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4-4 色好みの女君たち 監命婦(げんのみょうぶ)

2023-12-28 15:19:30 | 色好みの女君たち
4-4 色好みの女君たち

  馬場あき子氏著作「日本の恋の歌 ~貴公子たちの恋~」一部引用再編集

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 4-3 のつづき

  その頃、監命婦(げんのみょうぶ)は滋望(しげもち)と忍び会いをする関係にあった。親が陸奥(みちのく)の将軍として下ったあと、滋望もまた、陸奥産出の黄金を京に輸送する役人として陸奥に下ることになったのである。
  その頃の陸奥までの行程は約半年を費やすのがつねである。監命婦の歎きは深ったが、餞別としていろいろのものを用意している。まずは装束に、「めとりくくり(いまの鹿の子絞りのような染め方か)」とよばれる特別な染め布で作った狩衣、狩衣の下に着る袿(うちき)、道中の無事を祈る幣(ぬさ)まで添えて贈り物とした。
  滋望はお礼をかねて別れの悲しさを歌に詠んで届けた。

   よひよひに恋しさまさるかりごろも心づくしの物にぞありける

   (宵々にこの狩ごろもを脱ぐにつけても、あなたへの恋しさがまさることです。心尽くしの贈り物は、また私にとっても見るたびにあなたを思う心尽くしのものです。ありがとう)

  この歌を見て監命婦は泣いたと書かれている。同じ思いが通いあったのである。命婦はせめて滋望が都に居るあいだは何かしなくてはいられない思いからか山桃を届けた。するとまた「やまもも」を詠みこんだ歌が届いた。
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   みちのくのあだちの山ももろともに越えばわかれのかなしからじを

  命婦の家は賀茂川の堤にあったので、近い川から鮎を漁って追っかけてまた滋望に届ける。こんどは「山もも」の歌への返歌をかねて鮎の歌を命婦が詠んだ。

   賀茂川の瀬にふす鮎の魚とりて寝でこそあかせ夢にみえつや

  鮎漁には鴨舟をたてたのであろうか。「寝でこそあかせ」とは、寝ずに滋望のことを思って鮎を漁っていた私を、「夢に見ましたか」といっているのだ。愛する者の姿は「思う」という心の働きを通して夢の中に入ると信じられていたからである。こうして二人の別れの時はきた。
  男はみちのくへ下る途次も、身にしみるような手紙を届けてきたが、その後、人づてに聞くと、旅の途次に空しく(亡くなる)なってしまったという。

  女はもちろん歎き悲しんだであろうが、さらにしばらくたってから、三河国の篠塚の駅(うまや)というところから、生前に滋望が書いた最後の手紙が届いた。「あはれなることどもかきたる文」であった。その人が生前に自分に宛てて書いた言葉を読む思いはどんなであろう。監命婦はまたまた沢山の涙を流して歌を詠んだ。

   しのづかのむまやむまやと待ちわびし君はむなしくなりぞしにける

  歌は常套的かもしれない。しかし「待ちわびし君はむなしくなりぞしにける」という、ごく一般的な表現に落ち着くほかない気分の終焉感には、愛する人の死ののちに、さらに改めて愛の終わりをみつめた時の生の空しさにも似た思いがあっただろう。
  監命婦という華やかな宮廷女官が、元良親王や、弾正宮(為尊親王)等々との盛んな交流が知られる中での、一つの秘められた悲恋のようにこの滋望との恋は印象に残る。
  監命婦の恋もここで終わったのかもしれない。あの鮎を漁った賀茂川の辺りの家をそののち売ってしまったようだ。住んでいた頃を回想しながら旧邸の前を通る歌が残っている。
  「ふるさとをかはと見つつも渡るかな淵瀬ありとはむべもいひけり」。
「かは」は「あれか」と旧邸を見る代名詞と、賀茂川の「川」が掛けられている。監命婦の恋にも多くの淵瀬があったことだろう。

参考 ふちせ【淵瀬】
1 淵と瀬。川の深くよどんだ所と浅くて流れの速い所。
2 《古今集・雑下の「世の中は何か常なる飛鳥川昨日の淵ぞ今日は瀬になる」などから》世の中の移りやすく無常なことのたとえ。「—のならい」

 色好みの女君たち おわり

参考 馬場あき子氏著作
 「日本の恋の歌 ~貴公子たちの恋~」

4-3 色好みの女君たち 孚子内親王(ふしないしんのう)

2023-12-26 10:46:23 | 色好みの女君たち
4-3 色好みの女君たち

  馬場あき子氏著作「日本の恋の歌 ~貴公子たちの恋~」一部引用再編集

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 4-2 のつづき

  しかし、幸いにも孚子内親王の恋は叶えられたらしく、桂宮の御所に式部卿宮敦慶親王がお住まいになるという時期があった。孚子内親王の満たされた日々、桂宮に侍(さぶら)う人々もまた敦慶親王のめでたさに憧れ、苦しい恋に悩む者もあったのである。身分や立場は、高くても低くても人を縛るが、恋の言葉は時にそれを越えて真情の美しさを伝えてくれる。

  桂宮のある夏の夕べ、宮にお仕えしている一人の少女が、敦慶親王への知られることもない恋に耐えていた。折りふし蛍が乱れ飛んでいる美しさを眺めていた親王が、この少女に「あの蛍を捕まえておくれ」とお命じになる。
  少女は汗衫(かざみ:もとは下着の一種らしいが平安時代以降、後宮に奉仕する童女が表着 (うわぎ) の上に着た正装用の服。 脇が明き、裾を長く引く)という涼しい単衣を着ていたが、その袖に捕まえた蛍を包んでごらんに入れながら歌を詠んだ。

   つつめどもかくれぬものは夏虫の身よりあまれる思ひなりけり

   (包みかくそうとしても、かくしきれないものは、ごらんのように蛍の身よりあふれる思いの火でございます)

  美しい歌である。場面も美しい。「後撰集」にはこの歌「桂のみこのほたるをとらへてといひ侍りければ、わらはのかざみのそでにつつみて」という詞書で収録されている。「桂のみこ」は孚子内親王の別称だし、「ほたるをとらへて」という物言いも甘やかだ。
  すると、この「わらは」は少年で、桂のみこへの思慕をうたったものであるとも解することができる。しかし、いずれにしても、「おもひ」は「思ひ」の「火」であるから、忍び耐えていた恋の歌の言上(ごんじょう)という場面になる。

  もっとも、「後撰集」は「恋」の歌ではなく、「夏」の歌として採録しており、「恋」の情緒を下敷きにした「蛍」の風流と考えているようだ。「大和物語」のこの逸話は「後撰集」の歌の場から発展したものであろうが、歌の主体が少女であるため場面の美しさとともに哀愁感が深い。

  愛隣な恋の逸話をもう一つ「大和物語」から引いてみよう。これは少女の恋の愛隣ではない。さきに元良親王が折々の宿所にしていた監命婦(げんのみょうぶ)の闊達な応答の様子を書いた(カテゴリー「元良親王の色好み」)が、女たちはつまるところ風雅な言葉に遊びながら、本当に心を交わしあえる対象を求めていたのである。監命婦の恋の逸話は対象の年齢の幅が広く、本人自体の年齢がよくわからないところがある。

  「大和物語」は弾正のみこや、源 宗于(むねゆき)との恋の歌の贈答を載せているが、命婦のやさしい心がにじむのは、藤原滋望(しげもち)というまだ若い蔵人所の官人との恋である。
  滋望の父は忠文(ただぶん)といって、征夷大将軍に任じられ陸奥(みちのく)に下っている。天慶三年(940)のことだ。忠文は六十八歳である。するとその子息は三十代半ばくらいであろう。この滋望は童殿上(わらわてんじょう)して宮中の風儀を見習って成人したのであり、蔵人であったとすれば監命婦と知る場面も少なくはなかったはずだ。

  ただ元良親王が天慶六年(943)五十四歳で亡くなっているので、天慶年間の監命婦の年齢はそれほど若くはないはずである。しかしもうそれは考えないで話に目を移そう。

 4-4 色好みの女君たち につづく

参考 馬場あき子氏著作
 「日本の恋の歌 ~貴公子たちの恋~」

4-2 色好みの女君たち 孚子内親王(ふしないしんのう)

2023-12-24 10:50:55 | 色好みの女君たち
4-2 色好みの女君たち

  馬場あき子氏著作「日本の恋の歌 ~貴公子たちの恋~」一部引用再編集

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 4-1 のつづき

   世の中をいかがはせまし春霞よそにもみしと人はいふなり 元良親王

   (私たちの仲はどうなるっていうんですか。春霞で見えない向こうの方で、あなたと夜を共にしたという人がいるんですよ)

   あはれとはみれどもうとし春霞かからぬ山もあらじと思へば 一条

   (あなたはとても素敵な方ですけど、私へのお心ざしは本当のものかどうか心配ですわ。春霞のかからぬ山がないように、どなたにでも恋をなさるあなたですもの)

  親友の伊勢が平中の好色を手玉に取った艶笑歌話があることは前に書いたが(注:まだ投稿していません)、二人の女友達はこうした色好みの男たちの噂や打ち明け話をすることはなかっただろうか。

  伊勢は多くの高貴の男たちとの恋を巧みに処理して、一生を才媛の名とともに保ったが、比べると血筋のよい一条の君は世間への才媛に乏しいところがあったかもしれない。壱岐守の妻となって、日本海の彼方の島に去ってゆく決意とは、再出発とはいえない。むしろ今までの一条の君を葬り去るものであろう。もちろんこの後の一条の君の消息はない。

  それは(小野)小町伝説を例とするまでもなく、色好みの名に賭けたものが人生の半ばを過ぎて、自ずと自問していた出家ともちがう後半生そのものなのかもしれない。しかし、あえて半生を北方の海に船出しようとする上臈女房の内面を思うと、きわめて現代的で限りない魅力を感じないではいられないだろう。

  宇多院の皇子敦慶(あつよし)親王は音楽の才豊かな美貌の貴公子であった。伊勢を愛し、女流歌人中務(なかつかさ)が生れている。
  人望のある風流の人として知られていた親王を、異母妹の孚子内親王(ふしないしんのう)が思慕されて、切にお逢いしたいと希っていたが、互いに身分も高く、この恋は困難も多かったろう。孚子内親王は桂宮(かつらのみや)に住んでおられたので、折ふし月の美しい夜、月と桂にちなんだ恋の歌を届けられた。

   ひさかたのそらなる月の身なりせばゆくとも見えで君はみてまし

   (久方の空ゆく月のように自由な身であったなら、どこへ行くとも知られぬようにあなたのもとに行き、心のままにお会いできますのに・・・・)

 4-3 色好みの女君たち につづく

参考 馬場あき子氏著作
「日本の恋の歌 ~貴公子たちの恋~」

4-1 色好みの女君たち 一条の君

2023-12-23 09:45:40 | 色好みの女君たち
4-1 色好みの女君たち

  馬場あき子氏著作「日本の恋の歌 ~貴公子たちの恋~」一部引用再編集

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  「大和物語」には、一首の歌に添えた短い詞書ほどの記述のなかに、色好みのはての命運が身にしみるものがある。

  「先帝の五のみこ、御むすめ、一条の君」は、清和天皇の皇子貞平親王の御むすめで、一条の君と呼ばれて、宇多院の尚侍京極御息所のもとに出仕していたらしい。元良親王とも色好みを認めあった贈答を残しており、宇多院の文化圏では伊勢と心ゆるしあった女友達であった。

  「後撰集」にはその証のような贈答歌がある。上臈女房としての華麗な日々のはて、地方官の中でも海の彼方の壱岐守の妻となって都を去っていった。

   たまさかにとふ人あらばわたのはらなげきほにあげ去ぬとこたへよ

   (まれまれにも私のことを思い出して問う人があれば、はてしない海を悲しみの息に帆を膨らませて去って行ったといってください)

  一条の君はどうしてこんな運命を選ぶことになったのだろう。「よくもあらぬことありてまかで給(たまう)て」とあるから、御所に居られないような何事かによって身を引いたのであろう。たった一行の言葉でしか語られていないが、清和天皇の孫に当たる女性としてはたいへんな決断であったろう。小野小町が文屋康秀に三河国に行こうと誘われたのを断ったのとは正反対の激しい行動である。

  一条の君はかつて伊勢とこんな贈答歌を交わしていた。手紙はまず伊勢の方から来た。久しく会う折がなかったのか、「いとなん恋しき」という消息である。ふつうなら、私もお会いしたいと思っていたところです、などというはずだが、一条の君は漫画よろしく鬼の絵を描いてやったのである。もちろん歌も添えて、

   恋しくは影をだに見て慰めよわがうちとけてしのぶ顔なり 一条

   (私が恋しいと仰しゃるのね。それならこの絵をごらんになってお心を慰めるといいわ。この顔はね、私がくつろいであなたのことを思っている貌よ)

  何という人を食った返事だろう。こんなことを言い合う女友達だからよほどの親愛関係にあったにちがいない。才媛の伊勢の方が少し押され気味の迫力だが、伊勢ももちろん返歌を書いた。

   影見ればいとど心ぞ惑はるる近からぬ気(け)のうときなりけり 伊勢

   (恐ろしい鬼の顔をみると、いよいよこの鬼に会いたく心惑いしています。絵に見る鬼はやはり遠いのです。可愛い鬼さん、やはり近々お会いしましょうよ)

  まさに親友どうしの贈答である。宇多院文化圏の花形女流二人の楽しげなひとときが浮かび上ってくる。盛りの日の元良親王との贈答もあげてみよう。

 4-2 色好みの女君たち につづく

参考 馬場あき子氏著作
 「日本の恋の歌 ~貴公子たちの恋~」

6-6 浮舟をめぐる匂宮と薫 宇治十帖 (源氏物語)

2023-12-17 12:19:35 | 源氏物語のトピック集
6-6 浮舟をめぐる匂宮と薫 宇治十帖 (源氏物語)

  馬場あき子氏著作「日本の恋の歌 ~恋する黒髪~」一部引用再編集

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6-5 のつづき

  とはいえ二人はそれぞれの心の納得のため、匂宮は侍従から、薫は右近から、浮舟の死の真相を聞きだそうとしている。薫はそして浮舟の四十九日を心をこめて取り行い、母君をなぐさめることも忘れなかった。
  こうして折にふれて浮舟に関係深い人々に誠意を示す薫であったが、その一周忌も待たず妻の姉君に当る女一宮に憧れの思いを抱き、匂宮もまた、女一宮に出仕した蜻蛉式部卿の宮皇女、宮の君に心をときめかせている。

  そうした、片時もとどまらぬ若い恋心の動きが、結局はむなしく時間の彼方に過ぎ去ってゆくのを薫は折にふれて内省することがあった。「蜻蛉」の巻の巻尾にはこうした薫の詠嘆の一首が据えられている。

   ありと見て手にはとられず見ればまたゆくへもしらず消えし蜻蛉
 「蜻蛉」 薫
    (眼前にその憧れの存在をみていながら、それは自分のものとはならず、ようやく手に入れたと思った人は、ふいに行方もしれず消えてしまった。まるで、あのはかない蜻蛉がふっといずこかへ消えてしまうように)

  ここには、大君への憧れを遂げ得ず、中君を匂宮にゆずってしまったはて、浮舟も不慮の失い方をしてしまった薫の、思いにたがう人生への慨嘆がある。身分や階級の動かしがたい制度の世にあっては、たしかに「世の中」ともいうべき人生は男女のあわいの順調か否かにかかるものでもあっただろう。

  一方浮舟は横川(よかわ)の聖に助けられて、小野の山里に扶養されていた。春が来て、閨のつま近い紅梅が咲き、しきりにその匂いを運んできた。

   袖ふれし人こそ見えね花の香のそれかと匂ふ春のあけぼの
 「手習」 浮舟

  古歌に「色よりも香こそあはれと思ほゆれ誰が袖ふれし宿の梅ぞも」という歌がある。梅の香は、梅花香を焚きしめた袖の香であり、人の香であった。梅の香に誘われて「袖ふれし人こそ見えね」と詠み、「それかと匂ふ」と言葉をつづけた時、浮舟の心にあった面影は匂宮か薫か、どちらであったろうか。

  薫は浮舟の死を右近から聞いたあと、その死に疑問を感じ、宇治に赴いたことがあった。川近くに下りて水をのぞき、泣き泣き浮舟の別荘に行って、柱に歌を書きつけてきた。語り草になった薫の悲嘆を、浮舟は小野の庵室で偶然に聞いてしまう。

   見し人はかげもとまらぬ水の上に落ちそふなみだいとどせきあへず
  

   (愛した浮舟はもう影もかたちもなくなってしまった。ただこの水の上にしきりに落ちる涙ばかりが現実だと思うと、いっそうこらえきれず涙を止めることができない)

  しかしすべては、もうはるかな時間の彼方で終焉を迎えたことだったのである。

浮舟をめぐる匂宮と薫 宇治十帖 (源氏物語) おわり

  恋の 歌の贈答のトピックは以上で終りますが、浮舟と薫の恋の関係の続きに興味のあるかたは、このブログのカテゴリー「平安人の心で読む源氏物語簡略版」の「夢浮橋」の巻を参考にしていただくと嬉しいです。

参考 馬場あき子氏著作
 「日本の恋の歌 ~恋する黒髪~」