gooブログのテーマ探し!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

B8 紫式部日記 中宮彰子が紫式部に漢文の講釈を乞う

2021-03-31 09:36:25 | 紫式部日記
  紫式部に漢学素質があるのは、事実だから仕方がありません。学ぼうとした訳ではないのに、弟が素読するのを聞くうちに、気づいたら修得してしまっていました。でも「日本紀の御局」と言われるのは困ります。漢文を得意顔で講釈する女と思われ、人様からどれだけ嫌われることだろう。紫式部はこのあだ名の噂を耳にした時から、中宮彰子の御前の屏風に書かれた漢字さえ読めぬ振りを装いました。ところが事態は思ってもみなかった方向に進みだしました。中宮彰子が紫式部に漢文の講釈を乞われたのです。

  中宮彰子は、漢文の素養がありません。両親が近づけなかったのです。一条天皇が愛した故皇后定子は、女官だった母君の薫陶ゆえに、女ながら随分漢文ができました。ですが道長も北の方の倫子も、中宮彰子を育てるにあたっては、それに倣われませんでした。やはり漢文素養など后妃に不似合いだとお考えなのでしょう。特にかって自身がきさき候補として育てられた倫子は、漢学素養は才走りすぎて女性らしくないという感覚を持っているのかもしれません。しかし中宮彰子は、道長や倫子の考えとは別に、自ら紫式部に漢学進講を命ぜられたのです。

― 宮の、御前(おまへ)にて文集のところどころ読ませ給いなどして、さるさまのこと知ろしめさまほしげにおぼいたりしかば、いとしのびて、人のさぶらはぬもののひまひまに、おととしの夏頃より、楽府(がふ)といふ書(ふみ)二巻をぞ、しどけなながら教へたてきこえさせて侍る。隠し侍り。宮もしのびさせ給いしかど、殿もうちもけしきを知らせ給いて、御書どもをめでたう書かせ給ひてぞ、殿は奉らせ給ふ。 ー

[現代語訳]
  [中宮彰子様は私を御前にお召しになり、『白紙文集(はくしもんじゅう)』の所々を解説させたりなさるのです。紫式部は『中宮様は漢文方面のことを知りたげでいらっしゃる』と感じました。そこで人のいない合間合間にこっそりと、おととしの夏頃からですわ、『白紙文集』の中でも「楽府」という作品二巻を、拙いながら御進講させていただいております。秘密で、ですよ。中宮様も隠していらっしゃったのですが、道長殿も帝も気配をお察しになってしまいました。道長殿は漢籍の豪華本をお誂えになって中宮様に献上されましたよ。]

  中宮彰子は、紫式部に『白紙文集』を読ませたりなさる。ただ朗読するのではなく、何が書かれているか教授せよというのです。紫式部はすぐには中宮彰子の意向を測りかねました。今さら故定子に対抗心を起こし、同じ知性派のきさきになるつもりなのだろうか。美しい装身具のように漢文素養を使いこなした才気煥発な定子に、とって代わろうというのだろうか。
  考えるうち、思い当たりました。一条天皇です。
  一条天皇は漢学が好きで、詩作も堪能です。故定子とは漢詩の話題で心を通じ合わせていたと知っています。中宮彰子は、自分の愛読する『源氏の物語』に漢文素養が盛り込まれいること、そして紫式部が指南役に適任だと、一条天皇自身の言葉で知りました。紫式部を通じて漢文に触れることで、少しでも一条天皇の世界を覗きたいと思ったのではないでしょうか。

  中宮彰子は人形のような方に見えます。高貴で近寄りがたく、いつも感情を押し殺しているからです。でも、そうではありません。中宮彰子は人で、一条天皇の妻なのです。

参考 山本淳子著 紫式部ひとり語り

B7 紫式部日記 中宮彰子の懐妊 一条天皇が『源氏の物語』の作者紫式部を評価

2021-03-30 13:32:49 | 紫式部日記
  1008年春、中宮彰子は懐妊された。999年十一月の入内から丸八年余を経て、初めての懐妊です。道長はもちろん大喜びです。
  中宮彰子は入内のとき十二歳と幼いうえ、一条天皇には愛する定子がいらっしゃって、立て続けに皇子をお産みになっていました。定子は一条天皇より三歳年上、中宮彰子は八歳年下です。当時の中宮彰子は妻というより子供という存在だったのでしょう。でも、入内の一年後に定子が亡くなられてから一条天皇の寵愛を受けた御匣殿、定子の末の妹君は、中宮彰子とはたった二、三歳の違いしかありません。御匣殿は、不憫にも懐妊中の身で亡くなった時、十七、八歳でした。しかし中宮彰子はその年頃になっても懐妊の気配がなく、一条天皇にはむしろ別の女御の方に思いをかけておられるとの噂もありました。紫式部が出仕したのはちょうどその頃、中宮彰子十八歳の年末でした。

  道長は、こうした事態を見るに見かねたのでしょう、明らかな行動に出ました。中宮彰子が二十歳の1007年八月、大掛かりな「御嶽詣(みたけもうで)」挙行した。金峰山に登頂した翌十一日朝、道長が湯浴みして最初に参拝したのは、山上の「子守三所」でした。この参詣の目的が中宮彰子の子宝祈願であることを、はっきりと示したのです。
  しかし一条天皇は、このまま中宮彰子との間に男子がなければ、一条天皇の唯一の男子敦康が帝位になるだろう。それこそが一条天皇の望みでした。一条天皇は何もしないことによって、事態をずるずると自分の望む方向に持って行こうとされていたのです。ところが道長はそれに、御嶽詣という行動でもって、否を唱えました。一条天皇は摂関を置かない親政を敷いておられるが、公卿中の最高権力者である道長との関係が悪化すれば、まつりごとに悪い影響が出ることは明らかです。なにがしか道長の願いを聞かない訳にはいかない。そうして一条天皇は、中宮彰子の懐妊へと事を進められたようです。

  その頃、紫式部の耳に嫌な噂が入って来ました。以前からなぜか紫式部を目の敵にしていた女房が紫式部に「日本紀の御局(にほんぎのみつぼね)」なるあだ名を付けて言いふらしているというのです。迷惑この上ないことです。
  発端は一条天皇の言葉でした。畏れ多くも一条天皇が『源氏の物語』を読み、感想を口にされたのです。
[詳細]
  一条天皇が『源氏の物語』を女房に朗読させ聞きながら、
「この作者は公に日本書紀を講義なさらなくてはならないな。いや実に漢文の素養があるようだ」
 そうおっしゃったところ、なぜか紫式部を目の敵にしていた女房がそれを鵜吞みにして、「紫式部ときたら、たいそう漢学素養があるそうよ」と殿上人たちに言いふらし、紫式部に「日本書紀講師の女房様」などというあだ名をつけたようです。
 一条天皇が紫式部の素養に驚かれて冗談を口にされたのを、傍にいて聞いていたのでしょう。もちろん講師云々は戯言です。紫式部に敬語まで使われたのだから、たぶん笑いながら口にされたのだと思います。

参考 山本淳子著 紫式部ひとり語り

B6 紫式部日記 つながる心 親友の姉妹小少将の君と大納言の君

2021-03-29 19:13:32 | 紫式部日記
  やがて紫式部には、少しずつ彰子後宮のことが見えてきました。職場の友達もできました。

  第一の親友になってくれたのは、小少将(こしょうしょう)の君です。この方は、何と中宮彰子の従姉妹(いとこ)にあたります。父君が道長の妻倫子のきょうだいでしたが、出家して亡くなられたため、結局姉の大納言の君と共に姉妹で中宮彰子に出仕となりました。父君が出家されるまでは、明日を疑うことなど一切なかったでしょう。それが今は従姉妹に雇われる身なのです。彼女の気持ちを考えると、不憫としか言えません。
  悲しいほどにか弱い小少将の君。紫式部は自宅の女房しか知らずに、女房とはみな品のよくないものだと思い込んでいましたが、彼女は芯からお嬢様でした。「世」に阻まれて本意ならぬ人生を生きているのは、紫式部一人ではありませんでした。身分の上下を問わず、人は「世」に苛まれるのです。

  それはまた、小少将の君の姉妹である大納言の君においても同じことでした。この方は源則理(のりまさ)の妻でしたが、夫の足が途絶えてしまった(身分の高い父親が亡くなり大納言の君の家に通わなくなった)ため、やはり中宮彰子の女房になりました。ところがその可愛らしい美貌が道長の目にとまり、今は女房ながら愛人という扱いを受けています。倫子は「身内の娘だから」と大目にみている様子ですが、内心はおもしろくないでしょう。ですが大納言の君とて、望んでそうなったのではありません。むしろ、不運な姪を心配して雇ってくれた倫子に対して恩を仇で返すことになってしまい、彼女は苦しんでいました。これもまた逃れられぬ「世」なのです。

  二人とは、よく歌を介して気持ちを打ち明けあいました。例えば1008年の夏。土御門殿で、毎年恒例の「法華三十講」が営まれていたとき、夜になってもその熱気は冷めやらず、仏前の燈明と庭の篝火(かがりび)が水面に映って、辺りは昼よりも明るく輝いていました。そんな中で、大納言の君は自らこう口にされました。
 ― 澄める池の 底まで照らす 篝火のまばゆきまでも 憂きわが身かな ―
現代語訳
 [澄み切った池の底までも照らすこの篝火は、何と輝かしいのでしょう。でもその光が恥ずかしく、つらくてならない私なのです。]
  姿形の美しさも若さも備えて一見何の悩みもなさそうに見えるのに、大納言の君は心の奥深くで思い乱れていました。彼女はそれを、歌で紫式部に打ち明けてくれたのです。

  盛大な法事は明け方まで続きました。紫式部は辺りが白々とする頃局に引き上げた後も、縁側に出て外を眺め物思いにふけっていました。それから思い立って隣の局の小少将の君に声をかけ、二人並んで局の下を流れる庭の遣水を眺めました。水面には先ほどまで紫式部一人、今は小少将の君と二人の姿が映っています。紫式部は歌を詠みました。
 ― 影見ても 憂き我が涙 おち添いて かごとがましき 滝の音かな ―
返し
 ― 一人ゐて 涙ぐみける 水のおもに うき添はるらむ 影やいづれぞ ―
現代語訳
 [水面に映る姿を見ても、つらくて涙がおちてしまう私。すると、まるでそのせいと言わんばかりに、滝が水音を高鳴らせるのです。]
 小少将の君の返し
 [一人ぼっちで涙ぐんでいた。水に映る影。その隣にもう一つ、同じように憂いながら寄り添った影。あなたに私がよりそったのかしら、それともあなたが寄り添ってくれたのかしら。]

  紫式部が詠んだのは、ただ自分の愁いに満ちた気持ちだけでした。だのに小少将の君は、紫式部の愁いと彼女自身の愁い、二つを心にいれて読んでくれました。別々に泣いていた孤独な心同士ですが、今は寄り添うことができたと。
  紫式部は一人ではありませんでした。水面に浮かぶ影たちは、同じ心を持っていました。

参考 山本淳子著 紫式部ひとり語り

B5 紫式部日記 「惚け痴れ」から「おいらか」へ

2021-03-29 14:51:10 | 紫式部日記
  紫式部は、同僚たちには慎重に接しました。思えば初出仕の時には、内裏に来ても気が晴れないと溜息をついたり、わずかに話せた女房にすがったりと、無防備に自分の心をさらけ出しすぎました。職場では自宅とは別の心構えが必要なのです。こんな簡単なことを紫式部には誰も教えてくれませんでした。
  紫式部は同僚たちを観察し、いろいろな女房がいることを知りました。まず、頭から理解してくれない人、これには何をいっても無駄です。また、他人と見ればこきおろし「我こそは」と偉ぶるような人も、話しかければ批判が返ってくるだけだから煩わしい。こうした鬱陶しい女房たちとは、できれば付き合いたくありません。ですが仕事上、顔を突き合わせなくてはならないこともあります。その時は、紫式部はひそかに「惚け痴れ(ほけしれ)」を実行しました。問いかけられても、まともに答えず、「さあ、存じませんわ」「私、不調法で」などとかわして、ぼけてものの分からない人間を演じきります。相手は呆れ、やがて紫式部に構わなくなります。痴れ者と思われても一向に構いません。それは本当の紫式部ではないからです。
  そうした紫式部を見ていた同僚女房たちが、口々に言うことには。
― あなたが来ると聞いて『気取っていて、相手を威圧し、近づきにくくてよそよそしげで、物語好きで思わせぶりで、何かというと歌を詠み、人を人とも思わず憎らしげに見下す人に違いない』と、みんなで噂してあなたを毛嫌いしていたの。それが会ってみたら不思議なほどおっとりしているのですもの、別人じゃないかと思ったわよ。―

  紫式部は初めて知りました。紫式部は『源氏の物語』作者ということで、恐れられていたのです。そうした皆の思いも知らず初出仕した紫式部は何と気のつかぬ人間だったことでしょう。
  物語を作る人間ならば、もっと人の心が想像できたはずです。だのに女房たちの気持ちが分からなかったのは、紫式部に分かろうという気が無かったからです。宮仕えの要請を受けた時から、紫式部は自分のことしか考えていませんでした。
  紫式部の女房としての一歩は、ここから始まりました。惚け痴れた振りを偶然にも「おいらか」と言われて、それになりきろうと決心したのです。
  「おいらか」は、決して馬鹿という意味ではありません。それは「おっとりしている」ということです。同じおっとりしているのでも、ただぼんやりいるせいで大人しく見える「おっとり」もあれば、人の気持ちを思いやった上で穏やかにことを運ぶための「おっとり」もあります。もちろん、紫式部が目指すのは後者です。

参考 山本淳子著 紫式部ひとり語り

B4 紫式部日記 紫式部の馴れない初出仕は清少納言と同じく引きこもり

2021-03-28 15:38:47 | 紫式部日記
  初出仕の日は、この年の大晦日に当たっていました。年末年始の内裏は行事で慌ただしい。しかしそれを尻目に、紫式部は正月早々自宅に戻りました。出仕していたのはわずか数日間。その間、紫式部に話しかけてくれた女房は、なぜかほとんどいませんでした。歓待されるなどと思いあがっていた訳ではありません。ですが、「源氏の物語」作者という能力を買われて召し出されたことは紫式部にも察しがついていました。ですから、女房たちも物語を読んでくれており、それなりの迎え方を期待した気持ちもあったかもしれません。ところがそれとは裏腹に、同僚たちの態度はあまりにも冷たいものでした。清少納言も初出仕のときは泣きべそをかいていました。誰でも堅くなるのは当然です。ただ紫式部と違い、清少納言にはもともと女房としての資質があり、意欲もありました。定子と同僚たちもしきりに声をかけ、気持ちをほぐしてくれたのです。
  紫式部は引きこもりを続けました。同僚たちが原因での紫式部の苦しみを、ひきこもりという形で訴えてやりたかったのです。しかし紫式部の思いとは裏腹に、中宮彰子御前の女房からは紫式部を責める声が漏れ伝わってきました。あまりに欠勤が長引いたため、態度が大きいと見られたのです。紫式部は傷つき、憤慨せずにいられませんでした。
  今にして思えば、確かにひきこもりは長すぎました。被害者意識のため意固地にもなっていました。紫式部は周りを敵視して、頑なに自分を守ったのです。

  ひきこもりは五月までも続きました。やがて優しい声をかけてくれる女房も現れて、紫式部は職場復帰を決めました。でも中宮彰子御前の女房たちに心を開いた訳ではありません。周囲を拒みつつ、わが人生を怨みつつ、紫式部は宮仕えを再開しました。

参考 山本淳子著 紫式部ひとり語り
         源氏物語の時代