gooブログのテーマ探し!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

離婚したのにまた再婚 (場面のある恋の歌)

2024-02-26 13:31:19 | 場面のある恋の歌
場面のある恋の歌

  馬場あき子氏著作「日本の恋の歌 ~貴公子たちの恋~」一部引用再編集

*******
離婚したのにまた再婚 (場面のある恋の歌)

  離婚をしたけれど、「あれは本心からではなかった」とか、「周囲の事情があって仕方なかったのだ」というようなことで、しばらくしてから「もう一度、元の妻と再婚する」ーーそんなことが、昔もよくあったらしい。そういう時の橋渡しはやはり歌が一番効果的だったと思われる。

    あひすみける人、心にもあらで別れにけるが、「年月を
    へても逢い見む」と書きて侍りける文を見出でてつかは
    しける

   いにしへの野中の清水見るからにさしぐむものは涙なりけり
   「後撰集」恋四 よみ人しらず

   (野中の清水は温(ぬる)いけれど、元の心を知る人はなつかしみ汲み上げるという歌がありますが、お手紙の趣を拝見するにつけて、まずは温かな涙が野中の清水のように湧いてきましたよ)

  こんな消息を交換しあった後、二人は再婚したのかどうか。たぶん成功したような感じである。
  「野中の清水」は「いにしへの野中の清水ぬるけれど元の心を知る人ぞ汲む」という「古今集」の「雑上」の古歌の内容を取り入れている。二人は何かのはずみで離婚したが、だいぶ長い時を経て、やはり一番似合わしい伴侶であったことに気づき再婚しようと手紙を出し、互いに本当に理解し合えた喜びの涙を流し合ったのである。

  「大和物語」には、貧困のゆえに離婚した夫婦が再会し再婚する話がある。男は難波津(なにわづ)の葦苅り男にまで零落していたが、女の方は成功して貴人の家の乳母(めのと)となり、夫の安否を尋ねてようやくめぐり合い身分を回復するめでたい話だが、当時はこのように、愛情は残しながらしかたなく離婚するケースもあったようだ。

参考 馬場あき子氏著作
 「日本の恋の歌 ~貴公子たちの恋~」

一条摂政(一条天皇の摂政)の恋の虚実 (場面のある恋の歌)

2024-02-12 10:28:11 | 場面のある恋の歌
場面のある恋の歌

  馬場あき子氏著作「日本の恋の歌 ~貴公子たちの恋~」一部引用再編集

*******
一条摂政(一条天皇の摂政)の恋の虚実 (場面のある恋の歌)

  「後撰集」の編纂に和歌所の長官として参画したのは一条摂政伊尹(これまさ・これただ)である。その家集は「一条摂政御集」というが、自身を大蔵史生倉橋豊蔭(おおくらししょうくらはしとよかげ)という無位の下級官吏に擬しさまざまの女との恋の場を物語風に演じている。「後撰集」には二首しか採られていないが後世の選集には合わせて二十二首の入集がみられる。

    女のもとに衣を脱ぎ置きて、取りにつかはすとて

   鈴鹿山伊勢を海人の捨て衣しほなれたてと人や見るらん
   藤原伊尹

   (鈴鹿山の彼方の伊勢の浜辺に住む海女が脱ぎ捨てておく衣を、どうにも潮じみた情けないものとごらんなさるでしょうね)

  今日からみると女の部屋に衣を脱いだまま帰るという場面が独特だが、この時代にはよくある詞書である。
  どうしてこんなことが起こるのかふしぎに思えるが、寝すごして、明け白む頃に急いで人目を逃れようとしてのことだろうか。いずれにしても失敗をカバーする歌だが、それもまた色好みの笑いふくみの風流とされたのであろう。
  伊尹の歌は「新古今集」や「新勅選集」などに多く採られているがすべて恋の歌で、「百人一首」には次の歌が選ばれている。

   あはれともいふべき人は思ほえで身のいたづらになりぬべきかな
   「拾遺集」恋五 謙徳公

   (もし私が、あなたに思いを残したまま焦がれ死にをしたとしても、「あはれ」と身にしみて悲しんでくれる人があるとはとても思えないので、この身は何の価値もないままに、徒らな死者となるほかないのですよねえ)

  謙徳公という名は伊尹の人徳への贈り名である。この歌は「一条摂政御集」の巻頭歌で、「年月を経て返りごとをせざりければ、まけじと思ひていひける」と、例によって返事を寄こさない女への怨みの挑発だが、伊尹が好んだ恋のスタイルはあくまで弱者の立場からの訴えめいている。

  伊尹は藤原氏の氏の長者となるべき家の祖、右大臣師輔(もろすけ)の長男である。「大鏡」は「帝(円融)の御をぢ、東宮(花山)のおほぢにて、摂政せさせたまへば、世の中は我が御心にかなはぬことなく、過差ことのほかに好ませたまひてーー」と記している。

  そういう派手な人が、なぜ卑官の大蔵史生(ししょう)などに身をやつして恋の歌ばかり作ったのかを考えるのは魅力的だ。

  「恋」とはたぶん伊尹が考えていたとおり、相手の心を請うものであり、身分の高さや立場などがあっては面白味がないはずのものなのだ。伊尹は惜しくも四十九歳で亡くなったが、「大鏡」は、政治的手腕はもとより、あまりに才能がありすぎたのだと言っている。

参考 馬場あき子氏著作
 「日本の恋の歌 ~貴公子たちの恋~」

恋のかけひきくらべ (場面のある恋の歌)

2024-02-09 10:03:47 | 場面のある恋の歌
場面のある恋の歌

  馬場あき子氏著作「日本の恋の歌 ~貴公子たちの恋~」一部引用再編集

*******
恋のかけひきくらべ (場面のある恋の歌)

  男と女の恋のかけひきくらい面白く、いいかげんなものはない。こういう言い方を否定するのはやさしいが、代々の勅撰集の恋の名場面は、大方こうした虚言や騙しを見ぬいたがわからの挑発であり、頭のいい弁明であり、そのあとには双方からの笑いがあった。

  では男女の仲はそれほど嘘でかたまっていたのかといえばそういうことではなく、男女の(交際)そのものが疑似的恋愛の中にあった時代では、男女間の思いはかりはそのまま人生や世間への心の深浅を問い問われる場であったといえる。「後撰集」の「恋二」を見てみよう。

    男の、ほど久しうありてまで来て、「み心のいとつらさ
    に十二年の山籠りしてなん、ひさしう聞えざりつる」と
    言ひ入れたりければ、呼び入れて、物など言ひて返しつ
    かはしけるが、又音もせざりければ

   出でしより見えずなりにし月影はまた山の端に入りやしにけん

    返し

   あしひきの山に生(お)ふてふもろ葛(かづら)もろともにこそ入らまほしけれ

  「よみ人しらず」の応答だが、じつに物に心得た男女の場の面白さである。男は久しく女のもとを訪ねていなかったが、思い出して旧交を温めたく思ったのだろう。「あなたがあまりつれないので、あからめて私は比叡山に十二年の山籠りをしていました。それで、まことに久しい間御無沙汰をしておりました」と消息した。
  「十二年の山籠り」とはずいぶん人を食った話で、ここでまず女の方は笑い出し、逆に会ってみようと思ったにちがいない。

  その夜、二人は久しぶりに楽しい夜を過ごしたと思われるが、男はまたまた、やってこなくなった。そこでこんどは女の歌、「山を出たと仰しゃった月影のようなあなたは、また山の端に入ってしまったのですか」というもの。

  これでは「山の端の月」などとあだ名がつきそうだ。男は油断を衝かれて言い訳をする。当然愛情たっぷりの言いわけでなくてはならない。「あしひきの山に生えている(もろかずら)をご存知ですか。そうです二葉が仲よく生えている葵の葉です。そのようにこんど山に籠る時は、ご一緒に籠りたい、そう思っている私です」。

  だがこの男、その後の消息はもうない。女は、「もろとも」の誘いが来るまでは待たなければならない返歌だ。もちろん、女がそんな男をずっと待つはずもない。だから安心だったのだ。

参考 馬場あき子氏著作
 「日本の恋の歌 ~貴公子たちの恋~」

恋の邪魔ものたち 「源氏物語」の夕霧に似た場面 (場面のある恋の歌)

2024-02-03 11:52:09 | 場面のある恋の歌
場面のある恋の歌

  馬場あき子氏著作「日本の恋の歌 ~貴公子たちの恋~」一部引用再編集

*******
恋の邪魔ものたち 「源氏物語」の夕霧に似た場面 (場面のある恋の歌)

  さて、恋には波瀾(はらん)がつきものである。じつにさまざまな場面を体験しつつ、むずかしい場面も深刻にならず興(きょう)がって歌にしている。

    春宮に鳴門といふ戸のもとに、女と物言いけるに、親の
    戸を鎖(さ)して立てて率(ゐ)て入りにければ、又の朝(あした)
    につかはしける

   鳴門よりさしわたされし舟よりも我ぞよるべもなき心地せし
    藤原滋幹

   (鳴門の激しい潮流に押し流されて漂い出てきた舟のあやうさよりも、急にあなたと隔てられた私は寄るべもない当てどなさにやりきれぬ思いです)

  「鳴門」は開閉の音が耳に立つ戸だったのか。しかし、歌枕にちなんだ興趣のある名がつけられている。その戸口で女を口説いている滋幹、せっかくの出会いの場に、向こうからやって来た親。
  女親だろうか、「こんなところにいてはいけませんよ」などとさりげなく言って娘を連れ去る。去りぎわに、「鳴門」をギイとばかりに閉めて、若い男との間をつれなく隔ててしまった。次の朝に贈った滋幹の歌に返歌はない。それも余興といえようか。

    異女(ことをんな:妻など定まった女以外の女)の文を、妻の「見む」と言いけるに見せざりけれ
    ば、怨みけるに、その文の裏に書きつけてつかしはける(つかはしけるの誤植?)

   これはかく怨みどころもなきものをうしろめたくは思はざらなむ
    よみ人しらず

  この歌は詞書にあるように、よその女から用向きの手紙がきたのを、妻が艶書かと疑って、「見たい」と言ったが、別にたいしたこともないので見せなかったところ、たいそう怨んで言うので、来た手紙の裏にこの歌を書きつけ、妻のもとにもっていかせた。という場面である。

  歌は妻が見たいと望んだ手紙の「うら」に書かれていたので、現物ともども届けたのだ。「どうぞごらんなさい、あやしい手紙ではありませんよ」といっているのだからつよい。「恨みどころ」と「裏見どころ」が掛けられているくらいの技巧だけだが、妻への洒落た答えとしてみごとである。

  「源氏物語」にも似た場面が取り入れられているのを記憶する人も多いだろう。「夕霧」の巻で、落葉宮(光源氏の女三の宮に子を産ませ、光源氏の脅迫で病気になり死亡した柏木の妻)の母君から来た手紙を夕霧の妻の雲井雁(くもいのかり)があやしんで奪い取る場面がある。
  絵巻にも描かれており、女性にとっては興味深い場面であったといえよう。雲井雁もこの場合は納得して一件は落着したが、男女ともに手紙が届く場面はつねにスリリングで、何事かの劇がはじまる予感に満ちているものだ。

参考 馬場あき子氏著作
 「日本の恋の歌 ~貴公子たちの恋~」

恋ざめ頃の男女の応酬 紀貫之など(場面のある恋の歌)

2024-02-02 14:37:30 | 場面のある恋の歌
場面のある恋の歌

  馬場あき子氏著作「日本の恋の歌 ~貴公子たちの恋~」一部引用再編集

*******
恋ざめ頃の男女の応酬

  男も女も交流が広がればどうしても疎遠になるところがあるのは当然である。しかしまた、ある男は次のような諧謔(かいぎゃく: こっけいみのある気のきいたしゃれや冗談)をもって女との間を回復しようとした。

    あひ知りて侍りける人のもとより、ひさしくとはずして、
   「いかにぞ、まだ生きたりや」と戯れて侍りければ

   つらくともあらんとぞ思ふよそにても人や消(け)ぬると聞かまほしさに
   「後撰集」恋二 よみ人しらず

    (あなたの思いやりが薄かったとしても、私はずっと生き在(ながら)えていようと思います。疎遠になった遠くからでも、あなたがこの世から消えたということを聞きたいものですから)

  これは、とても手きびしい返事。女はすっかり怒ってしまったのだ。戯れとはいっても、長い無沙汰のあとに「いかにぞ、まだ生きたりや」はひどい。男は「戯れ」のつもりでも、それまでの男の交際態度に、女は真実味を感じ取っていなかったのだろう。別れてしまって悔いのない男だったにちがいない。

  これとは反対に、同じ「後撰集」の「恋二」には女が男の愛を逆説的に確かめようとする場合だってある。

    言ひかはしける女のもとより「なおざりにいふにこそあんめれ」といへりければ

   色ならば移るばかりも染めてまし思ふ心をえやは見せける
   紀 貫之

   (もし色にたとえていうなら、あなたにこの思いの色が移るまでそめてしまおうものを、あなたを思う心の色はおみせできずに残念です)

  さすが貫之、物やわらかに、諭すように応じている。女は恋の場でいう世間一般の男の言葉と同じレベルで貫之の愛の言葉を捉え、「言ひかはしける」ことさえ軽く受け止めていたのであろう。「あれはその時の出まかせで仰ったお言葉でしょう」と言ってきたのである。
  しかし、貫之の方はかなり捨てがたい魅力を感じていたのだろう。「色ならば」という比喩も「移るばかりも染めてまし」という情の表現も美しく巧みである。とはいえ、女のがわからは、男の戯れにはいつも用心深く、真情を疑う立場に立ってみる気持ちも大事である。

参考 馬場あき子氏著作
 「日本の恋の歌 ~貴公子たちの恋~」