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40- 平安人の心 「鈴虫:光源氏の満足と寂寥 出家を選んだ女たち」

2021-07-31 10:31:15 | 平安人の心で読む源氏物語簡略版
山本淳子氏著作「平安人(へいあんびと)の心で「源氏物語」を読む」から抜粋再編集

  光源氏五十歳の夏、女三の宮の持仏開眼(じぶつかいげん)供養が営まれた。光源氏が発願し紫の上も準備に加わった法事は絢爛たるものだった。とはいえ光源氏は尼姿となった女三の宮にまだ未練があり、悲しみの歌を詠むが、それにつけても女三の宮との心はすれちがうばかりである。

  女三の宮には朱雀院から三条宮が与えられたが、光源氏は女三の宮を六条院に引き留めた。彼女の住む寝殿は本来、春の町の一角に造ったものであったが、光源氏はそれを、尼にふさわしい秋の野の風情に変えさせた。虫を放し、その声を聞くことを口実に訪れる光源氏を女三の宮は疎むが、来訪を断る強さもない。
  そんな八月十五日の夕暮れ、女三の宮のもとで光源氏が世の遷り変わりを思いながら琴を弾いていると、光源氏の異母弟の蛍兵部卿宮がやって来て、夕霧や上達部(かんだちめ)たちも交えての遊宴となる。やがて冷泉院から誘いがあり、光源氏たちはこぞって院の御所に移動した。帝位を降りて軽い身となった冷泉院は喜んで光源氏を迎え、詩歌(しいか)の遊びでもてなす。その暮らしぶりは静かで落ち着いていた。

  明け方光源氏は、冷泉院と共に暮らす秋好中宮を、挨拶がてら見舞う。四十一歳の秋好中宮は、光源氏に出家の意向を漏らす。光源氏は言下に諫めるが、中宮の真意が亡き母・六条御息所の迷妄する霊を救いたいがためのものと聞くと、内心ではいたわしくも思い、胸を打たれるのだった。
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  「出家とは、生きながら死ぬということ」。自ら出家の道を選ばれた、瀬戸内寂聴尼の言葉である。ご自身の体験を踏まえてこその一言であるに違いないが、この言葉は、こと平安時代の貴族女性においても、ほとんどそのまま真実と言ってよい。
  庶民階級には、僧の妻として暮らす尼や芸能で身を立てる尼など、世俗を引きずる者がいた。だが貴族社会では、尼となれば恋人や夫との関係を断ち、世俗の楽しみを捨てて、厳しい仏道修行に励まなくてはならなかった。それでも彼女たちは、それぞれに心の救済を求めて、出家の道を選んだのである。
  動機は、大きく三つに分かられよう。何らかのできごとをきっかけに、生きる意欲をなくして出家するタイプ。また家族など大切な人を喪って出家するタイプ。そして最後に、病を得たり年老いたりして、死を身近なものと感じ出家するタイプである。

  第一のタイプは最も劇的な出家といえ、「源氏物語」の女君は多くがこれにあたる。光源氏のストーカー行為から逃れるために出家した藤壺。同じく継息子(ままむすこ)に言い寄られて、世に嫌気がさした空蝉。柏木に犯されて出産し「もう死にたい」と出家した女三の宮も、自殺未遂の果てに出家した浮舟もそうだ。
  史実では例えば、一条天皇(980~1011年)の中宮定子がいる。清少納言の「枕草子」に快活で知的な姿の描かれる中宮定子は、天皇と深く愛し合い幸福な日々を過ごしていた。しかし父の関白・藤原道隆が亡くなり、追い打ちをかけるように翌年、兄と弟がいわゆる「長徳の政変」を引き起こす。女性関係のもつれを動機に兄弟で花山法皇(968~1008年)に矢を射かけたという、痴話げんかが発端の事件なのだが、被害者が法皇であるだけに、天皇も彼らを厳罰に処さざるを得なかった。
  二人は流罪。定子は家が受けた辱めに堪えられず、絶望の中で出家した。その心は、半ば自殺に等しいものではなかったろうか。このことは当初、同情を以て貴族社会に受け止められた。だが一年後に、定子を諦められない一条天皇によって定子が復縁させられると、「尼なのに」「還俗か」と批判を受けた。運命に翻弄された痛々しいケースである。

39- 平安人の心 「横笛:落葉の宮と夕霧の出会い」

2021-07-30 13:40:51 | 平安人の心で読む源氏物語簡略版
山本淳子氏著作「平安人(へいあんびと)の心で「源氏物語」を読む」から抜粋再編集

  柏木の一周忌、複雑な思いを抱く光源氏は黄金百両を寄進して供養を行い、夕霧も誠意を尽くす。二歳の薫は歯が生え始め、朱雀院が女三の宮によこした山の幸の筍(たかうな)を噛んだり舐めたりと無邪気である。光源氏は薫を慈しみその誕生を運命と受け入れる気になったが、妻の密通の罪はまだ許せずにいた。

  秋、夕霧は柏木の妻で今は寡婦となった落葉の宮(朱雀院と一条御息所の女宮)がその母・御息所と住む一条宮を訪った。落葉の宮と想夫恋を合奏し歌を交わして、夕霧は落葉の宮に心惹かれ、また帰り際には御息所から柏木遺愛の笛を渡された。

  戻った自宅では妻・雲居雁がこれ見よがしにふて寝し、子どもたちが寝ぼけていかにも生活感に満ちている。無粋に下ろした格子を上げさせ簀子近くで柏木の笛を吹き、しめやかで雅な一条宮を思いつつ夕霧は眠った。すると夢枕に柏木が立ち、その笛を自分の子孫に伝えてほしいという。霊に感応したか子どもが泣き、夕霧は雲居雁と言い合いになるいっぽう、柏木の愛執に心を致した。

  夕霧は六条院を訪問した。折しも薫が明石女御の子らと一緒に遊んでいて、夕霧はその面差しに柏木の面影を見る。「やはり柏木の子か」とも、「まさか」とも思えて、夕霧は光源氏に一夜の夢のことを語る。光源氏は、その笛は本来、皇室に伝えられる名器だと言って自ら預かる。疑いを拭えない夕霧はさらに柏木の遺言を告げて食い下がるが、光源氏は曖昧にしらを切り続けた。
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  「笛は 横笛いみじうをかし」。そう「枕草子」に記す清少納言は、根っからの横笛ファンだったようだ。「笛」は管楽器一般を指し、その中には甲高い音の出る縦笛の「篳篥(ひちりき)」や、十七本もの竹管(ちっかん)がパイプオルガンのような和音を紡ぐ「笙(しょう)」などもある。しかし横笛が一番だと、清少納言は言う。遠くから聞こえていた音が、だんだん近づいてくるのが素敵。近かった音が離れていって、遠く微かな残響だけになってしまうのも、また素敵だと。
  文章から想像されるのは、夜だ。清少納言は邸内にいて、静かな戸外から響いてくる笛の音に耳を傾けている。楽器の中でも、笛は男性が奏でるもの。どんな殿方が吹いているのだろう? 交尾とを訪う道すがらだろうか? あれこれ思いめぐらしながら聞いている清少納言の、うっとりした表情が見えてくるようだ。

  ところで同じ「枕草子」の章段「無名といふ琵琶」には、天皇家の所蔵品、つまり御物である楽器の名がいろいろ記されていて、中には横笛もある。例えば「水竜(すいろう)」。また「釘打(くぎうち)」「葉二つ」。天皇家の宝物だけあってか、どれも意味ありげな名だ。その中でも最後の「葉二つ」は、当代髄一とされた名器だった。そしておそらくはその音色の神々しさからだろう、多くの伝説をまとう笛だった。

  説話集「十訓抄(じっきんしょう)」に記される話。ある月夜のことである。源博雅は、朱雀門の前で笛を吹いていた。彼は実在の貴族で、醍醐天皇(885~930年)の孫にあたる。管絃の名手で、逢坂の関に住む蝉丸のもとに三年通って、琵琶の秘曲を伝授された逸話でも有名だ。博雅は笛にも堪能で、熱心だった。朱雀門は大内裏の南の正門で、ここから南に朱雀大路がのびている。幅二十八丈(約八十四メートル)にもなる平安京のメインストリートだが、夜にはほとんど人通りがなかったはずだ。朱雀大路に向かっては、門を設けることが禁じられていたからだ。遠く羅城門まで一直線に続く両側には、築地塀と柳の並木だけ。しかしこの寂しさも、笛を練習するにはもってこいだったのだろう。

  以下割愛(「葉二つ」の持ち主の移り変わりと名器の理由の解説が続きます。長文なもので、残念)
  

38- 平安人の心 「柏木:薫の誕生 平安ストレス社会は病を招く」

2021-07-29 09:56:57 | 平安人の心で読む源氏物語簡略版
山本淳子氏著作「平安人(へいあんびと)の心で「源氏物語」を読む」から抜粋再編集

  年が明け、柏木は衰弱の一途を辿っていた。病床で柏木は人生を振り返る。自分が密通の罪を引き受けていま死ねば、女三の宮もかりそめなりとも哀れをかけてくれ、光源氏の怒りも解けるのではないか。悶々と悩み、柏木は密通を手引きした女房・小侍従(こじじゅう)を介して、死を覚悟した歌を女三の宮と交わす。

  その夕方、女三の宮は産気づき、翌朝に男子・薫を産んだ。産養(うぶやしない)が盛大に行われるが、光源氏は内心では喜べない。女三の宮は「このついでに死にたい」と思い出家を懇願する。光源氏は一瞬、好都合だと思うが残念な思いも交錯して許さない。だが結局は、娘愛しさに下山した朱雀院が出家の儀式を断行した。その後、物の怪が出現し、光源氏はこの事態も六条御息所の死霊の仕業だったと知った。

  柏木は女三の宮の出産と出家を聞くと危篤状態となり、見舞いに訪れた夕霧に光源氏へのとりなしと遺していく妻(落葉の宮)への配慮を頼む。親族らが嘆くなか柏木は亡くなり、女三の宮もさすがに涙を流すのだった。

  三月、薫の誕生五十日(いか)の祝いが行われた。光源氏は初めて薫を抱き、その顔立ちと無垢な笑顔を見て、父親は柏木と確信しつつも柏木を憐れむ気持ちになる。自らの老いも実感され、光源氏は涙を流す。

  いっぽう夕霧は、親友の死を悲しむなかで密通の事実を推理するに至る。夕霧は遺族らを弔問して共に柏木を悼むが、故柏木の妻・落葉の宮の女房たちは、早くも女主人と夕霧の再婚を期待するのだった。
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  「病は気から」。まるでそのことわざをなぞるようだ。「源氏物語」の柏木は光源氏に「いけず」を言われたことがきっかけで病気となり、果ては亡くなった。単純に言えば、精神的ストレスによって命を落としてしまったのだ。現代人にとっても他人ごとではない。ストレスが実際に体に悪いことは、むしろ近年の科学でますます明らかになってきている。その実例らしきものは、平安時代の実在の人物についても、いくつも確認できる。

  驚くのは、一条天皇の例だ。側近・藤原行成が、天皇自身から聞いたこととして、日記「権紀」に記している。寛弘八(1011)年五月、天皇はまだ三十二歳の壮年だった。軽い病にかかったものの、それは快方に向かっていた。だがその矢先に、一条天皇は自分の病状に関する易占の結果を聞いてしまう。「豊(ほう)の明夷(めいい)」。卦自体は決して悪くないものだが、気味が悪いのは、村上天皇(926~967年)や醍醐天皇の崩御の折にも出た卦だということである。
  実はこの占いは藤原道長が学者に命じて行わせたもので、本来は天皇の耳に入れるはずのものではなかった。だが、あまりの結果に道長は動揺、天皇が臥す夜御殿(よるのおとど)の隣の部屋で、僧とともに声を上げて泣いてしまった。帝は何事かと几帳のほころびから覗き、全てを知ることになった。その結果、病状は急変。一か月後には本当に亡くなってしまうのだ。占いは当時、一種の科学と信じられており、天皇には死の宣告となった。死ぬと信じたことで一条天皇は命を奪われたのだ。

  今も昔もストレスは怖い。藤原道長が栄華を獲得する道とは、大勢の人にストレスを与える道でもあった。ストレスよりも怖いのは、人にストレスを与える人間である。

37- 平安人の心 「若菜下後半:柏木の密通 光源氏は柏木に怨恨を抱く」

2021-07-28 09:27:10 | 平安人の心で読む源氏物語簡略版
山本淳子氏著作「平安人(へいあんびと)の心で「源氏物語」を読む」から抜粋再編集

  紫の上は病状が重く六条院から二条院に移されて、光源氏は看病にかかりきりになる。その間に六条院では、柏木が結婚してなお女三の宮への思慕を止められずにいて、女三の宮の寝所に忍び込み、密通の罪を犯していた。意に沿わぬ不倫に女三の宮はうちのめされる。
  いっぽう二条院では紫の上が息絶え、光源氏が慌てて加持をさせると、調伏(ちょうぶく)されてあの六条御息所の死霊が出現。紫の上はかろうじて蘇生した。

  六月、紫の上がようやく小康を得た頃、女三の宮が懐妊する。光源氏は多少の不審を感じつつも特に気にせずにいたが、柏木から女三の宮への恋文を発見し、密通の事実を知る。かつて光源氏が藤壺と犯した罪を思い出しながらも二人を許せない光源氏。いっぽう柏木と女三の宮も、光源氏に知られたと悟り、それぞれに罪の意識におののく。

  光源氏は苛立ち、女三の宮にくどくどと当てこすりを言う。光源氏にはこの密通が、若い柏木と女三の宮による老いた自分への裏切りと見えていたのだった。柏木とは怒りから半年間交際を絶ったが、朱雀院の御賀の試楽で柏木が久しぶりに六条院を訪れると、光源氏は怨恨を抑えがたく、じっと見据えて「老いた自分を笑っているのだろう」と悪意に満ちた皮肉を放つ。柏木はうろたえ、気を病んで衰弱していく。年末になってようやく催された朱雀院御賀も、柏木の病のために興の削がれたものとなってしまったのだった。
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  「源氏物語」には医者の姿が見えない。平安時代には医者はいなかったのだろうか。

  そうではない。現代の医者に当たる人々は、朝廷の「典薬寮(てんやくりょう)」なる役所で要請され、貴族や庶民のために診療を行っていた。丹波氏・和気(わけ)氏という二つの家から代々名医が輩出し、その一人、丹波康頼は「医心方」という三十巻の大著も残した。ただ、彼らの地位は低い。役所トップの典薬頭(てんやくのかみ)でもやっと従五位下相当。つまり貴族としては最下級だ。医者はこの時代、セレブではなかったのだ。

  説話集の「古今著聞集」(295話)に、面白い説話がある。藤原道長が物忌みで家に籠っていたところ、よそから瓜が贈られてきた。道長はこれを怪しみ、まず陰陽師の安倍晴明に占わせた。晴明は瓜の中から一つを取り出し、それに凶相があるという。そこで僧が加持をすると、瓜は動き始めた。邪気が現れたのだ。ならばその邪を治せと道長が言う。ここで医者の出番だ。瓜を矯めつ眇めつ(ためつすがめつ)見て、二カ所に針を立てると、瓜はもう動かなくなった。最後に武士が刀で瓜をすぱりと割ると、中には小さな蛇がとぐろを巻いていた。これが邪の正体だったのだ。針は正確にその左右の目に刺さっていたという。つまり医者とは、要人を守るいわばSPチームの一人だった。そしてその仕事は、僧の加持祈祷によって邪気が姿を現した後に、それを鎮めることだった。
  「源氏物語」で病気というと即座に登場するのが僧であって医者ではないのは、加持祈祷のほうが優先順位が先だからなのだ。加持祈禱で治ってしまえば、医者の出番はない。

  だが治らない場合も「源氏物語」にはあるのに、それでも医者が描かれないのは、おそらくその仕事内容のせいだろう。医者は病人の側近く仕える。僧もそうだが、こちらは出家している。だが医者は生身の人間のままで患者の身に密着し、時にはその肌を見たりさわったりすることすらある。貴族階級には、これは無礼とも感じられることだった。特に姫君たちなど、他人には顔すら見せることを恥じた時代で、羞恥心は計り知れない。実はそのため、医者はイメージ自体あまり芳しいものではなかった。

36- 平安人の心 「若菜下前半:光源氏の身勝手な人生に満足する姿は紫の上の苦しみであった」

2021-07-27 09:43:13 | 平安人の心で読む源氏物語簡略版
山本淳子氏著作「平安人(へいあんびと)の心で「源氏物語」を読む」から抜粋再編集

  蹴鞠の日以来、女三の宮を忘れられなくなった柏木は、垣間見のきっかけとなった猫を東宮を通じて手に入れ、女三の宮の身代わりのように可愛がって、縁談にも耳を貸そうとしなかった。

  四年が過ぎ、冷泉帝は二十歳の東宮に帝位を譲った。東宮には明石女御所生の六歳になる皇子が立ち、光源氏の血は外孫を通じて皇統に入ることとなった。だが光源氏は、我が秘密の子である冷泉帝の皇統が途絶えたことを内心寂しく思う。十月、光源氏は紫の上、明石女御、明石の君、明石の尼君も連れて、住吉大社にお礼参りを行う。その華やかさは、世に光源氏一族の繁栄を見せつけた。

  女三の宮は二十歳を過ぎてもいとけない性格のまま、今や光源氏の訪れは紫の上と並ぶほどになっていた。その頃、光源氏は翌年の朱雀院の五十賀(ごじゅうのが)を六条院で催すことを思い立ち、賀の余興のため、女三の宮に琴を教え込む。正月、稽古の成果を披露する形で内輪の女楽(おんながく)が催され、明石の君が琵琶、紫の上が和琴(わごん)、明石女御が筝の琴で、女三の宮の琴と合奏した。女たちはみな美しく、演奏も華麗を極めた。

  その翌日、光源氏は紫の上に向かって満足げに人生を振り返る。その言葉の中で、紫の上は自分の苦しみが理解されていないことを悲観し、光源氏との間に心の齟齬を感じて、前年から乞うていた出家を改めて願い出る。しかし光源氏は許さなかった。紫の上はわが人生を顧みながら独り眠ったが、翌朝から胸を病む。
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  住吉大社は「住吉さんと呼ばれている。ただ「すみよしさん」ではなく「すみよっさん」。身近にあって、人々に愛されている神様なのだ。
  大阪市を南北に貫く上町大地のほぼ南端にあって、現在は海岸線からはほど遠い。だが、かつてはこの地が、「難波江(なにわえ)」と呼ばれた大阪湾の岸辺だった。当時をしのばせる「佐竹本三十六歌仙絵巻」の図を見れば、白砂青松(はくしゃせいしょう)の浜には、名物の松、そして鳥居と社殿。みな西を、つまり海の方角を向いている。この社の神は海の神なのだ。祀られている三柱の男神は、「古事記」「日本書紀」によれば、イザナギノミコトが禊をした際に海の中から生まれた神という。海上交通の平安を祈って、遣唐使の発遣(はつけん)の折には朝廷から幣(ぬさ)が奉納された。

  だがこの神、文学作品に現れる限りでは、妙に人間臭い。たとえば紀貫之は、土佐守の任を終えた帰京の旅で、この住吉を通過した。後に振り返り、「土佐日記」として記される船旅の、ようやく終わりに差し掛かったころである。突然風が出て、漕いでも漕いでも船が進まない。船頭が言うには「住吉の神は一癖ある神で、物を欲しがっている」らしい。だが幣(ぬさ)を奉っても、風は一向にやまない。「もっと神の嬉しがる物を」と言われ、大切な鏡を海に投げ入れるとどうだろう。たちまち波が静まり、海面はまさに鏡にように凪いだ。

― 「ちはやぶる神の心を荒るる海に 鏡を入れてかつ見つるかな ー(神様の御心を、荒れた海に鏡を入れることで、しっかりみてしまったよ。海の旅を守る御心も、かたや現金な御心もね)」。

  住吉といえば、「すみの江(澄んだ入江)」という名も、憂さを忘れるという「忘れ草」が咲くことも、かわいい名前の「岸の姫松」でもしられていて優美揃いのようだが、いやはやそんな優しい神ではない。というのが、「土佐日記」が漏らす感想である。だがこれは、貫之一流のひねりだろう。おそらく貫之は、住吉辺りで神がかりめいた目に遭ったことが、本当は嬉しいのだ。平安時代、住吉は「和歌の神」としても崇められていたからである。