、アメリカ労働総同盟(AFL)が「アメリカの労働者はヨーロッパの戦争にも、アジアの戦争にも巻き込まれたくない」と、緊急決議を行った。
  アメリカの有力新聞も、この演説をいっせいに批判した。

  それもあって、日本ではルーズベルト(FDR)大統領が日本に対して邪な陰謀を進めていることを、まったく察知することもなく、この演説を重くみることもなかった。

参考:加瀬英明著「なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか」
 加藤英明氏は「ブリタニカ国際大百科事典」初代編集長

 4 なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか 「 1ニ なぜルーズベルト(FDR)は、中国に肩入れしたか 」

2021-10-30 09:16:59 | 1-2なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか
4 なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか 「 1ニ なぜルーズベルト(FDR)は、中国に肩入れしたか 」

 第1章
 ルーズベルト(FDR)が敷いた開戦へのレール 一部引用編集簡略版
本章は以下の内容を投稿予定です。
1イ まえがき
1ロ アメリカの決意、日本の一人芝居
1ハ ルーズベルト(FDR)による敵対政策の始まり
1ニ なぜルーズベルト(FDR)は、中国に肩入れしたか
1ホ 中国空軍機による九州来襲
1ヘ 日本の外交暗号をすべて解読していたアメリカ
1 ト 中国軍に偽装した日本本土空襲計画
1チ 日本を戦争におびき寄せた本当の理由
1リ ルーズベルト(FDR)を喜ばせた三国同盟の締結
1ヌ 着々と進む日本追い詰め政策
1ル 開戦五か月前に日本攻撃を承認した文書
1ヲ 「日本という赤子をあやす」
1ヨ 直前まで対米戦争を想定していなかった日本
1タ 日米首脳会談に望みをかけた近衛首相

************************

1ニ なぜルーズベルト(FDR)は、中国に肩入れしたか

  1935(昭和10)年、アメリカ議会は与党だった民主党の圧倒的な支持によって、中立法を制定した。第一次世界大戦の轍を踏むなという世論を、背景としたものだった。
  中立法は他国と戦争状態にあるか、内戦を戦っている国への兵器と軍需品の輸出を、禁じた。

  それにもかかわらず、1937(昭和12)年8月に、第二次上海事変が勃発すると、ルーズベルト(FDR)はその月のうちに、中立法を中国には適用しないことを、宣言した。
  ところが、アメリカの世論は、第一次大戦がもたらした惨劇に懲りて、ヨーロッパの戦争に二度と巻き込まれてはならないと主張する孤立主義(アイソレーショニズム)によって、支配されていた。

  これは、第二次大戦の後に、日本を今日に至るまで束縛している平和主義に、よく似ていた。

  第一次大戦に参戦した過ちを繰り返すことが、けっしてあってはならないという厭戦感情が、アメリカ国民のあいだで圧倒的な力を持っていた。

  それでも当時のアメリカは、ルーズベルト(FDR)をはじめとする多くの国民が、中国がアメリカの勢力圏のなかにあると、みなしていた。
  中国はアメリカから、多くのキリスト教宣教師を受け入れていた。同時にアメリカ国民も、”巨大な中国市場”を夢みて、中国に好意を寄せていた。それに対して、日本はアメリカに媚びることがなく、伝統文化を頑固に守り、キリスト教文明に同化しない異質な国だった。

  ルーズベルト(FDR)は幼少のころから、母親の祖父の影響を受けて、中国に好意を抱いていた。そして、アメリカのキリスト教宣教師が中国全土で活躍しているのを、喜んでいた。大統領になった後にも、祖父が中国の汕頭(スワトウ)、広東、漢口などを広く旅行した話を、楽しそうに紹介した。

  ルーズベルト(FDR)は十歳の時から生涯にわたって、切手の蒐集を趣味とした。母から貰った清朝末期や、古い香港の切手が自慢だった。生涯で125万点もの、切手を集めた。

  ところが、ルーズベルト(FDR)もその側近たちも、中国についてはまったく無知だった。

  後に首相となった近衛文麿侯爵が、1934(昭和9)年5月に横浜を発って、アメリカを訪問した時に、ルーズベルト(FDR)大統領とコーデル・ハル国務長官と会見している。近衛は帰国後に、記者会見の席上で、「ルーズベルト(FDR)とハルは、極東についてまったく無知だ」と語って、新聞の一面に大きく取り上げられた。

  一国の大統領や、要路の高官を公の場で、そのように批判するのは、賢明とは言えないが、近衛の発言は的を射ていた。

参考:加瀬英明著「なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか」
 加藤英明氏は「ブリタニカ国際大百科事典」初代編集長

 3 なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか 「 1ハ ルーズベルト(FDR)による敵対政策の始まり 」

2021-10-29 09:06:40 | 1-2なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか
3 なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか 「 1ハ ルーズベルト(FDR)による敵対政策の始まり 」

 第1章
 ルーズベルト(FDR)が敷いた開戦へのレール 一部引用編集簡略版
本章は以下の内容を投稿予定です。
1イ まえがき
1ロ アメリカの決意、日本の一人芝居
1ハ ルーズベルト(FDR)による敵対政策の始まり
1ニ なぜルーズベルト(FDR)は、中国に肩入れしたか
1ホ 中国空軍機による九州来襲
1ヘ 日本の外交暗号をすべて解読していたアメリカ
1 ト 中国軍に偽装した日本本土空襲計画
1チ 日本を戦争におびき寄せた本当の理由
1リ ルーズベルト(FDR)を喜ばせた三国同盟の締結
1ヌ 着々と進む日本追い詰め政策
1ル 開戦五か月前に日本攻撃を承認した文書
1ヲ 「日本という赤子をあやす」
1ヨ 直前まで対米戦争を想定していなかった日本
1タ 日米首脳会談に望みをかけた近衛首相

************************

1ハ ルーズベルト(FDR)による敵対政策の始まり

  ルーズベルト(FDR)政権が、日本に敵対する政策を最初に打ち出したのは、1936(昭和11)年のことだった。

  日本が真珠湾を攻撃する五年前に当たったが、この時点で日本は、アメリカに対していささかの害も及ぼしていなかった。
  ルーズベルト(FDR)大統領は日本に対して根深い悪意を抱いていたから、中国の蒋介石政権を通して、日本を踏み潰すことをはかった。

  蒋介石政権に対する援助は、ルーズベルト(FDR)大統領の意を受けて、大統領直属のロクリン・カリー補佐官が指揮した。
  この年7月20日に、蒋介石政権の航空委員会は、アメリカ陸軍航空隊から退役する寸前だったクレア・シェンノート大尉を、中国空軍の軍事顧問として高給で雇った。

  蒋介石は「共匪(きょうひ:匪は悪いこと)」と呼んでいた中国共産党軍を掃討するために、近代的な空軍を養成することを欲していた。蒋介石はイタリアとソ連から空軍機を購入し、多くの教官を受け入れていた。なかでも、ナチス・ドイツは大型の陸軍顧問団を送って国民党軍を訓練し、大量の兵器を売っていた。

  翌年7月に盧溝橋事件が起こり、日華事変が始まると、アメリカは中立国であったために、政府として交戦国を直接援けることはできなかった。そのため、ルーズベルト(FDR)は親友だったトミー・コルコランに、民間の「中国援助事務所」を設立させて、蒋介石政権が日本と戦うために必要とする巨額の資金を提供した。同時にシェンノートは蒋介石政権に大佐として迎えられ、中華民国空軍航空参謀長として任命された。

  シェンノートはアメリカに戻ると、蒋介石政権に、戦闘機とアメリカ陸軍航空隊のパイロットを「義勇兵」として提供する案を、ルーズベルト(FDR)に提出した。ルーズベルト(FDR)大統領によって、この提案はただちに承認され、計画を実現することを命じる極秘の大統領令が発せられた。

  アメリカの航空兵が中国軍人として、アメリカが供給する戦闘機に中国空軍の「青天白日」のマークをつけて、日本軍と戦うことになった。
  シェンノートは部下と手分けして、全米の陸海軍、海兵隊、沿岸警備隊の航空基地を訪れ、「義勇兵」として中国に渡って戦うことを志願するように、呼びかけた。

  アメリカの「義勇兵」は、いったん軍籍を離れて中国軍人として戦うものの、中国における雇用期間が終わった後に、アメリカ陸海軍に復帰することが保証された。したがって、「義勇兵」とはいうものの、現役軍人と変わらなかった。これは、国際法の重大な違反だった。

  シェンノートの飛行機は「アメリカ義勇隊(アメリカン・ボランティア・グループ)」と呼ばれたが、機種に猛虎をあしらったマークを塗っていたことから、ほどなく「フライング・タイガーズ」として、知られるようになった。

参考:加瀬英明著「なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか」
 加藤英明氏は「ブリタニカ国際大百科事典」初代編集長

 2 なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか 「 1ロ アメリカの決意、日本の一人芝居 」

2021-10-28 09:36:29 | 1-2なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか
2 なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか 「 1ロ アメリカの決意、日本の一人芝居 」

 第1章
 ルーズベルト(FDR)が敷いた開戦へのレール 一部引用編集簡略版
本章は以下の内容を投稿予定です。
1イ まえがき
1ロ アメリカの決意、日本の一人芝居
1ハ ルーズベルト(FDR)による敵対政策の始まり
1ニ なぜルーズベルト(FDR)は、中国に肩入れしたか
1ホ 中国空軍機による九州来襲
1ヘ 日本の外交暗号をすべて解読していたアメリカ
1 ト 中国軍に偽装した日本本土空襲計画
1チ 日本を戦争におびき寄せた本当の理由
1リ ルーズベルト(FDR)を喜ばせた三国同盟の締結
1ヌ 着々と進む日本追い詰め政策
1ル 開戦五か月前に日本攻撃を承認した文書
1ヲ 「日本という赤子をあやす」
1ヨ 直前まで対米戦争を想定していなかった日本
1タ 日米首脳会談に望みをかけた近衛首相

************************

1ロ アメリカの決意、日本の一人芝居

  過去の歴史を支配するものは、未来も支配する。

  日本は先の戦争に敗れてから、自国の歴史を盗まれてしまった。歴史を失った国となった。
  今日、日本国民の多くが、先の対米戦争が日本が仕掛けた無謀な戦争だったと、信じ込まされている。

  だが、事実はまったく違う。アメリカは日本が真珠湾を攻撃するかなり前から、日本と戦って、日本を屈服させ、日本を無力化することを決定していた。
  日本は1941(昭和16)年12月8日(日本時間)、真珠湾に停泊していたアメリカ太平洋艦隊を奇襲したが、日本政府と軍部は、その直前まで、日米戦争を回避しようとして、真剣に努力していた。

  日本政府は当然のことに、アメリカも日本と同じように平和を望んでおり、緊迫しつつあった両国関係の緩和を、望んでいると考えた。
  アメリカも日本と同じように、誠がある国だと、思い込んでいた。それがとんでもない間違いだったと気づくのは、ずっと後のことだった。

  日本は罠を仕掛けられたのだった。ルーズベルト(FDR)政権による陰謀にはめられ、断崖絶壁まで追い詰められて、やむにやまれず開戦に踏み切ったのだった。
  日本はアメリカが、日本のほうからアメリカに戦争を仕掛けてくるように、企んでいたのに気付かず、政府と軍をあげて独り芝居を演じていた。

  独り芝居は相手がいなかったり、いても相手にかまわずに、独りで自分勝手に思い込んで、夢中になって一喜一憂しながら、振る舞うことである。
  この間、まさに日本は国運がかかっていたというのに、独り芝居をしていた。

  日米戦争は起こるべくして、起こったのではなかった。その責任は、アメリカにあった。

  フランクリン・デラノ・ルーズベルト(FDR)大統領は、1933(昭和8)年に登場した。ルーズベルト(FDR)はニューヨーク州知事だったが、前年の大統領選挙で民主党候補として、共和党の現職のハーバート・フーバー大統領を破って、当選した。

  ルーズベルト(FDR)は、オランダ系のニューヨーク州の実業家で大地主であったジェームスを父とし、フランス・オランダ系の富裕なデラノ家の娘のサラを母として、1882(明治15)年に生まれた。

  デラノ家は清朝末期に、中国とのアヘン貿易によって巨富を築いた。そのうえで、アメリカ西部の鉄道建設と、石炭採掘に投資して成功した。
  デラノ家は、香港にも豪邸を所有していた。サラは少女時代に香港に滞在したことがあって、中国に愛着を感じるようになった。

  ニューヨーク州のハドソン河上流の河畔のハイドパークにある、ジェームス(FDRの父)の広壮な邸宅は、いくつもの棟によって構成されていた。
  邸宅の本館には、中国から掠奪してきた古寺の鐘や、高価な屏風や陶器が飾られていた。これらの中国の美術品は、デラノ家から受け継いだものだった。

  ルーズベルト(FDR)は1905(明治38)年に、第26代大統領として有名なセオドア・ルーズベルトの姪で、遠縁の従姉妹に当たるアンナ・エレノア・ルーズベルトと結婚した。

  セオドア・ルーズベルトは、日露戦争までは、日本に好意をいだいていたが、日本がロシアに勝つと、日本を、アメリカがアジア太平洋において持っていたフィリピン、グアム、ハワイなどの領土や、中国大陸にあるアメリカの権益に対する、新たな脅威とみなすようになった。

参考:加瀬英明著「なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか」
 加藤英明氏は「ブリタニカ国際大百科事典」初代編集長

 1 なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか 「 1イ まえがき 」

2021-10-27 09:15:45 | 1-2なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか
1 なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか 「 1イ まえがき 」
新シリーズです。
 第1章
 ルーズベルト(FDR)が敷いた対日戦争開戦へのレール 一部引用編集簡略版
本章は以下の内容を投稿予定です。
1イ まえがき
1ロ アメリカの決意、日本の一人芝居
1ハ ルーズベルト(FDR)による敵対政策の始まり
1ニ なぜルーズベルト(FDR)は、中国に肩入れしたか
1ホ 中国空軍機による九州来襲
1ヘ 日本の外交暗号をすべて解読していたアメリカ
1 ト 中国軍に偽装した日本本土空襲計画
1チ 日本を戦争におびき寄せた本当の理由
1リ ルーズベルト(FDR)を喜ばせた三国同盟の締結
1ヌ 着々と進む日本追い詰め政策
1ル 開戦五か月前に日本攻撃を承認した文書
1ヲ 「日本という赤子をあやす」
1ヨ 直前まで対米戦争を想定していなかった日本
1タ 日米首脳会談に望みをかけた近衛首相

************************

1イ まえがき

  1945(昭和20)年8月に終わった日米戦争とは、いったい何だったのだろうか。日本が侵略国家であって、その責任を一方的に負わねばならないのだろうか。

  日本は1941(昭和16)年12月に、アメリカ、イギリス、オランダに対して開戦したが、はたして日本が加害者であって、米英蘭の三ヶ国と、その植民地支配を被っていたアジア地域が、被害者だったといえるのだろうか。

  あの戦争へ導いた歴史を、公平に検証すれば、アメリカが日本に対して仕掛けた戦争だった。
  日本国民にとって、先の対米戦争と幕末における明治維新が、日本の近代化における二つのきわめて重い体験となった。

  明治維新が「御維新」と呼ばれ、昭和20年の夏までの日本をつくったように、先の敗戦が日本を再び大きく作り替えた。
  日本は昭和に入って日米関係が対立を増してゆくなかで、困難を打開しようと、真剣な努力を続けたのにもかかわらず、追い詰められていった。

  本書は日米開戦に至るまで時系列的に、日本とアメリカの両国の記録を用いて、東京とワシントンにおいて何が起こっていたのか、対比したものである。

  狂乱の時代だった。日本はアメリカによって、翻弄された。

  東郷重徳(しげのり)外相は、誠意の人だった。「ハル・ノート(投稿者補足;今では米国中枢部にいたソ連スパイの発案と判明しています)」を受領した時に、「自分は目も眩むばかりの失望に撃たれた」と述べ、「米国が今までの経緯および一致せる範囲を凡(すべ)て無視し、従来とった尤(もっと)も強硬な態度をさえ超えた要求をここに持ち出したのは、明らかに平和的解決に到達せんとする熱意を有しないものであり、唯日本に全面的屈服を強要するものである。(略)これは日本の自殺と等しい。(略)もはや立ち上がる外ないと云うことであった」と、A級戦犯として囚われて、獄中で病死する前に記した。

  開戦の詔勅が「今ヤ不幸ニシテ米英両国ト戦端を開クニ至ル誠ニ已ムヲ得ザルモノアリ豈(あに;どうして)朕ガ志ナランヤ」と述べ、「事既ニ此処ニ至ル帝国ハ今ヤ自存自衛ノ為決然起ッテ一切ノ障害ヲ破砕スルノ外ナキナリ」という言葉が続くが、今日読んでも、胸が熱くなる。

  本書の共同執筆者であるヘンリー・S・ストークス氏は、イギリスの大記者であるが、アメリカはペリーの浦賀来航以来、奢る白人優位主義と、キリスト教世界観によって駆られて、日本を屈従させようとしてきたと、論じている。ペリーは「遠征記」のなかで、日本を「国際社会の一員にし、われわれの宗教の恩恵のもとに置く事業は、始まったばかりである」と、述べている。

  著者は幕吏とペリー一行が、仏僧が法事に用いるさまざまな椅子に座って相対している銅版画を、私蔵している(幕府に不平等条約を強いた時の会議)。これは、江戸時代の日本を葬る法会となった。
  いや、今日の日本のありかたを見ると、日本そのものを葬る法会だったのではなかったのか。

参考:加瀬英明著「なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか」
 加藤英明氏は「ブリタニカ国際大百科事典」初代編集長